いつか中指を立てる日/映画『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』

アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル(監督:クレイグ・ガレスピー 2017年アメリカ映画)

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トーニャ・ハーディング・スキャンダル

フィギュアスケート選手、トーニャ・ハーディングのことはリアルタイムで覚えている。

それは1994年、ライバル選手の襲撃に加担した事件と、リルハンメルオリンピック出場時における一騒動の件だ。その一騒動とは演技失敗の直後、これは靴紐のせいだと審判員たちに涙ながらに訴え、演技をやり直させてほしいと訴えたことだ。当時は「ライバル襲撃をするようなビッチのわざとらしい嘘泣きと図々しい再演技要請」という形でマスコミやバラエティの物笑いの種となっていた。TVを見ていたオレも「ガツガツしてこすからい女」と一緒になって嘲笑した。

その後襲撃事件の判決によりフィギュアスケートの道を絶たれたトーニャはプロレス出場を噂されたりプロボクサーに転身するなどしたが、「ダーティーイメージのビッチが堕ちる先のイメージそのまんま」とやはりオレは嘲笑していた。

だからそんなトーニャ・ハーディングのスキャンダル事件が映画化されると知った時は「クソビッチのトーニャが釘バットぶん回しながらクソスキャンダルに突入してゆく様を面白おかしく描いたキワモノ映画」程度のものだと思ってたし、同時に「なんで今更あんなすっかり忘れられたような昔の人を」とも思った。とはいえ、ポスターで見るトーニャ役のマーゴット・ロビーのふてぶてしい面構えはどこか黒々としたワルの魅力に溢れており、それに惹かれて映画を観ようと思ったのだ。

しかし映画が始まってすぐ、オレは自分がすっかり間違っていたことに気付かされた。これはクソビッチのクソスキャンダルを面白おかしく描いた作品なんかでは決してない。そんな作品では全然なかったのだ。

貧困と無知と虐待とDV

物語はトーニャを始めとする家族や当時の関係者のインタビューの形で描かれることになる。そこで明らかになってゆくのは、幼い頃から抜群のスケートの腕を持つトーニャ、そのトーニャを虐待に近い形でしごかせる愛情薄い母親、そんな二人のホワイトトラッシュとも呼ぶべき貧困生活、冷酷な母から逃れる形で始めた結婚生活、しかしその夫の度重なる家庭内暴力、といったものだ。

そんな最低の生活の中、トーニャは自らにできるたったひとつのこと、フィギュアスケートで最高の栄冠を勝ち取る事だけを心の寄る辺として生きてゆくのだ。しかし、彼女を取り巻くクズどもの、貧困と、そこから生まれる無知と、無知が生み出すアンモラルと、アンモラル故の暴力性が、栄冠間近のトーニャを地の奥深くへと引きずり込んでゆくのである。

ホワイトトラッシュに生まれ、そこから這い上がろうとしながらも、貧困ゆえに蒙昧な有象無象に引き摺り降ろされるという地獄。どんなに才能があろうと努力を重ねようと、貧困という名の魑魅魍魎は、どこまでも彼女を離さない。出てくる男は全員救いようのない馬鹿揃いでこれには戦慄させられる。ただ一人の肉親である母は毒親で、利己的で、愛情の欠片すらない。

その結果が「ナンシー・ケリガン襲撃事件」であり、「もう後がない」状態で出場したリルハンメルオリンピックにおけるやむにやまれぬ醜態だった。

すなわちこの物語は、フィギュアスケートだけを頼りに、貧困と無知と虐待とDVに塗れた人生から逃れようとしつつ、決して果たせなかった女性の絶望の物語じゃないか。「じゃあどうしたら」と言ったところで答えなんかどこにも無い。この物語には【愛】すら無い。どこまでも切なく、遣り切れない。この遣り場の無さにオレは映画『スリー・ビルボード』並みの重い衝撃を感じた。打ちのめされる思いだった。

いつか中指を立てる日

と同時にこの映画は、当時のトーニャを巡る騒動に加担しそれを煽ったマスコミと、訳も知らずに彼女を断罪し嘲笑した一般大衆へも一石を投じている。この作品は物語内で演者が観客に直接語り掛けるいわゆる「第4の壁を破る」形式を時折取るが、この中で主人公トーニャが観客になぜあのように自分を嘲笑したのかを問い掛けて来る場面があるのだ。当時マスコミの流す言説のままに彼女を笑っていたオレはこの時痛切に自分を恥じた。なんとなればオレも加害者の一人だったのだ。

トーニャ・ハーディングは溢れる才能と技術がありながらなぜ評価されなかったのか。競技審査員に嫌われたのか。それは芸術性が低かったからだ。確かにYouTubeで観た彼女の演技は技術こそ確かだったのだろうが無骨極まりないものだった。でも、オレには分かる。貧乏人に、ゲージツになんて、関わってる余裕なんかないんだよ。贅沢品なんだよ。貧乏人は、ガツガツしなきゃ生きていけないんだよ。気を抜いたら、現実に捻り殺されるんだよ。

ポスターの中に立つマーゴット・ロビーのふてぶてしい面構え。それは、このどうしようもなくクズで、決して変えようもない現実への敵意と怨嗟がない交ぜになった表情だったのだろう。そして彼女は戦い、叩き潰される。「アメリカン・ドリーム」という名の耳障りだけはやたらいい虚妄に。この救いの無い物語の教訓はいったいどこにあるんだろう?例え自らの血反吐の海に沈みながらも、「ふざけんじゃねえこのクソタコ!」と中指立てる事だろうか。それは最後のなけなしの意地なのかもしれないけれども、オレもこの現実との負け戦に敗れる時は、そのぐらいのことはしてもいい、と思った。


女子フィギュア史上最もスキャンダラスな事件『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』予告編

氷の炎―トーニャ・ハーディング

氷の炎―トーニャ・ハーディング

  • 作者: アビーヘイト,J.E.ヴェイダー,オレゴニアン新聞社スタッフ,Abby Haight,J.E. Vader,The Staff of The Oregonian,早川麻百合
  • 出版社/メーカー: 近代文芸社
  • 発売日: 1994/04/01
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酒映画ベストワンは『地球に落ちてきた男』

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《お酒映画ベストテン》……ではあるが

ブログ『男の魂に火をつけろ!』 の映画ベストテン企画、今回は《お酒映画ベストテン》とのこと。締め切りも間近なので急いで参加させていただきたいと思います。

とはいえ……オレにとって『酒映画』といえばもうこれしかありません。この一作の一点買いでお願いいたします。

1位:地球に落ちてきた男 監督:ニコラス・ローグ 1976年 イギリス映画 酒の種類:ジン

デヴィッド・ボウイ主演のこの作品はオレにとって相当思い入れの深い作品で、かつて『SF映画ベストテン』を選出した時にも第1位にしたほどでした。

ではこの作品がどのように『酒映画』なのかボチボチ紹介してみましょう。

『地球に落ちてきた男』の物語

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ウォルター・テヴィスの同名小説を『赤い影』(1973)のニコラス・ローグが映画化したものが本作となる。
ニューメキシコ。ある日そこに一機の宇宙船が落下する。降り立ったのは人間の姿をした痩せ細った一人の男。男はトーマス・ジェロームニュートンと名乗り、幾つもの高度に進んだ科学的特許を取ることで巨万の富を得る。

実は異星人ニュートンにはある目的があった。彼の故郷の惑星は大旱魃に襲われ水が枯渇していた。ニュートンは水の惑星・地球に訪れここで水を確保した後、莫大な資産で宇宙船を建造し故郷の星に持ち帰ろうとしていたのだ。

しかし彼の存在を怪しんだ政府は彼を監禁し、正体を知るために人体実験を開始する。監禁された部屋の中、孤独と故郷の星に帰れない悲しみから、次第に酒に溺れるようになってゆくニュートン。そんなある日、彼は故郷の星が滅亡した事を知る。 

映画としての『地球に落ちてきた男』 

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この作品はオレのブログで何度か取りあげているので、その時書いたレヴューをここに抜粋しておきます。 

"15歳の時に観て、観終わった後まだ夢を見ているような気分になっているような映画だった。映画館を出た後の現実の光景の白々した光が逆に非現実的だった。

この映画は、「自分の居場所はここではなく、どこか他の場所にあるのかもしれない」ということ、そして「でもだからといって、そこにはもう帰れないのかもしれない、自分は、場違いな場所で生き続けるしかないのかもしれない」というテーマを描いていた。

「愛してくれている人は本当は君の事なんて何も理解してなくて、そして、本当に愛していた人達は、もうとっくに死んでしまっているのかもしれない」、そして、「つまり、君は一人ぼっちで、孤独で、理解不能な有象無象の中で、一人で生きなくちゃならない」という《孤独》についての物語であり、「音楽を作ってみた。死んでしまったかもしれない家族が、ひょっとして聞いてくれるかもしれないから」という、《表現とは何か》という物語であり、ラスト、「ニュートンさん、飲みすぎですよ」のコメントで終わるこの映画は、《飲酒》についての映画でもあるのだった。

孤独についてこんなに鮮やかに描いた映画を他に知らない。そしてこの頃のボウイは性別を超越した恐るべき美しさを湛えている。とても静かな映画で、観る人を選ぶ映画でもあるが、ボウイの美しさを堪能したいなら一度は鑑賞すべき。また、当初ボウイの主演映画はSF作家ロバート・A・ハインラインの『異星の客』が原作になる筈であった。この小説の主人公もこの当時の異星人としか思えないようなボウイの雰囲気に奇妙にダブっており、ボウイを知る上でのサブテキストとして面白い。"

"酒映画"としての『地球に落ちてきた男』

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これも以前書いた記事からの抜粋です。

村上春樹の小説『風の歌を聴け』の中で、ポール・ニューマン主演で映画化もされたテネシー・ウィリアムズの『熱いトタン屋根の猫』という戯曲の一節が言及されていたのを覚えている。そこで言われていたことは、酒は、ある程度飲むと、頭の中で「カチッ」と音がする、のだという。スイッチの切り替わる音なのだろうと思う。その時、やっと人間らしい気分になるということなのだろう。

社会で生きていく以上、人は何がしかの役割を演じなくてはならない。それは常識的社会人であったり、有能な会社人であったり、よき家庭人であったり、あるいはどこにでもいる学生であったりするのだろう。あるいは決して突出しない中庸さや物分りのよさ、人当たりのいい柔和さなどを兼ね備えた人間であろうとしてしまう。

それはしかし漸うとして見えない社会の要求する「自分」ではあっても、本来持ち合わせている「自分」とはどこかに「ずれ」がある場合が多いのではないか。人はその「ずれ」から立ち戻る為に酒を飲むのではないか。要するに、そんなに真人間の振りばかりしてたら、疲れちまう、って事だよ。

はたまたあるいは、こちらのほうがこの作品のテーマに沿っているのだが、空虚さ、孤独さを埋める為に、あたかも鎮痛剤を服用するように酒を飲むこともあるだろう。生というそれ自体が「死に至る病」であるものから痛みを取り除く為に。

かつてアル中だったスティーヴン・キングは、自身の小説の中でも酒に溺れた人間たちをよく登場させていたが、特に凄い描写だったのは長編『トミーノッカーズ』の中のエピソードだ。主要人物の一人はかつてアル中だったのだが、この男が酒により破滅寸前まで追い詰められた過去の記憶が、本編と全く関係なく50ページあまりも執拗に描かれるのである。その長さと描写の克明さは、登場人物の性格の肉付けをするためというにはあまりにも異常だ。この一章には作者キングのアルコールというもの、そして酒を飲む、という行為への苦さと破滅的な憧憬が詰りまくっていた。アル中小説として読んでも白眉であると思う。

酒を飲む、という事は、ちょっとづつ死んで行く事なのだ。飲酒癖と自殺願望を結び付けて語られる事は多いけれど、逆に見れば、自分の現実をその都度リセットしたい、という人間的な願望なんじゃないのか。どっちにしろ、「自分であること」に強い希求心を持ってる人のほうが酒好きなような気がするな。ただオレは、「酒は物事を解決しない。酒は物事を先送りさせるだけだ」という一言が、酒のある面を説明しているのも確かだと思う。”


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シッペー怒涛だった

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シッペー報告だった

シッペー(つまり疾病)については書くのも読むのも苦手である。まずネット上で書くと大袈裟に伝わってしまう。風邪なんて人生で1万回ぐらい引いているだろうが、ネットで「風邪ひいた」なんて書いてしまうと限りなく重篤な呼吸器疾患を引き起こし意識朦朧入院点滴状態であるかのように伝わってしまうのだ。たいしたことでもないのに心配をかけてしまう。これが苦手だ。

個人ブログの疾病報告も苦手だ。これは最初に書いた「大袈裟フィードバック」の逆パターンで、今度は読んでいるオレが過剰に反応し、ちょっとした擦り傷の報告すら満身創痍入院手術状態であるかのように思えてしまうのである。本人にはたいしたことでなかったとしても、妙に心配してしまう。苦手だ。

同時に、人様の疾病を目の当たりにすると、人間というのは肉体にしても精神にしても脆く傷つきやすく確実に摩耗し老いてゆく存在であるであることをどうしても認識せざるを得なくなってしまう。実の所それは現実ではあるけれども、それを意識させられることが、やはり苦手なのだ。

とまあここまで長々と書いておいてなんなんだが今回はオレ個人のここ最近のシッペー報告である。あれがイヤだこれがイヤだとグダグダ言っておきながらなぜそのシッペー報告をするのかというと、オレにはネット上で古くから知己の方が幾人かおり、それらの方への現状報告といった意味がある。それとこのブログは日記でもあるので、「2018年のこの頃はどんな健康状態だったか」を記録しておきたいというのがある。そういった内容なのでこのブログ主には何の興味も無いという方は当然ながらさっさとブラウザを閉じてもらって構わない。ではぼちぼち行ってみよう。

あちこちガタが来やがるのだった

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まず今年の初め頃、膝を痛めてしまった。これは仕事のシフトが変わり、ほぼ一日ゲンバで歩き回るようになったからという理由があるだろう。これにより一日における歩行歩数は1万5千歩を超え、2万歩に届く日もあった。それが祟って膝が不調を起こし、痛みがひどくなり仕舞いに殆ど歩くことが出来なくなってしまった。後で知ったのだがどうやら冷やしたのがまずかったらしい。薬局でサポーターを買い暫く仕事中はそれをして過ごしたが、痛みを気にすることが無くなるまで一ヶ月以上掛かった。自分はこの歳になっても肩や腰を痛める事が殆ど無い人間だったので、膝に来たのにはびっくりさせられた。今現在は特に痛みは無い。

3月になって今度は口中の歯茎が腫れまくるという異常事態に至った。おまけに知覚過敏が酷くなり冷たい物を口に入れると沁みまくる。オレは日本酒など体を温めるタイプの酒を飲むとてきめんに歯茎に来るので気を付けていたのだが、今回は慌てて歯科医に出向いた。まあしかし歯医者に行ってもこの手の疾患は「ちゃんとブラッシングしてください」で終わってしまう。とりあえずブラッシングを頑張ってほぼ腫れは引いたのだが、今度は奥歯の一本がずっとグラグラする。歯医者からは「あまり酷い場合は抜かなくちゃいけないかも」と脅かされ、この歯の隣がもともと無いものだから「オレもいよいよ入れ歯か……」と暗澹たる気持ちになった。

グラグラしている歯は実に陰鬱に痛み、鎮痛剤を常用する羽目になったが、今度はそれと時期を同じくして花粉症が発症、鼻水が止まらず頭が重く、これも鼻炎薬を飲まねば収まらない。しかし鎮痛剤と鼻炎薬を同時に飲むのはさすがにマズイだろと思い、常にどちらか重い方の薬を飲むことになった。まあ実際の所鎮痛剤で済んだが。とはいえ一週間鎮痛剤を飲み続けた時には「これヤヴァイんじゃないか」とやはり暗澹たる気持ちになった。その後辛抱強くブラッシングした所歯茎の痛みは収まったが、今だ歯のほうは微妙にグラグラしている。

歯茎が痛むためと歯がグラグラしていた為、食事をするときには痛くない側だけを使って咀嚼することになり、そのせいもあって固いものが食べられなくなった。さらにやはり片側だけだと食べ物がきちんと咀嚼されていないようで、今度は胃が痛むようになった。これも歯茎の痛みが治まり比較的きちんと咀嚼できるようになってから収まったが、歯が悪いと体も悪くするなあとしみじみ思った。

それとこれはシッペーということではないのだが、以前より右目の下瞼に脂肪の溜まった袋状のものが出来ており(「霰粒腫」というらしい)、これは痛いわけでもないので20年近く放置していたのだが、見てくれもよくないのでそろそろ切除しようかと思い眼医者に行ってきた。簡単な手術と一針のみの縫合で、眼帯も半日のみ。しかし半日とはいえ片目だけの生活は難儀した。出血は僅かで多少の腫れこそあったが術後は良好で、手術の一週間後に抜糸して終了となった。この治療をした時「そういやオレ、これで耳と口と鼻と耳、頭部器官全部の医者に行った事になるな」と妙な感慨を抱いた。いや、あとは脳か。これはイヤだな。

報告は以上になる。現在の所特に痛い所も痒い所も無いのだが……実は鼠径部に近い右わき腹に時たま微妙な不快感がある。なんだろなーと思いつつ様子見しているところだ。

終わる世界/映画『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー (監督:アンソニー・ルッソ ジョー・ルッソ 2018年アメリカ映画)

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マーベルヒーロー総出演映画『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を観てきました。今回はなるべくネタバレ無しで書くつもりです。

最初に白状しちゃうとオレ、MCU、いわゆる「マーベル・シネマティック・ユニヴァース」映画って正直楽しめなかった作品が多くて、全然思い入れがないんですよ。最初の『アイアンマン』から『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』あたりまでは面白く観てたんですが、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』、あれがダメだった。辛気臭くて。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』1,2作目は凡作にしか思えなかった。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』に至ってはお題目が多くてイラつかされた。

そんなオレなんですが、今作『インフィニティ・ウォー』は「アベンジャーズ全滅へのカウントダウンが始まる!」とか言ってるんで、「そろそろ最後みたいだしハナシのネタにちょっくら観とっか」程度の興味で劇場に行ったんですけどね。

そしたらアナタ。これが。メチャクチャ凄まじい映画だったじゃないですか!?

いやあ、よくもこんな情け容赦ない映画作ったもんだ。感服しました。今までブログやツィッターMCU貶したこともありますが、ここで全面降伏します。オレが悪かった。MCU製作者の皆様並びにファンの皆様、本当にスイマセン。

(とはいえ、「全然思い入れがない」とか言ってるくせに、調べたらMCU作品全部観てるんだよなあオレ……最近のだって『ドクター・ストレンジ』や『ブラックパンサー』なんか大絶賛だったんじゃんかよオレ。「好きじゃない作品もあった」ぐらいでMCUを全否定してたのかよオレ。実は好きな事認めたくなかったのかよオレ?このヒネクレモノ……)

メチャクチャ凄まじい、と思わされたのは、「これまでの全部のMCU作品はこの『インフィニティ・ウォー』の為に用意されていたんだな」と思わずにはいられない巧妙極まりない構成を感じさせてくれたからですね。

あのキャラも、このキャラも、どれもみんな無駄じゃないんだよ!それぞれにきちんと役割があって見せ場があるんだよ!特にガーディアンズ!オレ最初に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』がつまんなかったって書いたけど、この『インフィニティ・ウォー』でのガーディアンズの連中、誰も彼もが愛おしくてカッコよくて、オレみんな好きになっちゃったよ!そう考えるとガーディアンズ1,2作目を観ていたことは、実はまるで無駄じゃなかったってことなんだよ!

それともうひとつ驚かされたのは、ケツアゴならぬキンタマアゴをした最大の敵、サノスのキャラクターでしょう。大概このテの敵キャラというのは冷酷で非人間的で非人格的な存在として登場するんですが、このサノス、あろうことか人間的なんですよ。確かに冷酷かつ悪逆な狂気に囚われたキャラクターではあるんですが、きちんと人格のある存在として描かれている。ここにはびっくりさせられた。そしてそれにより物語に非常に深みを与えることに成功している。

そしてとてもよかったのは、お話がとてもシンプル、これに尽きるでしょう。いろいろ因縁なり前作までのわだかまりなりが描かれもしますが、基本となるのはヒーローたちとサノス軍団の、勝つか負けるかというその戦いです。要するに、どっちが強い?というアクションが延々と描かれている。「そんな単純な話じゃねえ」と言われそうですが、少なくとも単純化して観る事が十分可能だ。そしてこのパワーバランスのシーソーゲームが、善だ悪だという能書きを逸脱してくれて、いっそ清々しいぐらい楽しい。

それと、ガーディアンズの流れもあって、物語の舞台が半分ぐらい宇宙(の他の星)だっていうのもいい。MCUに限らず、そもそもこのジャンルのヒーローモノっていうのは地球のどこぞの都市が襲われて、善良な市民の皆さんが逃げまどう中、ヒーローが正義の為に立ち上がる!てなお話が多くて食傷していたんですよ。ただし宇宙ばかりだと今度は逆に絵空事のように思えてしまう。地球と宇宙半々のバランスがいいんですね。

そしてもちろん、最高にメチャクチャ凄まじいと感じたのは、「アベンジャーズ全滅へのカウントダウン」というヤヴァい内容にあります。「情け容赦ない」と思ったのはそんな部分だった。この辺はネタバレになるから詳しくは書きませんが、心の準備していても「え!?ウソ!?ホントに!?いいのコレ!?」と驚愕しちゃうんですよー。

ヒーロー死なせてショッキングさで売る、というのはあざとく感じるかもしれませんが、原作のアメコミでも結構殺しちゃってる作品もあるみたいだし、そもそも、こういった物語の、「回を追うごとに敵がインフレーションを起こす」という定石を、一回リセットしちゃう、っていうのは賢い判断じゃないのかな。MCU作品が今後どうなっていくのかは知りませんが、次作『アベンジャーズ4』で綺麗な一区切りが着けようとするのは、作品的にも正しい事なんじゃないでしょうか。


「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」本予告

『スタートボタンを押してください ゲームSF傑作選』

スタートボタンを押してください (ゲームSF傑作選) (創元SF文庫)

『紙の動物園』のケン・リュウ、『All You Need Is Kill』の桜坂洋、『火星の人』のアンディ・ウィアーら、現代SFを牽引する豪華執筆陣が集結。ヒューゴー賞ネビュラ賞星雲賞受賞作家たちが、ビデオゲームと小説の新たな可能性に挑む。本邦初訳10編を含む全12編を厳選した、傑作オリジナルSFアンソロジー。

ビデオゲームは好きだ。好きなんだがやれてない。仕事が終わって家に帰り着くと大概疲れていてゲームをする気力が無くなっているからだ。映画みたいな受動的なメディアなら寝転がって気楽に観ていられるがゲームは能動的にアクションしなければならないので体力がいるのだ。あとまあ家帰ると酒飲んじゃうってのもあるなあ。

そんなゲームやれてないオレではあるが、「ビデオゲームをモチーフにした短編SFアンソロジー」がリリースされると聴いて実に心が躍った。ゲームにSF、オレの好きなものがカップリングされた夢のような企画ではないか。カレーライスにトンカツが乗っかって二倍お得なカツカレーの如き満足感ではないか(どういう比喩だ)。

今回紹介する『ゲームSF傑作選/スタートボタンを押してください』は2015年に出版された短編SFアンソロジー『Press Start To play』を元に、そこに収められた26編から12編の作品を翻訳収録している。執筆者はケン・リュウ、アンディ・ウィアーといった新時代SFの旗手から日本人作家・桜坂 洋、あとはエトセトラエトセトラといった感じだ。要するに名前に馴染の無い作家という事だが、本書のバイオを読むと「あの作品に関わったあの人か!」という作家も意外と多かった。

ビデオゲームがモチーフのSF」ということだが、一口にゲームといってもジャンルは様々、テキストアドベンチャーからFPSサバイバルホラー、シミュレーション、MMORPGなどなど、いろいろなビデオゲームが題材にされている。また、ゲームのもつある特徴を抜き出しそれを膨らませて物語にした作品もある。それは「1アップ」「NPC」「神モード」「キャラクター選択」といった作品タイトルからも伺えるだろう。特に桜坂 洋「リスポーン」にはゲーム自体は登場しないけれども、"リスポーン(何度も生まれ変わる)"といったゲーム特性のみを物語に抽出し優れた作品をものにしている。

個々の作品のクオリティを言うと、正直なところ特上から並まで玉石混交ではあるのだが、オレ的には「ビデオゲームがモチーフ」であるというだけで面白さや興味が一段底上げされる形となった。要するに、結果的にはどの作品も楽しめた。ゲームというテーマへのアプローチが多種多様なのもよかった。なんだろう、「ビデオゲーム」ってだけで、なんだかワクワクしてくるんですよ。最初に書いた「二倍お得な」じゃないけれど、SF小説を読みながら尚且つゲームのことも頭に思い浮かべられる、なぜだかこれがとても楽しいのですよ。

というわけでゲームという着眼点の面白かったアンソロジー『スタートボタンを押してください』だが、原著から抜粋ということを考えるなら、このアンソロジーが好評な場合は残りの作品もまた別の単行本で訳出される機会かあるかもしれないってことだな。まあクオリティのせいで選別されたってこともあるかもしれないが、そういうのでなければ残りも是非訳して欲しいな。 

 《収録作》

アーネスト・クライン 序文
桜坂 洋「リスポーン」
デヴィッド・バー・カートリー「救助よろ」
ホリー・ブラック「1アップ」
チャールズ・ユウ「NPC
チャーリー・ジェーン・アンダース「猫の王権」
ダニエル・H・ウィルソン「神モード」
ミッキー・ニールソン「リコイル!」
ショーナン・マグワイアサバイバルホラー
ヒュー・ハウイー「キャラクター選択」
アンディ・ウィアー「ツウォリア」
コリイ・ドクトロウ「アンダのゲーム」
ケン・リュウ「時計仕掛けの兵隊」
米光一成 解説 

スタートボタンを押してください (ゲームSF傑作選) (創元SF文庫)

スタートボタンを押してください (ゲームSF傑作選) (創元SF文庫)

 
スタートボタンを押してください ゲームSF傑作選 (創元SF文庫)

スタートボタンを押してください ゲームSF傑作選 (創元SF文庫)