サイバーギークと巨大システムとの戦い/映画『レディ・プレイヤー1』

レディ・プレイヤー1 (監督:スティーヴン・スピルバーグ 2018年アメリカ映画)

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■VRゲーム世界《オアシス》での攻防

「こんなのウソだろッ!?」と呆然とするほどゲームや映画やコミックのキャラクターが出まくりまくる今ソチラ関係では話題沸騰中のスピルバーグ映画『レディ・プレイヤー1』観てきました!

予告編でも相当にチラチラといろんなキャラが顔を出していましたが、実際映画を観始めるとこれがもうホントにとんでもない量です!アレや!?コレや!?アレとかコレとか!?えええええコレまで出て来ちゃうの?!と呆然としまくり!特にアレのシーンが突然始まった時なんか観客みんなが「お・お・お?!」と息を飲む声が聞こえた程です!ネタバレ嫌いな人は今すぐ観に行くんだ!!

とりあえずざっと粗筋を紹介すると、舞台となるのはいろいろあって荒廃しまくっちゃった2045年の未来が舞台。人々は暗い現実を逃れるため「オアシス」という仮想現実ゲームに入り浸っています。しかしそのオアシスの創設者ジェームズ・ハリデーが死に、遺言としてゲーム内に隠された謎と試練を潜り抜けた者にオアシスの所有権と5000億ドルの遺産を与えると告げるのです。主人公ウェイドは世界の人々と同様このゲームに挑みますが、オアシス掌握を狙う巨大企業IOIの冷酷な追手がウェイドを阻むのです!

■あんなキャラこんなキャラが総出演のお祭り映画

とまあそんな物語の、ヴァーチャルゲーム世界に登場するのがあんなキャラやこんなキャラなんですな!その数は膨大だし中にはネタバレになっちゃうものもあるのでここでは特にそれぞれを取り上げてアレコレ書いたりは致しません。しかしそんな煌びやかなゲームシーンやキャラクターばかりが話題になる『レディプレ1』ですが、同時に生身の人間同士のドラマやサスペンスもきちんと描かれてて、この辺やっぱスピはハンパない監督だよなあと思ったね。むしろ現実世界のドラマがきちんと描かれていたからこそゲーム世界の描写が生きていた、ということもできるでしょう。

これはジュマンジの時も思ったけど、レディプレ1でアバターとなってバーチャル世界を潜り抜けてきた者同士が現実世界で顔を合わせた時の一瞬で気心知れあっちゃう感じ、あれブログの知り合いと始めてオフ会した時の安定感とどこか似ていてなんだかスゴイ分かるですよね。それにしても、どんな映画でもそうなんですが『レディプレ1』は観た者同士だけで「アレがコレでソレだったしアレなんかコレだったよね?!」ととことん盛り上がりたくなる映画でしたね!

■『レディ・プレイヤー1』の幾つかの疑問点

とはいえ幾つか疑問点があったのも確かです。まず現実世界なんですが、ここに登場する主人公を始めとするスラム世界の住民たちが、ゲームやってる以外どんな生活をしているのかはっきり描かれないんですよ。どんな仕事をして生活費を稼いでるのかとか、政治は機能しているのかとか、主人公は学校に行ってるのか、とかですね。そういう、地に足の着いたリアリティがどうも見当たらないんですが、これは何か理由があっての意図的なものだったんでしょうか。

次に使われる楽曲が主に80年代の曲が多いんですね。ゲーム世界の登場キャラクターは年代に関わらず万遍無く登場しているようなんですが、それでも、若干古いものが多く感じる。これは原作においてオアシスの創設者ジェームズ・ハリデーがもともと80年代フリークだったから、という設定から来ているのでしょうが、ではなぜ80年代でなければならなかったんでしょう。

あとやはり、「ゲームしか喜びの無い世界」でのゲーム世界での勝利って、なんの意味があんのかなあとも思えるんですよ。主人公たちが勝利したとしても、それ以外のゲームプレイヤーの現実は、結局惨めなまま変わらない訳でしょう。

■サイバーギーク V.S. 巨大システム

しかしこの物語は単に「主人公がオアシスでナンバーワン・プレイヤーになる物語」では決してないんですね。物語における「戦い」はゲームAIとの知恵比べという側面だけではなく、オアシス占有を企む大企業と主人公との戦いでもあるんです。これは、「ゲーム世界」という最後の自由の牙城を、経済活動以外に興味の無い冷徹な大資本から守り抜こうという戦いでもあるんです。これはある種、管理や束縛を嫌い自由と風通しのいい世界を好んだサイバーカルチャーの中の人たち、サイバーギークたちを暗喩しているのではないか。

そう考えると物語内の現実世界が抽象的な背景しか持たないことも、初期サイバーカルチャー時代と重なる形で当時のサイバーギークたちが愛したポップカルチャーアイコンがつるべ打ちに登場することも理解できるんですよ。オアシスの創始者ジェームズ・ハリデーはこのサイバーギークそのものであり、サイバーカルチャーの思想を代表する存在でもあるんです。

即ち「ゲームしか喜びの無い救いようのない世界」とはこの現実の抑圧された状況のことで、その現実の中で自由を謳歌できるオアシスという名のサイバーカルチャーがある。その自由とは巨大企業IOIに代表される非人間的で抑圧的な社会システムと経済システムからの自由だ。それは決して現実逃避ではなくシステムからの逃走と言っていい。そしてそのシステムの束縛から逃れるための戦いがジェームズ・ハリデーの用意したゲームだったのではないか。煌びやかなVRゲーム世界での冒険を描く『レディ・プレイヤー1』は、サイバーギークたちのそんな戦いを描いた作品だったんじゃないかと思うんですね。


映画『レディ・プレイヤー1』予告

ゲームウォーズ(上) (SB文庫)

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ゲームウォーズ(下) (SB文庫)

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メイキング・オブ・レディ・プレイヤー1

メイキング・オブ・レディ・プレイヤー1

 
レディ・プレイヤー1 (オリジナル・サウンドトラック)

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レディ・プレイヤー1(ソング・アルバム)

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  • アーティスト: サントラ,ブライアン・グエン
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2018/05/09
  • メディア: CD
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さらばTV Bros.、そしてポップなカルチャー

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TV Bros.」という雑誌があってだな。うわべはTV番組雑誌のようにみせかけてその実ポップカルチャーを大幅にフィーチャーした雑誌なのだよ。オレは新聞も雑誌もまるで読まない人間なのだが、このTV Bros.ファミ通だけは10数年以上律儀に購読していたのだよ(ファミ通はもう読んでないが)。50も半ばを過ぎる様なジジイのオレなのだが、「50過ぎて読む雑誌がTV Bros.ファミ通だなんてオレってロックだぜ……」と勝手に自己陶酔していた。まあ現実的には「なに言ってんだこのクソジジイ」と思われること必至だがな!

ポップカルチャーなんて言っちゃうとなにやらフワフワして足元のおぼつかない、理屈ばかり多くて現実には屁のつっかえにもならない戯言ばかりを躍起になって持ち上げる脳みそお花畑なナニカを連想しちゃうがな、しかしTV Bros.で取りあげられるそれら”カルチャー”は、オレにとってはどうでもいいものだけで溢れ返る世の中でどこか心にしっくりくるある種の「文化的態度」を感じさせて、オレは好きだったのだよ。

かつてはこのポップカルチャーなるものをサブカルチャーと呼んでいた時代もあったな。もちろんポップカルチャーサブカルチャーではないのだけれども、両者はどこかで重なりあるいはその発展形となり現代に存続しているのではないかな。とはいえサブカルなるものは既にこの現在には存在していないと考えた方がいいと思うな。ネットが発達しこれだけ価値観が多様化した時代にメインもサブもないからだよ。

サブカルチャーはかつてカウンターカルチャーの役割も負っていたけれども、価値観のメインが喪失してしまった以上カウンターである役割などもう誰にも求められていないんだ。だから今「サブカル」なんて言葉がどこかで呟かれたとしたら、それは単なる懐古趣味であり昔を懐かしむこと以外に生きる喜びの無い哀れ極まりないジジイババアのパンツに沁みた分泌物のように饐えた臭いのする慰みもの程度の事だと思えばよろしいのだよ。

ああくそう例によって思いっ切り話が逸れた。オレはTV Bros.の事を書きたかったんだ。

オレはTV Bros.で取りあげられる本や音楽や映画がとても好きだったんだ。好きだったし、しっくりきたんだ。そしてTV Bros.のコラムが、とても楽しくて好きだったんだ。オレはこのブログを2004年の2月から、場所をはてなダイアリーからはてなブログへと移しながらも14年間続けてきたのだけれども、オレがこのブログで目指したもの、それは実は、「TV Bros.みたいなブログにしたい」ってことだったんだ。

そこには本があり漫画がありゲームがあり音楽があり映画があり、そして日々の雑事を面白おかしく書いたコラム的な雑文がある。最近は映画のレビューばかり書いているが、決して「映画ブログ」を名乗りたくないしそうしていないのは、「なんだか種々雑多な寄せ集めみたいなブログ」でありたかったからだ。

とはいえ実の所そんな意気込みも10年目ぐらいまでで、あとは惰性と誰に頼まれているわけでもない虚無的な義務感のみでブログを続けているがな。ニヒリストなのだよ。だからブログタイトルは「メモリの藻屑 記憶領域のゴミ」なのだよ。あ、誰もそんなこと聞いてませんでしたか、すんませんすんませんみんなオレが至らないせいです監督不行き届きでしたもう檻から出しません(何をだ)。

で、ここまでダラダラとナメクジが這った後の粘液の跡みたいな文章を書いて何が言いたいかというとですね、そのTV Bros.が、これまで隔週刊だったものが月間化し、いろいろリニューアルするらしいということに思うことがあって、なんですけどね。いやあ、しかしここまで読んでくれてる人世の中に何人いるんだろうなあ、ま、続けちゃうけど、その「思うこと」っていうのは、「もういいや」ってことだったんですがね。

なんだよ、ここまで書いてその結論かよ、そんなの最初に書けよ、ブログは簡潔に要点をまとめることが重要なんだよ、目指せ月間PV100万だよ、SEO対策もばっちりだよ、アフィで稼いでプロブロガーだよ、とかああああうるせえお前に向かって書いてるんじゃねえ失せろ消えろ肛門にアナルビーズ10本ぐらい突っ込まれて取り出せなくなるがいい、と見えない誰かと戦いつつ、その「もういいや」ってのはどういうことかっていうと、もうTV Bros.を読まなくていいかな、ということと、もうポップカルチャーなるものは今のオレには関係ないし実の所よくよく考えるともともと関係無かったかもな、っていうことだったんだよな。

まあ煎じ詰めると年も取ったし新しいものは理解できなくなったしポップだあカルチャアだあなんぞ言ってるよりも残業しないで早く家帰って酒飲んで寝たい、実生活において考える事と言っちゃあそんなもんだし、老後だあ健康だあ貯金だあ年金だあと辛気臭くクソ面白くもねえ現実塗れの不安と心労をポップなカルチャーごときが決して贖いはしないしそれを求めるべきもんでもない、ってことなんだがな。そういった、「もういいや」なんだよ。オレはもう「今日も一日なんとか終わった」「身体がどこも痛まなくて薬がいらない」ということが一番の幸せでしかないんだよ。年取ったんだ。

一番身に沁みて思ったのは、「作業着着て一日平均1万歩以上歩き回りながら埃まみれ汗まみれになって仕事してそれほどでもない給金貰って小さなアパートでおっつかっつの生活するのがやっとのオレにとってアートだのゲージツだのなんていうものは所詮アブクやカスミみたいなもんでしかなかったな」という実感だったな。若い頃オレはアートスクールの脱落者だったものだから、イイ年になってもそんなものに色目を使っていたけれども、やっぱりもう、当然ながら、関係ないんだよ。

つまり今回TV Bros.月間化に際して「もういいや」と思ったのは、TV Bros.に代表されるポップなカルチャー的なもの全般に対して「もういいや」と思ったってことだったわけなんだけどな。つうわけでTV Bros.、今までありがとう。楽しかったよ。もう会うことも無いだろうが、オレの知らないどこかの町で、君を愛する誰かと君がいつまでも幸せに暮らしてくれることを、オレは願って止まないよ。♪るるるーらららー(音楽盛り上がる)。

蛇足になるけどTV Bros.で一番好きだったコラムは蒼井そら光浦靖子のコラムだった。蒼井そらは失礼ながらタレントとしても元の仕事のほうもまるで興味がないのだが、いつも頑張っててその成果もきちんと出せているところにとても清々しさを感じていた。光浦靖子は人生相談における洞察力と洞察力のみに留まらない話の膨らませ方、面白おかしく書いているようで決して言い過ぎない書き過ぎないバランス感覚に抜群の知性と感受性を感じた。あときゃりーぱみゅぱみゅも音楽は全く興味無いんだが文章は若くてスピードがあって読ませるんだよなあ。それとTV Bros.の映画評は他のどんな映画評よりも参考にしていた。短い字数でこれだけきちんと評価を述べられる、やっぱりプロの仕事は逆立ちしても真似できないくらい違うもんだよなあとひとりの泡沫ブロガーとしてしみじみ思っていた。

我が家にスーパーガールがやってきた

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なんと!我が家にスーパーガール様がいらしてくださったのです!

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おお!!

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おおお!!!

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おおおお!!!!

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おおおおお!!!!!

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おおおおおお!!!!!!

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うおおおおおおッ!!メッチャ可愛いいいいいいッ!!!!!

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イルファン・カーン主演による中年シングルカップルのロードムービー/映画『Qarib Qarib Singlle』

■Qarib Qarib Singlle (監督:タヌージャ・チャンドラ 2017年インド映画)

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2017年に公開されたインド映画『Qarib Qarib Singlle』は少々風変わりとも言える大人の恋を描くユニークなロマンチック・コメディだ。主演はイルファン・カーン、ヒンディー語映画初主演となる南インド女優パヴァシー。監督は『Dushman』(1998)、『Sangharsh』(1999)のタヌージャ・チャンドラ。

《物語》保険会社で辣腕を振るうジャヤ(パヴァシー)は私生活では35歳になる一人暮らしの未亡人だった。そんな生活に孤独感を覚えた彼女はある日出会い系サイトに登録し一人の男と会うことになる。待ち合わせのカフェにやってきたその男ヨギ(イルファン・カーン)は破天荒で掴み所のない性格をしており、最初苦手に感じていたジャヤだったが、ヨギのペースに乗せられるまま一緒に旅行に出掛けることになってしまう。しかもその旅行は、ヨギのかつてのガールフレンド3人の元を訪れる、というものだった。

この物語の風変わりさはなにしろこの発端にある。男と女が出会い系サイトで知り合うのはままあることだろう。しかし物語の主人公ジャヤはヨギがどんな男なのかよく知らないまま一緒に旅行に出掛けることを決めてしまう。しかもその旅行とはヨギの元カノを訪ね歩くというものだ。さらにその理由が「彼女らが自分と別れて悲しんでいないか確認したいから」だと言うではないか。まあ少なくとも、日本人の一般的な感覚だと旅行することも旅行の目的も、相当「ありえない」ことなのではないか。

しかしこの「ありえなさ」が物語を面白くしている。ボリウッド映画はなにしろロマンス作品が強いが、多作なばかりに物語のバリエーションが乏しくなりつつある。新奇で多彩な恋の在り方を描いたとしても、今度は共感するのが難しい物語であったりする。例えばカラン・ジョーハル監督の『心~君がくれた歌~(Ae Dil Hai Mushkil)』(2016)などは新しい恋の形を描きつつ、どこか居心地の悪い白々しさを覚えなかったか。そんな中、この『Qarib Qarib Singlle』は発端こそ奇異だが、その後の展開に十分感情移入可能な物語を持ってきている。それは最初に型にはまった常識や前提を飛び越えることで、その後のドラマにより瑞々しい感触を与えることができているからだ。

旅行に出掛けた二人だが最初から恋愛感情があるわけでもなく、ただ成り行きで二人で行動しているだけだ。成り行きで旅に出ることになった恋愛関係にない男女が次第に心を通わせて行く、というボリウッド作にSRK主演映画『私たちの予感(Jab Harry Met Sejal)』(2017)があるが、この『Qarib Qarib Singlle』はそういった定番の展開を微妙に回避する。まず破天荒な性格のヨギはその破天荒さが祟り旅先で常にドタバタを繰り返す(この辺りのコメディ・センスは実に秀逸)。そしてジャヤはそれに振り回されっぱなしで半ばうんざりしている。とはいえジャヤがそんなヨギを見限らないのは、「この人、なんなんだろう?」となぜだか興味が尽きないからなのだ。それは異性であるという以前に、他者としての興味を抱いているということだ。それだけヨギという男は、呆れさせられると同時に強い関心を抱かせるキャラクターとして登場するのだ。

これは多分に女性視点からの恋愛感情の芽生えを描いたものなのかもしれない。男性視点からのロマンス作品であると、相手をどう振り向かせるか、どのように誠実に振る舞うか、またはどのようにボロを出さないか、が中心となるのだろうが、この作品では主人公女性が相手の強力な男性性に魅惑を覚えるというよりも、その人間性にまず重点を置こうとする。信頼のできる存在であるかどうかを見極めようとする。こういった流れにあるロマンス作品であるという部分が新鮮だ。ある意味二人は、知り合ったから旅に出るのではなく、知り合うために旅に出た、ということなのだ。

そしてこの破天荒で興味の尽きない男ヨギを、イルファン・カーンが抜群の演技力で演じ切る。味わいが深いとはいえ決して二枚目という訳ではない、おまけに結構いいオッサンのイルファン・カーンだが、奇妙な男ヨギのキャラクターは非常に個性的で不思議な魅力に溢れている。ある意味イルファン・カーンだからこそこのような微妙なキャラクターを嫌味なく演じることが出来たとも言えるだろう。そしてこの男ヨギは、その生業や生活が殆ど描かれないといった点で観客にとってもどこか謎めいた男だ。一方、ヒロインを演じるパヴァシーは、中年に差し掛かった女性の夢と願望、迷いと孤独を生活感たっぷりに演じ、これも十分に魅了された。特に中盤、睡眠薬で酔っぱらった(?)ジャヤが、遂に己の思いの丈をぶちまけるシーンなどは圧巻だった。

それともうひとつ、この作品の魅力はロードムービーとしての楽しさだろう。主人公二人の旅はまずムンバイから始まり、ウッタラーカンド州デヘラードゥーン、同じくルールキー、ラジャスタン州ジャイプル、シッキム州ガントクへと続いてゆく。実は自分にとって殆どが初めて見聞きするインドの都市ではあるが、しかし映画の中に登場するこれらの都市はどれも美しく豊かな風景を提供し、主人公二人の旅情を鮮やかに盛り上げるのだ。もちろん、観客である我々も、これらの街への旅を疑似体験しながら、緩やかに育まれてゆく主人公二人の恋に思いを馳せることができるのである。そういった部分で映画『Qarib Qarib Singlle』は決して時間を無駄にした気分にさせることの無い優れた良作と言っていいだろう。


Qarib Qarib Singlle | Official Trailer | Irrfan Khan | Parvathy | In Cinemas 10 November 

最近読んだコミック

最近読んだ、というよりも去年の暮れあたりから読んでたコミックを並べてみた。要するに最近あんまりコミック読んでないのね。

■古本屋台/Q.B.B.

古本屋台 (書籍扱いコミック)

古本屋台 (書籍扱いコミック)

 

「古本」と「(一杯飲み屋の)屋台」というミスマッチを狙った作品なんだろうが、なかなか不思議な味わいだった。おまけに後半からどんどん『無能の人』時代のつげ義春テイストが混入してきてさらに奇妙さが倍加してゆく。

ダンジョン飯(6)/九井 諒子
ダンジョン飯 6巻 (ハルタコミックス)

ダンジョン飯 6巻 (ハルタコミックス)

 

ダンジョン探索の明確な目的が提示される今作、九井諒子はファンタジー描かせると本当に上手い漫画家だな。

岡崎に捧ぐ(4)/山本さほ 
岡崎に捧ぐ 4 (BIG SUPERIOR COMICS SPECIAL)

岡崎に捧ぐ 4 (BIG SUPERIOR COMICS SPECIAL)

 

岡崎に捧ぐ」はいよいよ暗黒の社会人篇。この辺りの苦さは身に憶えがあり過ぎて非常に感情移入して読んでしまった。アートスクール脱落組って、これオレのことじゃん……。

■いつもぼくをみてる(1)/山本さほ 
いつもぼくをみてる(1) (ヤンマガKCスペシャル)
 

 そんな山本さほの、実体験ではないオリジナル作品を読んでみたのだが、う~んこれも体験に依存しすぎていて想像力の限界を感じたなあ。

監獄学園(28)/平本 アキラ
監獄学園(28) (ヤンマガKCスペシャル)

監獄学園(28) (ヤンマガKCスペシャル)

 

えええええ!?「監獄学園」これが最終巻っすか!?最後にイイ話に持って行くと見せかけてこの展開は!?いやもう最後まで平本アキラストーリーテリングの絶妙さに脱帽。

ヴィンランド・サガ(20)/幸村 誠
ヴィンランド・サガ(20) (アフタヌーンKC)

ヴィンランド・サガ(20) (アフタヌーンKC)

 

 いかん、11月に読んだからどんな話だったか忘れてる……。

いとしのムーコ(12)/みずしな 孝之
いとしのムーコ(12) (イブニングKC)

いとしのムーコ(12) (イブニングKC)

 

 これも話は忘れたが、まあいつも通りやんちゃでかわいいムーコでした。

■レベレーション(啓示)(3)/山岸涼子
レベレーション(啓示)(3) (モーニング KC)

レベレーション(啓示)(3) (モーニング KC)

 

山岸涼子ジャンヌ・ダルク物語、"啓示"と”妄執”の境界がどこまでも破壊されてゆく展開には息を呑むばかり。 山岸涼子の冷徹な視線は毎回心胆寒からしめるものがあるな。

■終わった漫画家(1)/福満しげゆき
終わった漫画家(1) (ヤンマガKCスペシャル)
 

いつでもどこでも己のリビドーのみを信じそれに悶々とする主人公に相当うんざり。