海外コミック2作:『ヘルボーイ・イン・ヘル:死出三途』『ウィッチャー 2:FOX CHILDREN』

ヘルボーイ・イン・ヘル:死出三途 / マイク・ミニョーラ

ヘルボーイ・イン・ヘル:死出三途 (DARK HORSE BOOKS)

血の女王との死闘の果てに命を落としたヘルボーイは、故郷である地獄へと堕ちた。地の底で彼を待つものとは何か、そして、ついに明らかになる彼の誕生の真相とは…。1994年にスタートしたヘルボーイの物語を締めくくる最後のシリーズ「ヘルボーイ・イン・ヘル」第一巻。原作者マイク・ミニョーラが作画に完全復帰した、最新にして最後のシリーズがここに始まる。

 ヘルボーイは死んだ。血の女王に心臓を引き抜かれて。こうして"地獄の子"ヘルボーイの物語は単行本『疾風怒濤』をもって幕を閉じたが、死して自らの故郷・地獄でのヘルボーイの道行きを描いた新シリーズ『ヘルボーイ・イン・ヘル』が始まることになる。そこで繰り広げられるのはヘルボーイが出生の秘密を知るドラマであり、自らの父である地獄の王との再会であり、地獄の覇権を争い兄弟たちと望まぬ闘争を繰り広げることになるヘルボーイの姿である。鬼哭啾啾たる地獄の寒々しい光景とそこに蠢く魑魅魍魎たちの姿もまたこの作品の魅力だ。マイク・ミニョーラが全編に渡り作画を担当したこの作品はヘルボーイ・ワールドの有終の美を飾ることになる優れた作品として完成している。そしてこの『ヘルボーイ・イン・ヘル』シリーズは次巻『ヘルボーイ:誰が為に鐘は鳴る』で大団円を迎える事が予告されている。括目して待て。

ヘルボーイ・イン・ヘル:死出三途 (DARK HORSE BOOKS)

ヘルボーイ・イン・ヘル:死出三途 (DARK HORSE BOOKS)

 
■ウィッチャー 2:FOX CHILDREN / ポール・トビン (著)、ジョー・ケリオ (イラスト)

ウィッチャー 2:FOX CHILDREN (G-NOVELS)

ノヴィグラドへと向かう道中で船に乗ることになったゲラルトだったが、その船旅は一筋縄ではいかなかった。無知な輩が乗っているかと思えば、ならず者や無法者までいる始末。ひときわ危なっかしい連中もいて、一人の同乗者の蛮行によって、ゲラルトたちは絶体絶命の窮地に立たされてしまう。彼らには、復讐心に燃える母狐の魔の手が迫っていた!

全世界累計販売本数2500本突破という傑作RPG『ウィッチャー』シリーズのコミック邦訳版第2巻。実はゲームはまるでプレイしていないにも関わらず前巻を購入、その堅牢に作り上げられた世界観と主人公の魅力に結局ゲーム・ソフトを購入することになってしまったオレである(全然やる暇ないけど)。 そんなわけでこの2巻も非常に楽しみにしていたが、今作でも人智を超えたあやかしの存在に翻弄される人間たちと、孤高の道を行く主人公ゲラルドの妖魔退散の戦いとが描かれてゆく。怪物退治の専門家とはいえゲラルドは決してヒーローではなく、むしろ野生の獣を狩るマタギのように、淡々と自らの生業をこなしてゆく存在である、という部分が面白い。その為に卓越した剣術と魔術を駆使するけれども、これもまた決してオールマイティーではなく、むしろ妖魔への畏怖すら持っているという部分にもユニークさを感じる。

ウィッチャー 2:FOX CHILDREN (G-NOVELS)

ウィッチャー 2:FOX CHILDREN (G-NOVELS)

 

 

怪物愛護物語 / 映画『シェイプ・オブ・ウォーター』

シェイプ・オブ・ウォーター (監督:ギレルモ・デル・トロ 2017年アメリカ映画)

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■『シェイプ・オブ・ウォーター』にはまるでノレなかった

各界で絶賛の嵐となっているギレルモ・デル・トロ監督の最新映画『シェイプ・オブ・ウォーター』を観たんだが、う~ん……これがオレには全くノレなかったんだよなあ。

怪物と人間の愛、はいいんだけど、え?セックスしちゃうの?それって獣姦?いやーねーわーぜってーねーわーあんなAVこんなAVを生涯を通じてじっとりと観続けてきたオレですらスカトロとおんなじぐらい獣姦はねーわー(でも触手は許す)。

あとさあ、必要以上にグロくてさあ、それがまた実にコッテリとくどくて、おまけに嫌んなるぐらい暴力的で、実の所オレはグロもバイオレンスもたいした気にしないし昨日も「死霊のはらわたシーズン3」観て頭ふっとんだり顔割れたりすんのゲラゲラ笑いながら観てたけどこの映画に関しては「この物語でこれいるかあ?」と思えてさ。

とはいえ「グロい」「こってりとクドい」「暴力的」っちゅうのはデルトロの十八番みたいなもんで、まあ要するに今作も手癖足癖で作っただけなんだろうなこりゃ。ただその「グロい」「こってりとクドい」を「愛」に結び付けようとしたからなんだかそぐわなく感じたんだなオレは。

■『シェイプ・オブ・ウォーター』は「動物愛護物語」なのか?

シェイプ・オブ・ウォーター』がつまんなかったのは、要するにコレ、「殺処分になった動物を救え物語」と「そんな動物とムフフなことしちゃった私って変態物語」以上のものに思えなかったからなんだよ。

いや、映画に出てくる半魚人は「動物」じゃないけどね。でも話の骨子を単純化したらそういうことじゃん。

要するに動物愛護映画『愛は霧の彼方に』や『野性のエルザ』を怪物でやってみた「怪物愛護映画」っちゅうことか?で、主人公の怪物愛護精神がさらに暴走して、人間とチンパンジーの愛が描かれる大島渚監督の『マックス、モン・アムール』みたいな怪物ラブ映画になっちゃうということなのか?

■『シェイプ・オブ・ウォーター』は「美女と野獣の物語」なのか?

美女と野獣』というとディズニー映画を思い出すが、もとはフランスで書かれた物語なのらしい。モンスター映画『キングコング』も、コングが人間の女性に惚れちゃうという部分で「美女と野獣」物語だよね。当然『シェイプ・オブ・ウォーター』のモトネタとなっている『大アマゾンの半魚人』でも半魚人が人間の女性に惚れちゃうという「美女と野獣」物語な訳だ。

この『シェイプ・オブ・ウォーター』はその逆張りを行ってるんだが、これはデルトロが子供の頃から『大アマゾン』が好きで、かねてから「半魚人と人間が結ばれる話」を夢想していたから今回の映画企画となったのだとか。

でも『美女と野獣』というなら『シェイプ・オブ・ウォーター』の主人公は美女というよりいろいろ不憫な人だし、野獣である半魚人はキスしても王子様に変身したりしない。そこにデルトロの『パンズ・ラビリンス』的な「残酷な現実から逃避するためのファンタジーではあるが残酷な現実は決して変わらない」ということがあるんだろうけど、この『シェイプ・オブ・ウォーター』は残酷さを強調するあまり単なる露悪趣味に堕してんじゃねえのか。

■『シェイプ・オブ・ウォーター』は「異類婚姻譚」なのか?

美女と野獣』もそうだけど「異類婚姻譚」というものがありましてね。要する人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話で、これは神話や民話の形で世界中に分布しているのらしい。日本の民話「鶴の恩返し」や怪談「雪女」なんかもそうですね。

シェイプ・オブ・ウォーター』はまさしくその「異類婚姻譚」なんだけど、「異類婚姻譚」というのはあくまで説話であり婚姻という部分においてアレゴリカルなものだと思うんだよなあ。でも『シェイプ・オブ・ウォーター』は「不憫な怪物と不憫な人間の女性に愛が芽生えてセックスしちゃう」というそのまんまのお話じゃないっすか。じゃあ『シェイプ・オブ・ウォーター』のアレゴリーとなるものはどこなんだろう?

■『シェイプ・オブ・ウォーター』は「神と巫女の物語」なのか?

シェイプ・オブ・ウォーター』に登場する半魚人のことを「動物」だの「怪物」だのずっと書いてきたけどもちろんアレは「動物」ではないし、やはり単に「怪物」なだけではないように思えるんだよな。

じゃあなにかというと、あれは実はある種の「神」だったんじゃないだろうか。あの半魚人が捕獲された南米では神と崇められていたというが、映画では実際神懸った特殊能力も披露する。全身ぬらぬらして気色悪いが、神様ならしかたあんめえ。

そして主人公というのはその神と交信する巫女なんだよ。ここで主人公が唖である設定が生きてくる。なぜなら肉体的精神的瑕疵のある者はより神に近いという俗説があり、この場合彼女が唖であることがそれに当てはまるからだ。

で、その気色悪いぬらぬらが神様であることを知った主人公が、「神への愛」に目覚め、ついでにその神様と交合する。エロスとアガペーちゅうヤツだな。神と交合した人間は人間のステージからひとつ引き上げられて神々の眷属となり幸福の中で幕は閉じる。それがこの物語だったのだ。……という解釈ならこの話も理解できるんだけどな。とはいえいろんなものがうんざりするぐらい露骨すぎてやっぱり好きにはなれん映画だな。


『シェイプ・オブ・ウォーター』日本版予告編 

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アフリカ回帰と幻想の千年王国 / 映画『ブラックパンサー』

ブラックパンサー (監督:ライアン・クーグラー 2018年アメリカ映画)

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「ラスタファリアニズム」という言葉を御存じだろうか。レゲエ・ミュージックの歌詞やレゲエ・ミュージシャンのライフスタイルに頻繁に登場する概念だが、これは「アフリカ回帰主義」を第一義とする思想運動の事である。その根本にあるのは聖書にある「エジプトから王が到来し、エチオピアは、神に向かって手を差し伸べる」という言葉だ。

黒人教会とその説教師たちはこれを「エチオピアは世界に離散した黒人の母国である」という意味に捉え、虐げられ貧しい暮らしを送るアメリカ黒人たちを鼓舞したのだ。それは実際にエチオピア=アフリカに移住せよという意味だけではなく、悪徳の国(バビロン)から約束された千年王国ザイオン)への『エクソダス』をも意味していた。そう、聖書にある「出エジプト記」である。黒人たちは自らを虐げられたユダヤの民に例え、神の導く約束の地を目指そうとしたのだ。それは即ち、現実にあるアフリカ世界から遊離した、幻想の楽土としてのアフリカ世界のことだった。

さて、「アフリカ回帰運動」の代名詞となるエチオピアとは1270年から1974年まで存在したアフリカ最古の独立国、エチオピア帝国を指す。19世紀から始まるヨーロッパ諸国による激しいアフリカ分割の波の中で、植民地化を逃れたアフリカの国はリベリア共和国とこのエチオピア帝国のみであった。そのエチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世は、ジャマイカの汎アフリカ主義運動家、マーカス・ガーヴィーの予言により、ラスタファリアンから救世主としてあがめられるようになる。

というわけでマーベルヒーロー映画『ブラックパンサー』である。舞台となるのはアフリカの秘境にある国、ワガンダだ。この国から産出される鉱石ヴィブラニウムは古代地球に飛来した隕石であり、それは超絶的なパワーを秘めていた。ワガンダはそのパワーにより古くから超科学を持つ文明国として栄華を誇っていたが、パワーを悪用させないために科学力によって世界の全てから目を隠していた。だがある日、ヴィブラニウムが奪われたことによりワガンダに大きな波紋が広がる。ワカンダの若き国王ティ・チャラはブラックパンサーとなり、ヴィブラニウム強奪の陰で暗躍するキルモンガーと戦うことになるのだ。

マーベルヒーロー映画お得意のたっぷり金の掛かった見栄えのいい特殊効果やアクションには十分興奮させられた。主人公をはじめ登場人物はほぼ黒人であり、その彼らが華麗に豪胆に活躍し戦う姿には実に魅せられた。アフリカ文化、アフリカ美術をクロスオーバーし現代的にアレンジした美術はどれもプリミティブな美しさに溢れ目を奪った。物語それ自体の中心となるのは跡目争いと部族間闘争というアフリカ的なものだが、ある種神話的でもあり、善だ悪だとかますびしいスーパーヒーロー映画の中にあってむしろ親しみやく楽しめた。映画としてもひょっとしたらマーベルヒーロー作品の中で最も好きな作品になるかもしれない。

しかしそういったヒーロー映画としての側面はこのジャンルに詳しい誰か他の人に任せておけばいいと思う。それよりもオレが興味を惹かれたのは、舞台である超文明国・ワガンダだ。このワガンダという国の創造こそが映画『ブラックパンサー』の本質であり中心となるものではないかと思うのだ。即ち、ワガンダこそが映画『ブラックパンサー』の真の主人公だったのではないかと思えたのだ。

何故か。架空の国ワガンダは、アフリカの中にありながら、その長い歴史の中で一度も侵略も植民地化もされることなく存在し、そしてその国はヴィブラニウムという富によって栄え、世界を遥かに凌ぐ科学と文明と文化を持ち、人々はその王国の中で誰よりも幸福に生活しているのである。近代史において黒人たちとその国家は虐げられ搾取されあるいは隷属させられ、数々の不幸な歴史を背負わされ続けてきたが、このワガンダだけはそれらが一切存在しないのだ。

近代史において欧米から全くの暴虐を受けず、さらにその欧米すら敵わない幸福と豊かさを誇る国家ワガンダ。それは歴史の「if」さえも考えさせられる、もうひとつ別の時間軸にある、もうひとつ別の、存在したかもしれないアフリカの姿だ。これは、このワガンダが、黒人たちにとっての約束された千年王国であることを意味しないか。そしてそれは、最初に触れた「ラスタファリアニズム」に通じる、黒人たちにとっての希望の国を描いたものだと言えはしないか。映画『ブラックパンサー』は、黒人ヒーローが大活躍する黒人中心の映画というだけではなく、黒人たちの幻想の千年王国を描き切った作品だからこそ、これほどの大ヒットを記録したのではないだろうかと思うのだ。


「ブラックパンサー」予告編

Exodus

Exodus

 

2ヶ月間主夫をしていた。

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unsplash-logo Katie Smith

《目次》

 2ヶ月間主夫をすることになった

今年の1月あたまからこの2月の第4週まで、約2ヶ月間弱、主夫をしていた。

オレの相方は建築関連の仕事をしているが、とても残業が多く、工事が後半ともなると帰宅時間が11時を過ぎ、酷い時には泊まりにもなり、おまけに土曜日曜も出勤という状態になる。眠る時間もまともなものを食べられる時間もなくどうしたって心身ともに疲弊しきるだろうが、オレには何もしてあげられることができなかった。

オレと相方の付き合いは10年以上になるが特に結婚はしておらず、別々に住んでいる。この辺の個人的な事情は割愛させてもらうが、そんな相方の今度の現場がオレの住処に比較的近いのだという。それなら、通勤時間短縮になるから工期が終わるまでオレの部屋に住めば?と聞いてみたのである。

ついでに夕飯は全てオレが作ろう。そうすれば遅く帰ってきても夕飯をすぐ食べられてすぐ寝られる。洗濯ものも全部任せてもらっていい。洗って取り込んで畳んでおく。オレの部屋だから掃除をする必要もない。通勤時間が短い分睡眠時間を確保でき、日常の雑事に追われることも無い。今まで何もしてあげられなかったから、せめてこのぐらいはさせてくれ。

相方はこの話に乗ってくれて、そうして年が明けてすぐ、幾つかの必要な衣類と日用品を持ちオレの部屋に越してきた。期間は工事があらかた終わる2月末までだった。

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毎日メニューを変えてみた

懸案となるのは夕食のメニューである。オレも一人暮らしは長いし、自炊もするが、言ってみれば"男の料理"であり、殆どが栄養の偏ったジャンクか酒のつまみで、レパートリーも少ない。だが相手はきつい労働をして帰ってくるのだからきちんとしたものを食べさせたい。おまけに相方は自らを"野菜厨"と呼ぶほど野菜好きであり、日々様々な野菜をメニューに入れなければ納得してもらえないだろう。

こうしてオレの毎日はネットでレシピ集のホームページと睨めっこすることが中心となった。オレは今回の"主夫生活"でひとつ自分に課したことがある。それは2ヶ月間毎日メニューを変えることだ。相方にそう請われた訳では全く無いが、ハードルを上げることで、モチベーションを高めようとしたのである。2ヶ月を終えてから振り返ると結局メニューがダブったのは2回ほどであり、しかもそれは相方がもう一度食べたいという事からだった。

時間的予算的制約はあったが、このハードルは別にきつくはなかった。むしろゲーム感覚でこなしていった。毎回ほぼ1週間分の食材を買い込み、それらをあれこれ組み合わせ、傷みやすいもの、保存の効くものを考慮しながら料理を作っていった。ただこの時、ひとつ問題が発生した。それは今年初頭から続くことになる野菜価格の高騰である。特に葉物野菜の値段の高さには頭が痛かった。

思わぬ出来事もあった

もうひとつ思わぬ問題が出た。オレの仕事が予想を超えた忙しさだったのだ。年初が正月休みの影響で多忙となるのは毎年のことだった。だがその期間を過ぎればたいてい夜7時8時に家に着けるようになるのが通例だった。だからこそオレは相方に夕食を作るのは余裕だなと考えていたのだ。ところが1月後半を過ぎ2月に入っても仕事の量は減らず、あろうことかさらに増え始め、2月半ばには何度か相方が家に着く時間ですら帰る事が出来なくなった。これらの日は相方に何か買ってきて食べてもらうことにした。

些末な問題としては、二人で生活をすることを考えていなかったので去年買った冷蔵庫が小さくて食材を多く保管できなかったことだろうか。とかいいつつ、常にビールは何本もきっちり冷やしていたが。洗濯が頻繁になったのも若干予想しなかった。自分一人だと週一で済んでいたから週2回ぐらいになるかな、と予想していたが、相方の洗濯物の量は意外と多く、結局週3回程度でなければ間に合わなかった。 

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料理をするのは楽しかった

相方に夕飯を作るために自分の時間が無くなることは全く気にならなかった。一人で生活している時の自分の時間というのは、ただ単にダラダラと酒を飲みつつダラダラとジャンクフードを口に放り込み、そしてダラダラとどうでもいいような映画を観つづけていた自堕落極まりない時間でしかなかったからである。その中にはダラダラと誰も読みもしないブログ記事を書き続けることも含まれる。これらを止め料理と洗濯に時間を割くことになったが、無為な日々が目的のある日々になることに問題がある筈がなかった。

そして料理をすることもそのメニューを考えることも楽しかった。自分一人だと時間を掛けて料理することが無駄に思えてしまい、それもあってジャンクな食生活を続けていたオレだが、誰かの為に料理を、それもなるべく美味いものを作ろうとメニューを検索し、初めて作るその料理に試行錯誤するのは、「ひとつの完成したものを作る」という意味においてイマジネイティブなものだった。そしてきっちり美味いものが出来た時の達成感はひとしおだった。とはいえ、実の所何度か失敗もし、塩っ辛いだけとか煮過ぎ焼き過ぎとか量が貧弱とか手抜きがモロに反映したりとかもあり、決していつも美味いものが出来ていたわけではないのは正直に告白しておこう。

こうして2ヶ月は過ぎて行った

こうして毎日は過ぎ、2月も終盤となった先週金曜日、オレは相方に最後の料理を作ってミッションは終了となった。この間、相方の帰宅時間はほぼ10時から11時過ぎ、ときたま8時9時、泊りが1回、2ヶ月の間で休むことが出来た日が1・2回、それとは別に風邪で休んだか半休にしたのが1回だろうか。仕事に追われ本当に大変な毎日を過ごしていた。だが嬉しかったのは、この生活の後半、睡眠時間が多くとれるようになったせいか、相方が早起きして一人で寛いでいた日が何日かあったことだ。多少なりとも健やかさを取り戻せるようになってくれたのなら、オレのささやかな努力も無駄ではなかったということなのだろう。

惜しむらくは予定していたメニューを全てこなせなかったことだろうか。鍋物もやろうと思い、持っていなかった鍋セットも購入したのだが、深夜に帰宅して鍋もないだろうと、結局することがなかった。ひとつ面白かったのはこの2ヶ月で二人とも体重が2キロほど減ったことである。オレの料理が酷かったから……というのもあるかもしれないが、栄養バランスの良い料理を毎日適量で、しかも一緒に食べる人がいる状況で食べていたからこのような結果になったのではないかと思う事にしている。実はオレも相方も、仕事がおしてくるとストレスからドカ食いしてしまう癖があったのだ。

そしてこれらのことは、あくまで最初から2ヶ月限定ということが念頭にあったからこそできたことで、実際に何年も何十年も主婦なり主夫をされている方にとっては鼻で笑ってしまうようなちゃんちゃら可笑しいお遊びにしか見えないだろう。そういったことは重々承知している。下らない記事だとそしられても当然である。ただ、個人的な体験として、これらが非常に目新しかったという意味で面白かったので書いてみただけだ。

そういえば、10数年は使っているオレの包丁はまるで切れ味が悪くて相方にも不評だったのだが、主夫ミッションが終了してからやっとまともな包丁を買うことにし、少々お高かったが今はそれで料理をしている。これがもう、どんな野菜も肉もバター切ってるみたいにスイスイでさあ。うわあ、なんか包丁揃えたくなってきたぞ……。 

貝印 関孫六 ダマスカス 牛刀 210mm AE-5205

貝印 関孫六 ダマスカス 牛刀 210mm AE-5205

 
貝印 関孫六 ダマスカス 三徳包丁 165mm AE-5200

貝印 関孫六 ダマスカス 三徳包丁 165mm AE-5200

 
貝印 関孫六 ダマスカス ペティナイフ 150mm AE-5203

貝印 関孫六 ダマスカス ペティナイフ 150mm AE-5203

 
貝印 パン切り包丁 230mm ブレッディ 焼きたて AC-0054

貝印 パン切り包丁 230mm ブレッディ 焼きたて AC-0054

 

 

シェフ:インドで三ツ星フードトラック始めました/映画『Chef』

■Chef (監督:ラージャー・クリシュナ・メーノーン 2017年インド映画)

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傲慢すぎて馘になった一流シェフが、心機一転移動レストランを始めちゃう!という物語です。主演を務めるのはサイフ・アリー・カーンですが、サイフのシェフ姿ってなんだか新鮮そうですね。監督は『エアリフト 〜緊急空輸〜(原題:AIRLIFT)』のラージャー・クリシュナ・メーノーン。またこの作品は『アイアンマン』などで知られるハリウッド監督、ジョン・ファヴローが2014年に監督した『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』のインド版リメイクとして製作されています。

物語の舞台はまずはニューヨーク。この街の一流レストランでシェフを務めるローシャン(サイフ・アリー・カーン)は、客とイザコザを起こし店を馘になってしまいます。がっくり肩を落としつつ、彼はいい機会だからとインドに住む元妻と息子に会いに向かいます。久しぶりに会う息子との心休まる日々。そしてそこで彼は元妻と懇意の実業家から古びた二階建てバスを見せられ、移動レストランをやってみないかと勧めらます。最初は一流シェフだったプライドが許さなかったローシャンでしたが、次第にそのアイディアに興味を持ち始めます。

オリジナルであるファヴロー版は数年前観ていましたが、物語のアウトラインは殆ど同じなのにもかかわらず、アメリカとインドという舞台の違いからとても新鮮な気持ちで観る事が出来ました。

ファヴロー版ではロサンゼルスから物語が始まり、マイアミでキューバサンドイッチの販売を思いつく……という物語でしたが、この『Chef』ではニューヨークを発端にしつつ、主人公は元妻と息子の住むインド・ケーララ州のコチに飛び、そこから主人公の生まれ故郷であるニューデリーへ移動レストランの車を走らせるんですね。その途中ゴアに立ち寄りパーティーピープルとセッションを楽しんだりもします。この、南インドの風光明媚な土地柄と、インド大都市の喧騒の間を行き来するロードムービー的な描写が非常に活きてるんですよ。

こうして遷り変る風景の中で、最初は傲慢で頑固者だった主人公は自分を見つめ直すようになり、「料理を作るってどういうことなのだろう?」と自らに問いかけます。さらにそれまで疎遠だった息子との心の交流をも深めてゆくのです。また、かつてのニューヨークの同僚が助っ人で移動レストランに参加し、真に信頼できる人間関係とは何なのか主人公は思い知らされます。こうして、主人公は自らの「本当に大切なもの」を発見し、それを取り戻してゆくのがこの物語なんですね。こういった全体的に非常に強いポジティビティがこの物語をとても魅力的なものにしています。

惜しむらくは舞台となるケーララやニューデリーなどインドの料理がもっとたくさん紹介されて見た目的に「美味しい」作品なのを期待したんですが、その辺は割とあっさり目だったのがちょっと残念でしたね。まあインドの観客が自分の国の料理を改めて紹介されてもそれほど面白くも無いからだったんでしょうかね。どちらにしろ主演のサイフ・アリ・カーンは自らの役どころをしっかり把握した演技で実に好演でした。予定調和的ではありますが観て損の無い佳作だと思いますよ。