二つの恋の狭間~映画『心~君がくれた歌~』【IFFJ2017公開作】

■心~君がくれた歌~(原題:AE DIL HAI MUSHKIL) (監督:カラン・ジョーハル  2016年インド映画)

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映画『Ae Dil Hai Mushkil』はパリとウィーンを舞台に、二つの愛を通して自分を見つめ直してゆくある男の物語だ。

まずこの作品は『Kuch Kuch Hota Hai』『家族の四季 -愛すれど遠く離れて-』『スチューデント・オブ・ザ・イヤー 狙え!No.1!! 』のカラン・ジョハール監督による最新映画作品であることが一番の話題だろう。出演者にランビール・カプールアイシュワリヤー・ラーイアヌシュカー・シャルマーといったインド映画の大スターたちを揃えているところもカラン・ジョハール監督らしい。ファワード・カーン、リサ・ヘイドン、イムラーン・アッバースといった助演の配役も心憎い。さらにシャールク・カーンやアーリヤー・バットがカメオ出演しているのでこれは観ていて大いに盛り上がるだろう。

物語の主人公の名はアヤーン(ランビール・カプール)。どこぞの大金持ちの御曹司らしい彼はクラブでアリゼー(アヌシュカー・シャルマー)と知り合い意気投合、実は二人には既に恋人がいたが二人ともどもあっさり別れて交際を始める。だがアリゼーが大昔苦しい恋愛をした男と再び出会ってしまい、ここでアヤーンとの恋は終了。傷心のアヤーンは今度は謎めいた美女サバー(アイシュワリヤー・ラーイ)と出会い、共に暮らし始める。とはいえアヤーンはアリゼーへの想いがまだ捨てきれておらず、アリゼーにお互いの新しい恋人も含めて共に会おうと連絡を入れてしまう。

慌ただしくくっついたり離れたりを繰り返す恋愛ドラマである。こういうのを「大人の恋のドラマ」というのかどうなのか、恋愛において甚だしく小心者で奥手であったオレにはよく分からない。というよりも恋愛ドラマとして様々なシチュエーションをありったけ盛り込んでみました、というのが正解なような気がする。にもかかわらず、これだけあれこれ盛り込んでもバランスを崩すことなく綺麗にまとまりを保っている部分に流石大御所監督カラン・ジョハールという気がする。

とはいえ様々なシチュエーションとはいいながら、どことなく既視感の多いものであったのも確かだ。公開日はこの作品よりも後だが、丁度同じ頃にDVDで観た『Befikre』はこの作品と同じように「クラブで知り合った」り「友達以上恋人未満」であったり「元の恋人とダブルデート」であったりするし、過去の恋を語る形式はこれも最近観た『Meri Pyaari Bindu』と一緒だし、物語の中でランビール・カプールが苦しい恋の末にロックシンガーとして大成するなんてェのは彼がかつて主演した映画『Rockstar』と一緒じゃないか。元カノの結婚式を手伝いにいくなんてェ部分は『Raanjhanaa』を思い出したな。おまけにラストなんてアレだしなあ。これで「結婚に反対する親父をやり込める」のパターンがあれば完璧なんだけどな。

様々なシチュエーションと言いながらバリエーションが少ないというか、インド・ロマンス映画において恋愛パターンのストックがすっかり枯渇してしまったのだろうか。まあ、あれだけ作ってりゃなあ……。というより、「新しい恋の形」を提示しているように見えて結局型にはまってしまうのは、ボリウッド映画自体がお国の事情か何かのせいか保守化してきたこともあるんじゃないだろうか。自分は一昨年ぐらいからあまりインド映画を観なくなってきたのだが、国策映画が増えてきたことがその第一の理由で、その余波がロマンス映画にまで波及してきたんじゃないか、というのは勘繰り過ぎだろうか。これじゃあ巷のインド映画ファンの皆さんが「インド映画好きです。ただしサウスのほう」と言ってしまうのも分からないでもない気がする。

とまあこの辺は単に無根拠な決めつけでしかないのだけれども、映画作品自体もとてもよく出来ているし俳優それぞれは嫌味なく演じてるしその分十分見せるものになっているにもかかわらず、観終ってやはりどことなく白々しいものを覚えてしまった。変化球の質にこだわったばかりに直球を出すことが出来ず、だからこそ感情にストレートに訴える部分が見えにくくなっているということがあるのではないか。後に残ったのはひたすらゴージャスに盛り込まれたキャスティングとロケーションとインド人なら誰もが羨むような金の掛かった生活と奔放な恋の在り方だが、それらは目を楽しませはすれ結局空虚にしか思えないのだ。う~んどうしちゃったんだボリウッド映画?


Ae Dil Hai Mushkil | Teaser | Karan Johar | Aishwarya Rai Bachchan, Ranbir Kapoor, Anushka Sharma

思い出に変わるまで~映画『僕の可愛いビンドゥ』【IFFJ2017公開作】

■僕の可愛いビンドゥ [原題:MERI PYARI BINDU] (監督:アクシャイ・ローイ 2017年インド映画)

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ある小説家の男が回想する一人の女性との甘くほろ苦い思い出。映画『Meri Pyaari Bindu』は恋と友情の狭間で揺れ動き、時に交差し時に離れてゆく男女の心の様を描く作品だ。タイトルの意味は『僕の可愛いビンドゥー』。

主演は『Vicky Donor』『Dum Laga Ke Haisha』のアーユシュマーン・クラーナー、ヒロインに『Ladies vs Ricky Bahl』『Kill Dil』パリニーティ・チョープラー。彼女、プリヤンカー・チョープラーの妹さんなんだとか。 監督のアクシャイ・ローイは様々な作品の助監督を経た後短編映画で賞を取り、これが長編初監督となる。

主人公の名はアビマンユ(アーユシュマーン・クラーナー)、彼は成功したホラー小説作家だったが現在スランプに至っており、次はラブ・ストーリーを書こうと決める。そして思いだすのは彼がこれまで最も愛した女性ビンドゥー(パリニーティ・チョープラー)。アビマンユとビンドゥーは幼馴染だった。成長した二人がそれぞれの進路に進み別の土地に暮らすようになっても、別の恋人が出来ても、それでも二人の心は離れることは無かった。そしてある日二人は再会する。

カセットテープ、そこから流れる懐かしの名曲、舞台となるコルカタの古びた街並、そしてタイプライターで綴られる物語、それらがノスタルジックな雰囲気を盛り上げ、主人公の思い出を甘く切なく盛り上げる。主人公アビマンユが回想する"僕の可愛いビンドゥー"は明るく快活で表情豊か、とても懐っこく深い感情を持つ女性だ。そんなビンドゥーを演じるパリニーティ・チョープラーは隣のお姉さんかその妹といった風情の非常に親しみやすいキャラクターを見せ、これはもう確かに可愛らしくて仕方がない。彼女がわあわあ言いながら様々な感情の起伏を演じるのを見れば、きっと誰もが彼女を好きになってしまうだろう。

物語はそんなビンドゥーとアビマンユとの子供時代の出会いから成長し兄弟のように慣れ親しみ、それがいつか愛へと発展し、しかしそこに破局が訪れ……といったことが描かれるが、結局そんな思い出を現在の視点から「そんなこともあったよね」と懐かしく思い出しているだけで、それが現在と未来へと繋がることが無いのがドラマとして弱いのだ。そもそも物語を追ってゆくと主人公アビマンユが、結構自己愛が強く"オレ様"な人間であることが透けて見えてしまう。アビマンユとビンドゥーとの破局はアビマンユの無理解からだったが、それに対する反省が「現在」の時点で描かれないために、結局「自分に都合のいい思い出話を聞かされているだけ」に終わってしまう。

一席ぶつつもりはないが、恋愛はただ男女が仲よくするだけではなく相手に受け入れられるのと同時に自分も相手を受け入れようとすることなのではないか。だがここでのアビマンユは「子供時代から一緒だったし仲良かったから恋愛に発展するのは当然」のように行動するし「恋愛したら結婚するのが当然」とばかりにビンドゥーに結婚を申し込む。けれども、その時ビンドゥーが彼女の夢であった歌手として生きる事の危機にあったことを完璧無視しているのだ。ビンドゥーにとっての問題を、自分にとっての問題と思わない。この思慮の無さ、対話の無さは女性側から「伴侶として不安」と思われても仕方がない。

それらは過去の話であり、つまりは若さゆえの至らなさだということもできるだろう。けれども、そんな経緯があったことを「現在」において「思い出話」で済ませてしまっている。そして「甘く切ない過去」で終わらせてしまっている。これではアビマンユは物語を通して何一つ成長していないではないか。こんなシナリオの拙さがこの作品を食い足りないものにしている。ただ、個々の場面では非常に生活感溢れる描写が印象深く、二人の友人たちや両親の描き方も生き生きしており、さらに歌と踊りのシーンも楽しかったので、ちょっと惜しい作品だな、という気はした。


Meri Pyaari Bindu | Official Trailer - Chapter 1 | Ayushmann Khurrana | Parineeti Chopra

 

巴里の印度人~映画『ベーフィクレー~大胆不敵な二人~』【IFFJ2017公開作】

■ベーフィクレー~大胆不敵な二人~ [原題:BEFIKRE] (監督:アディティヤ・チョープラー 2017年インド映画)

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 映画『Befikre』はパリで出会った一組のインド男女の恋と友情の行方を描いたロマンチック・コメディだ。

主演となるのは『銃弾の饗宴-ラームとリーラ(Goliyon Ki Raasleela Ram-Leela)』、『Bajirao Mastani』のランヴィール・シン。ちなみにこの2作はオレの大のお気に入りのインド映画で、当然ランヴィール・シンも好きな男優だ。ヒロインは『Shuddh Desi Romance』のヴァーニー・カプール。そして監督があのインド映画に名高い名作『Dilwale Dulhania Le Jayenge』、さらに傑作『Rab Ne Bana Di Jodi』のアディティヤ・チョープラー。タイトルの意味は「気まま、気楽」といった所か。

物語はシンプルでもあり、風変わりでもある。デリーからパリへ仕事と冒険を求めてやってきたスタンダップ・コメディアンのダラム(ランヴィール・シン)はツアーコンダクターを営むインド人女性シャイラ(ヴァーニー・カプール)と出会い、恋に落ちる。しかし共に暮らし始めた二人はダラムの呑気さが祟ったのか程なくして破局、その後は友人として付き合うもダラムにはまだシャイラへの未練があった。そしてシャイラが新しい男性と付き合い始めたことを知ったダラムは自分も新しい恋人を作り、シャイラにダブル・デートを持ちかける。

映画は殆どがパリで撮影され、主人公となるインド人カップルがパリの恋人たちとなってパリの街を闊歩するある意味観光映画的な作品である。冒頭からパリのあらゆる街角でキスをする様々なカップルの映像が挿入されヨーロッパの自由な恋の雰囲気を盛り上げる。そう、この映画のテーマは多分パリジャンのような自由な恋をインド人のカップルが楽しむというものなのだろう。インド人が母国にいたら自由な恋などままならないからだ。だから異国に行って羽を伸ばしたい。インド映画には何の必然性も無く他の国で撮影される作品がよくあるが、この作品におけるパリという舞台は必然だったのだ。

だがこの作品には「自由気ままな恋」への憧れはあっても、「自由気ままな恋」がどんなものなのか実際にはよく分かってない、あるいは体験したことがないことによる、妄想だけで構築されたような上滑りした恋愛描写が目に付いてしまう。ランヴィール・シンのボンクラ演技はコミカルだが同時にコミックの登場人物のように地に足がついていないし、ヴァーニー・カプールは十分魅力的だったけれどもこと恋愛に関してはどこかちぐはぐなキャラクターだった。

例えばカンガナー・ラーナーウト主演による映画『Queen』は、婚約破棄によるヨーロッパ傷心旅行に出かけた主人公がパリやアムステルダムで様々な人々と出会い、様々な価値観や様々な生き方を目にし体験することにより、自分自身もまた新しく生まれ変わってゆくという作品だった。しかしこの『Befikre』においては主人公たちはパリのインド人コミュニティから一歩も足を踏み出すことなく、ただここがインドではないことの開放感のみによって「自由気ままな恋」を楽しんでいる。それはそれで構わないのだけれども、それはインド的恋愛慣習からの逸脱ではあっても、新しい恋愛の形を提示しているわけでは決してない。恋愛する側の内面がまるで変わっていないからだ。

そういった部分でどうにも煮え切らない恋愛描写の続く物語だった。「これからは恋ではなく友情!僕らはもう決して恋に落ちない!」とか誓い合ったりしながら未練たらたらなのがミエミエすぎてどうにも白けるのだ。掛け声だけで気持ちが付いていけていないのだ。これでは「自由気まま」を標榜しながら結局は旧弊な恋愛感情にがんじがらめではないか。ただ、「友情と恋」の新しいバリエーションを模索しようとしているらしいことはなんとなく伝わってきた。「友情から恋」はあっても「恋から友情」へのパターンは少なそうだしね。で、「でも「恋から友情」って、どうしたらいいの?」と持て余しちゃったのがこの物語のシナリオだったんじゃないかなあ。そして「やっぱり恋のほうがいいよ!」とやっちゃう所がインド映画らしいとも言えるのかもしれないな。

"乳の道"はどこへ至るのか~映画『オン・ザ・ミルキー・ロード』

オン・ザ・ミルキー・ロード (監督:エミール・クストリッツァ 2016年セルビア・イギリス・アメリカ映画)

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《目次》

 エミール・クストリッツァという傑出した映画監督

エミール・クストリッツァアレハンドロ・ホドロフスキーと並び、オレが世界で最も敬愛する映画監督の一人である。

クストリッツァは旧ユーゴスラビアサラエヴォ出身の映画監督だ。デビュー間もなく『パパは、出張中!』(1985)、『ジプシーのとき』(1985)でその才能を絶賛され、カンヌ映画監督賞を受賞するまでになるが、その後彼は大きな悲劇に見舞われる。故国旧ユーゴを分断したユーゴスラビア紛争、そしてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争である。

当時クストリッツァはアメリカに移住していたが、故国で起こっているこの戦争を世界に伝えるために、大作『アンダーグラウンド』(1995)を製作する。そしてそれは単なる戦争映画ではなかった。戦争を逃れ地下に隠れ伸びた者たちにユーゴスラビア史そのものを重ね合わせ、現実と非現実が重なりあった圧倒的な描写の中に戦争を生み出してしまう人間の"業"そのものを浮かび上がらせていたのだ。それは怒りの物語であり、さらに悲劇の彼方に有り得る筈の無い"救済"を透かせ見せようとした祈りの物語でもあった。

しかし様々な民族の思惑が複雑怪奇に入り乱れて巻き起こったこの紛争を一視点から描いたこの物語には一部に強烈な反感を生んだのらしい。その反感からクストリッツァは一時監督引退を宣言したほどであったという。その後クストリッツァは戦争テーマから離れ、独自の狂騒的な味わいを活かした作品を生み出し続けた。

クストリッツァはそもそもその物語に狂騒的な世界を表出させてきた監督だ。そこではいつでもどこでも音楽がけたたましく鳴り響き、動物たちはワンニャンブヒブヒモーモーヒヒーンと鳴き続け、猥雑極まりないキャラクターを持った人々がマシンガンのように感情を叩き付け、それらが混沌となって煮え立つ物語は、現実の光景を軽やかに逸脱して非現実の世界へと足を踏み入れるのだ。マジック・リアリズムクストリッツァの作品を一言で評するならこの言葉こそ似つかわしい。

クストリッツァの新作映画『オン・ザ・ミルキー・ロード

そのクストリッツァの9年振りともなる新作映画『オン・ザ・ミルキー・ロード』が公開された。そのテーマはまたしても「戦火の中の人々」である。

隣国との戦争に明け暮れるヨーロッパのどこかの国。主人公コスタはその国の前線となる小さな村で牛乳配達をする男だ。そんな村にある日美しい女がやって来る。彼女は村の英雄の花嫁となるため連れてこられたのだ。コスタはそんな花嫁に惹かれるものを感じていた。時を同じくして休戦協定の成されたことが村を駆け巡る。喜びに沸く村人たちは早速結婚式の準備を始めるが、そこに突然黒ずくめの特殊部隊が急襲、村人を殺害し始める。それは花嫁に恨みのある英国将校の仕業だった。コスタは花嫁を助け出し、決死の逃避行を開始する。

クストリッツァが戦争をテーマに映画を製作したのは『アンダーグラウンド』の他には『ライフ・イズ・ミラクル』(2004)がある。戦争への怒りを描いた『アンダーグラウンド』、戦火の中の希望を描いた『ライフ・イズ・ミラクル』の後に、『オン・ザ・ミルキー・ロード』ではどのような世界を描こうとしたのかに興味があった。

物語前半はまさにクストリッツァ節全開といった流れになる。どことも知れぬ東欧の片田舎を舞台に猥雑な人々が入り乱れ、家畜たちが好き勝手に画面を往来し、けたたましい音楽がいつでもどこでも鳴り響き、思わぬところで非現実的な事件が起こる。とはいえ今作ではそれらが少々大人しめだ。いつもの脱線し過ぎの描写が鳴りを潜め、物語が主人公コスタと"花嫁"(劇中名前は明かされない)を中心に直線的に進んでゆくためだ。

象徴と抽象

もうひとつ気になったのはクストリッツァ独特の象徴性が今作では妙に分かり難いということだ。クストリッツァが描く非現実はファンタジーなのではなく、現実における事象の何がしかの象徴であるのだが、これはオレの理解力の足りなさもあるのだろうが、今作ではそれが直観的に伝わってこないのだ。これは象徴性に託すべき、現実から零れ落ちるほどの情念が今作では希薄だったからなのではないか。

ただし物語後半における主人公の逃走劇において、動物たちが八面六臂の活躍を見せ主人公たちを助けてゆくという描写には、世界中の民話伝承に残る「呪的逃走」を模したものになっていて興味をそそられた。「呪的逃走」とは「呪術アイテムを投げながら追手の追跡を妨げる」物語形式で、例えば古事記においてイザナギがヨモツシコメから逃れるため髪飾りや葡萄の味や櫛の歯などを投げ、それらが変化することで追跡を妨げたという物語がある。これらは古代エジプトコーカサス、イタリアなどに同工の伝説が遺されているのだ。

とはいえこの「呪的逃走」であるべき根拠も見え難いことも確かだ。これに限らず今作ではあらゆるものが抽象化されているように思える。まずヒロインは"花嫁"と呼ばれるだけで名前が無い。また、そもそもの舞台が「どこかの国」であり、その戦争も「どこかの国」と行われ、なんらかの具体性に言及するのを意図的に止めているのだ。逆にそれは、具体性ではなく普遍性にクストリッツァが目を向けようとしたからなのかもしれない。自らの祖国が体験した戦争ではなく、数多の国で起こりえる戦争についての物語という事だ。だがこの抽象性がパッションを薄め、今作の物語を弱くした原因だったのかもしれない。

"乳の道"はどこへ至るのか

さて、その象徴性の中心となる、主人公が牛乳配達人(ただしロバで配る)であり、タイトルが『オン・ザ・ミルキー・ロード』であることについて自分なりに考えてみた。

ミルクは生命を育むものであり、そして酪農を通して人を潤わせ、さらに自然との繋がりを持つものだ。そして劇中花嫁がミルク塗れになる描写は精液のメタファーであり、それは生命を生み出すものだ。即ちミルクは生命そのものであるということなのだ。そして牛乳配達人の主人公は花嫁と共に命を懸けた逃避行を続ける。タイトル『オン・ザ・ミルキー・ロード』はそういった生命へと続く道のことを言い表してるのではないか。

同時にこの物語は、ラストまで観終った時に「これは《戦後》についての物語だったのではないか」と思わされた。戦争の悲惨に怒りをぶつけた『アンダーグラウンド』、悲惨の中にあって希望とは何かを描いた『ライフ・イズ・ミラクル』と続いてきたクストリッツァ戦争映画の中で、『オン・ザ・ミルキー・ロード』はそれら戦争が終わり生き延びた人々が、その未来に何を負って生きるのか、を描こうとしたのではないか。

戦争が終わり平和が訪れても、生き延びた人々が喪ってしまったものは決して還ることはない。その平和は、安寧なのではなく、喪われたものの記憶と過ごさざるを得ない、終わることの無い喪の時間であると言うこともできるのだ。しかし、人は過去にのみ生きることはできない。何がしかの未来へと自らを繋げなければならない。そしてそれは、生命の溢れる"ミルキー・ロード"へと至る道でなければならないのだ。あのラストには、そういった意味が込められていたのではないかとオレなどは思うのだ。

予告編


エミール・クストリッツァ監督最新作!『オン・ザ・ミルキー・ロード』予告

参考記事

今回取り上げたクストリッツァ作品のソフト

廃盤・売り切れになっているものが多く、一刻も早く復活させてほしい。

パパは、出張中! [DVD]

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ジプシーのとき [DVD]

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アンダーグラウンド Blu-ray

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ライフ・イズ・ミラクル [DVD]

ライフ・イズ・ミラクル [DVD]

 
ウェディング・ベルを鳴らせ! [DVD]

ウェディング・ベルを鳴らせ! [DVD]

 

『プロメテウス』と『エイリアン』を繋ぐ作品~映画『エイリアン:コヴェナント』

エイリアン:コヴェナント (監督:リドリー・スコット 2017年アメリカ映画)

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『プロメテウス』って映画あったじゃないですか、リドリー・スコットの。あれ、製作サイドからも『エイリアン』の前日譚だとか実はちょっと違うだとかなんだかゴニョゴニョした言い方されてて、どうも位置付けのはっきりしない作品だったんですよね。

でまあ実際観てみるととても『エイリアン』っぽいし『エイリアン』絡みのアレやコレやが出てきはするんだけど、「でもこれがどう『エイリアン』と繋がるの?実はやっぱり関係なかったりするの?」という独自すぎるストーリーだったんですよね。とはいえ、映画そのものはリドリー・スコットらしいひたすら美しい映像で描かれたひたすらエグイ話で個人的にはとっても大好きなんですが!

で、その続編とかいう話の『エイリアン:コヴェナント』観てきました。今度はタイトルに『エイリアン』って名前付いてるけど、またぞろ『エイリアン』正編とも実は『プロメテウス』とも関係ない別バージョン商売なんじゃないの?と相当疑ってたんですが、なんと観てビックリ。きちんと『プロメテウス』の続編になっているばかりか、正編の『エイリアン』にきちんと繋がる物語になっていたじゃないですか!?なんだリドリー・スコット、ちゃんと『エイリアン』正編憶えてたんだ?

物語内容についてはあれこれ詳しく書きません。2000人の冷凍睡眠状態の人間と1000体の人間の胚の乗せられた恒星間植民船コヴェナント号が宇宙空間で謎の電波を受信してチョイとその惑星に寄り道したら案の定エライ事になったという、プロット的には『エイリアン』第1作目とまるで変わらない物語だからです。あまりにも一緒なもんですから「ちょっと芸無さ過ぎじゃねえか?」と一瞬眉間に皺が寄りました。そんなこと言ったら『プロメテウス』も似たようなプロットでしたがね。

この芸の無いシナリオはその後もそのまんまで、結局ずっと『エイリアン』と『プロメテウス』の別バージョンを延々見せられているような気分になってきます。確かに「『プロメテウス』ラストで生き残ったあの人はどうなったのか?彼らが目指した「エンジニアの惑星」に辿り着けたのか?」の説明はあるし、「『エイリアン』とどう繋がるのか?」も描かれはするんですが、逆にそれらの辻褄合わせに腐心し過ぎたのか『プロメテウス』の「訳が分からないけどやりたい放題やってるノリの良いエグさ」が薄れていて全体的なインパクトに乏しいんですよね。

それと最大の難点は、画面がいつでもどこでも暗いことなんですよね。リドリー・スコットSF映画の醍醐味はその作り込まれた美術の美しいデザインとディテールを楽しむということも含まれているんですが、今作はなんかもうモヤッと薄暗いロケーションばかりでフラストレーションが溜まるんですよ。なんだか出来の悪い続編の定番みたいな状況になってるんですよね。あと『エイリアン』と繋げるためなのか見たことのあるようなシーンが多過ぎて驚きが薄い、新鮮さが無いというのもありますね。

そんな訳で『エイリアン・サーガ』の中では結構重要な部分に位置する物語であるにも関わらず、『サーガ』の中で一番地味で面白味のない作品になっちゃってるんですよこの『コヴェナント』。結局「前日譚」って「既に起こったあのことはそもそもどうしてああなったのか」という「既に知っていること」から始めなきゃいけないんで、作るのが難しいってことなんだろうかなあ。『プロメテウス』あたりは『エイリアン』の最初から説明するつもりのなかったはずのあれやこれやにいろんな理由をヒリ出していて楽しめたんですが、『コヴェナント』における「エイリアン誕生の秘密」ってあんまり興味がそそられなくて(ああ、またあのパターンね、という)、そのどうでもよさもこの作品を退屈にしちゃってるんだよなあ。


映画『エイリアン:コヴェナント』予告A