ひとりっ子 / グレッグ・イーガン (その3)

■デヴィッド・ドイッチュの多世界解釈
量子コンピュータを思考回路として持つアンドロイドの生きる決定論的宇宙の存在」を考える時に参考になると思われるのは「デヴィッド・ドイッチュの多世界解釈」である。

意識を多宇宙にまたがる複雑性と理解すれば、結論はだせないが、意識と物理的過程を両立することができるようになった。
自由意志と物理学の折り合いが悪いのは、決定論にあやまりがあるのではなく、古典的時空にある。例え、非決定的(ランダムな)法則に置き換えても、自由意志の問題は解決がつかない。自由はランダムさとは関係がない。肝心なのは、我々が何者であるか意識し、何をしようと考え、決定される行動だ。
万物の理論 デヴィッド・ドイッチュ

理論物理学のデイヴィッド・ドイッチュは量子コンピュータの実現性を初めて証明した人物であるが、書評などを読むとこの「デヴィッド・ドイッチュの多世界解釈」では量子コンピュータのみならず、平行宇宙、仮想現実、コンピュータサイエンス、認識論、数学的真理、進化論など広汎な項目を網羅し、科学の新たなパラダイムシフトを提唱しているものとなっているようだ。その項目の中ではそのものずばり「万物の理論」と呼ばれるものもあり、どうやらこのデイヴィッド・ドイッチュがグレッグ・イーガンのネタ本になっているのではないかと思わせる問題提起を数多くしている。オレが読解出来るような類の書籍だとは思わないが、興味の在る方は触れられてみるといい。物理学のフィールドでは賛否両論あるようだが、ひとつの思弁を導き出す実験として非常に優れた切り口を見せているように思う。
さてここでドイッチェは、”自由意志こそが量子論的/多世界的宇宙を反映したもの”と説いている。そこからイーガンは量子コンピュータを頭脳に持つ人工知能が限りなく人間に近い思考をするものであると(あくまでフィクショナルに)導き出したのだろう。しかし物語内の実験の描写では触れられているが、実際の所、量子コンピュータ知性が物事を意識的に”決定”してゆく過程というのはイメージし難いものがある。また、人間の知性を電脳で再現するには量子コンピュータよりもカオスコンピュータのほうが適しているのではないか、という記述もどこかで読んだ事がある。

■物語としての《ひとりっ子》
物語はある科学者の男女が出会い結婚するが、子供に恵まれない為にまだ研究途上の量子コンピュータを頭脳に持つアンドロイドを子供として迎え入れることを決意することから始まる。この人工生命を子供として受け入れる、という感覚は、小動物や人形を我が子のように扱うようないわば代償行為に近いものに見え、最初どこか歪なものに感じてしまった。成長過程に合わせた大小のアンドロイド擬体が並べられる描写もあるが、やはりグロテスクなのだ。
しかし量子コンピュータ知性の少女が”成長”し、主人公夫婦と対話し生活を共にする姿はやはり愛くるしい。それは人間とは変わりの無い情景だ。だがここで描かれる関係は親子のものだけれども、その底流には「しかし人工物には変わりは無い」というイロニーが常に付きまとう。人工知性の少女も自分が人工物だということを知っている。そして少女は言う、「何故私を作ったの?」と。だがこれは現実の親子の中でも交わされているであろう会話だ。子供であった頃なら親に問うたかもしれず、親であったなら子供に問われたことが在るかもしれない。何故自分は存在し、自分はここで何をするべきなのか。親であったならそれをどう伝えるべきなのか。生きる為に無くてはならない自己存在の確立と自己肯定の過程は、我々も体験したことがあるだろうし、時としてそれが困難を伴うものであることもご存知だろう。
またこの物語は”人はその生の中で何を選択して生きてゆくのか”というメッセージを量子的多世界解釈に託して描いている。例え無数の決定が多世界に渡って行われるのだとしても、我々がこの世界で決定できる事はたった一つしかない。人はその過程で「もし〜をしていたら、していなかったら」という逡巡や後悔を胸の中に抱く。成されなかった事、成すべきだった事の狭間で人の心は揺れ動く。だが我々は、現実に唯一つ決定した事の責任を背負って生き続けなければならない。その中でまた、明日を選択していかなければならない。それが苦渋に満ちたものであろうと、ただ一つ出来る行為はよりよい明日と自分の為に選択し続けることだけだからである。そしてイーガンはテクノロジーと生命がせめぎ合う中で人間存在とは何かを問おうとする。これが、グレッグ・イーガンのSFなのである。