クワイエットルームにようこそ (監督:松尾スズキ 2007年 日本映画)

この映画『クワイエットルームにようこそ』は舞台大人計画主宰の演出家であり、作家でもある松尾スズキ氏の、同名小説を自ら映画化したものだ。物語は、フリーライターの佐倉明日香(内田有紀)が酒と睡眠薬の過剰摂取(オーバードース)により精神病院保護室クワイエットルーム”で目覚めるところから始まる。ここは閉鎖病棟になっており、彼女の意思では出ることが出来ない。そしてその中で、様々な心に病を持った女性達と知り合い、主人公は心の奥底に閉じ込めていた真実の自分を次第に吐露してゆく。

映画で最初に気になったのは主演の内田有紀が健康的に見えすぎることだ。素材として表情に影が無いばかりか、オーバードースで病院に担ぎ込まれたわりには肌の色艶が良すぎるのだ。しかも意識が回復してからの自省の無さと元気の良さがまた嘘臭い。アルコールのオーバードース(二日酔い)で一日寝込んだオレでさえもうちょっとウツ入るぞ。その点で言えば過食症の患者も拒食症の患者もまるでそのように見えはしない。確かに精神病院の現実を陰々滅々としたリアリズムで描く必要は無い。だがそれぞれの登場人物たちが入院することになったその背景や心の傷も描かれていない以上、その誰にも感情移入することは出来ず、つまりはこの映画の入院患者たちというのは単なる舞台設定や背景としてしか存在していないということになってしまうのだ。そして主人公の夫としてイロモノ放送作家・鉄雄(宮藤官九郎)を配しドタバタを演じさせることで物語は一気に笑えないコメディと化してゆく。

そもそもイロモノであり所詮浮き草のような存在でしかないギョーカイジンに、平凡な一般人の観客がどれだけ共感を覚えるというのだろうか。主人公が後に語る真実の苦悩とやらも極端であり、またその不幸の振幅も大仰過ぎてネタ以上の感想を抱けない。さらに”真実の自分の吐露”はあるのだけれども、こういった映画の表現すべき、”真実の自分と向き合い、克服してゆくこと”が、この映画ではスッポリと脱落しているのだ。それは主人公だけではなく、入院患者全てに当てはまる。つまりここで描かれた”真実の自分”の姿は、女性週刊誌並みの不幸の羅列に過ぎず、これを舞台出身監督が狂騒的で露悪的な舞台のノリで仰々しく語っている以上のものに見えないのだ。そして「精神病院保護室に入ってしまった自分」は「言いたい事も言ったし体も心も元気になりました」ということで最後はあっさり退院してしまう。しかも「入院する前」と「退院することができた」”自分”には重要な変換があったという内面的ドラマの欠片も見せずにだ。多分監督松尾の頭には「精神病院という特殊な設定でのドタバタ=おいしい」という図式しか無かったのであろう。

クライマックス、放送作家でイロモノの夫と別れることに決めた主人公が「私のことを”鬱陶しい”と言って下さい。そして別れましょう」と言う場面がある。そしてイロモノの夫は本当にその通り言って別れてしまう。確かに人生は鬱陶しい。生きていくということは、様々なことがどんどん始末に負えないものへと膨れ上がってゆくという過程だ。そしてその中で人はどうしても生々しく生きていかざるをえない部分を抱えてゆく。それが”鬱陶しい”ということだ。だがそれを背負って生きていくのが人生というものなのではないか。そして、”鬱陶しい”部分も含めて、人は人を愛するものなのではないか。”鬱陶しい”とこれから別れようとする伴侶に言わせることで、主人公はやっと自分の背負うべきものを見つけたのかもしれない。だからこそ、イロモノの夫には、”君は鬱陶しい、だからこそ君が好きだ”と言って貰いたかった。心の傷を扱っているはずのこの映画には、それを癒す為の”愛”という要素が徹底的に欠けている。

クワイエットルームにようこそ トレイラー