「文学史上もっとも恐ろしい小説」と呼ばれるヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』を読んだ

ねじの回転/ヘンリー・ジェイムズ (著), 土屋 政雄 (翻訳)

ねじの回転 (光文社古典新訳文庫)

両親を亡くし、英国エセックスの伯父の屋敷に身を寄せる美しい兄妹。奇妙な条件のもと、その家庭教師として雇われた「わたし」は、邪悪な亡霊を目撃する。子供たちを守るべく勇気を振り絞ってその正体を探ろうとするが――登場人物の複雑な心理描写、巧緻きわまる構造から紡ぎ出される戦慄の物語。ラストの怖さに息を呑む、文学史上もっとも恐ろしい小説、新訳で登場。

1898年に発表されたヘンリー・ジェイムズによる中編小説『ねじの回転』は、恐怖小説の名作中の名作と評されることもある有名な作品である。ヘンリー・ジェイムズ(1843 - 1916)はアメリカで生まれイギリスで活躍した作家であり、英米心理主義小説、モダニズム文学小説の先駆者としても知られている。彼は物語を観察的な視点から描くという、それまでの小説にはなかった新しい手法を開発し、代表作である『デイジー・ミラー』『ある婦人の肖像』『使者たち』といった作品は19世紀から20世紀の英米文学を代表するものとされている。

物語はとある屋敷の家庭教師として赴任してきた女性が、この屋敷であり得べからざるものを見てしまう、といったもの。こうして書いてしまうと単純な幽霊屋敷ホラーのようだが、実際は幾重にも暗喩と隠喩が張り巡らされ、物語それ自体も複雑な入れ子構造を成し、読む者によって多様な解釈ができ、多様な結論を導き出せるという一種難解な小説となっている。この難解さにより多数の論文が書かれ、推理小説家までがその解題に乗り出している、という小説なのだ。

この難解さの大元となるのは、ひとえに「主人公女性は本当に幽霊を見たのか?幽霊でないとすればこれは主人公の異常心理の物語なのか?」ということであり、同時に当時の社会背景にあるなにがしかの要素が、この物語を描かせることになった大きな要因となっているのではないか、と考察されるからなのらしい。そしてその異常心理の根幹となるのは、作品の書かれた19世紀イギリス社会の抑圧された性的欲求であり、当時では語ることの許されない小児性欲、性的虐待が行間からうっすらと滲み出ている、といった部分にあるのだという。

そういった部分で、予め複数の読み解き方を想定して書かれた小説であり、ここで単純に「幽霊はいた/いなかった」と個人的な解釈を書くのはどうにも座りが悪い。むしろこのモヤモヤ感こそがこの物語の真骨頂なのだろう。怪奇小説として素直に楽しめる作品では決してないのだが、文学的迷宮の怪奇さを求めて読むのなら、なかなかに歯応えのある作品だと言えるだろう。

 

ヤマザキマリの『続 テルマエ・ロマエ』を読んだ

テルマエ・ロマエ (1) / ヤマザキマリ

続テルマエ・ロマエ 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

紀元158年、ローマ帝国アントニヌス・ピウス帝の統治下20年目、ローマの浴場設計技師ルシウスは還暦を控えて腰痛持ち、妻さつきは謎の失踪、息子マリウスとは親子不和、さらに彼を悩ませるのはローマの風呂の仕事であったが…。解決のカギは日本の温泉にあった…!?

あの『テルマエ・ロマエ』の続編と聞いて、こりゃあ読まなきゃ!とは思ったが、あの作品にまだ描くことがあるのか?とか安易な続編じゃないといいがなあ、といった不安はあるといえばあったんだけどね。しかし実際読んでみたら単なる杞憂だった。まずとにかく面白い、そしてただ面白いんじゃなくて、前作からパワーアップしてるんじゃないのか!?と思わせる面白さなんだよな。

実はヤマザキマリのコミックは『テルマエ・ロマエ』の後、とりみきとの合作『プリニウス』しか読んでなくて、『スティーブ・ジョブズ』や『オリンピア・キュクロス』あたりはテーマに興味が湧かなくて読んでなかった。で、『プリニウス』も、悪くはなかったけどちょっと窮屈だったかな、という感想があった。

その後に久々にこの『続・テルマエ・ロマエ』を読んでみたら、なんだかヤマザキマリがノリノリかつ伸び伸びと描いているのが手に取るように伝わってきて、それはヤマザキマリお得意のローマが題材という点よりも、その独特のギャクセンスが、とてもいい具合にハッチャケていて、あーこれだよ、こういうのが読みたかったんだよ!と思わせてくれたのだよ。

物語は前作から20年が経ったことになっていて、当然主人公ルシウスは20年歳をとっており、今やすっかりお年寄り、温泉でも治せない腰の痛みに悩まされていたりする。そういえば前作ラストで結ばれた日本人女性さつきはどうなったの?と思ったらなんと謎の失踪をしていて、その代わり二人の息子マリウスが登場する。

20年の間にローマの治世も変わり、現在の皇帝はアントニウス・ピウス帝。平和な時代だったようだが、それでも問題はないことはない。こういった点で、前作とはいろいろ様変わりしてる部分があり、その中でどうルシウスが老体を鞭打ち奮闘してくれるのか、という楽しさがある。あと温泉オタクの日本人キャラが新登場するんだが、面白いからこれからも登場させて欲しい。というわけでも今後も楽しみです。

 

 

ピーター・ディンクレイジとアン・ハサウェイ共演のロマンチック・コメディ『ブルックリンでオペラを』を観た

ブルックリンでオペラを (監督:レベッカ・ミラー 2023年アメリカ映画)

ピーター・ディンクレイジが好きだ。小人症というハンディキャップを背負いながら、逆にそれを類稀な個性として生かし、威風堂々と役柄を演じ切るディンクレイジにはいつも惚れ惚れとさせられる。アン・ハサウェイも好きな女優だ。アン・ハサウェイは美人過ぎて逆に非現実的な存在に見えてしまうという変な女優で、だから普通に美人役をやらせるよりも変な役をやらせた方が面白い。

そのピーター・ディンクレイジアン・ハサウェイが共演したロマンチックコメディが公開されると知って興味が湧き、観てみることにした。タイトルは『ブルックリンでオペラを』、ディンクレイジとハサウェイは夫婦役で、ちょっとエキセントリックなこの二人がなにやらエキセントリックな災難に遭うのらしい。共演にマリサ・トメイ、監督は「50歳の恋愛白書」のレベッカ・ミラー。

《物語》ニューヨーク、ブルックリンに暮らす精神科医のパトリシアと、現代オペラ作曲家のスティーブンの夫婦。人生最大のスランプに陥っていたスティーブンは、愛犬との散歩先のとあるバーで、風変わりな船長のカトリーナと出会う。カトリーナに誘われて船に乗り込んだスティーブンを襲ったある事態により、夫婦の人生は劇的に変化していく。

ブルックリンでオペラを : 作品情報 - 映画.com

ディンクレイジは哲学的な相貌が魅力的な俳優だが、この映画でもいつも今日が世界の終りの日みたいな深刻な表情を浮かべていて、それがコミカルな味わいをもたらしている。一方ハサウェイは一見まともな役なのにもかかわらず、いつも周りから浮き上がって見えるのは、やはり美人過ぎる女優だからだろう。このちょっと現実離れした二人が夫婦役だというのが妙にハマっていて、別の映画でも共演してみせて欲しいと思ったほどだ。なにしろディンクレイジとハサウェイを眺めているだけでも楽しいのだ。

この映画の登場人物たちは誰もがなにがしかの形で病んでいるか、問題を抱えている。まずスティーブンは人間嫌いで鬱病。パトリシアは病的な潔癖症。カトレーナはストーカーと化すほどの恋愛依存症。こんな登場人物ばかりなので破綻を起こすのは待ったなし、そしてその破綻の中でどう自分の人生と向き合うのか、というのが物語の主題となる。その中でハサウェイ演じるパトリシアの扱いだけが妙にブラックなのだが、ハサウェイはこの映画のプロデューサーも務めているので、多分セルフジョークなのだろう。

心を病んだり問題を抱えている人々の物語、おまけに舞台がブルックリン、というのはそれほど珍しくないが、オペラ作曲家と精神科医のセレブ夫婦という設定が物語を目新しいものにしている。しかも演じるのがディンクレイジとハサウェイだ。この二人、もともとコメディのセンスがあり、一歩間違うと重くなりがちなテーマを軽やかにし、セレブ夫婦という役柄を嫌味なく演じていた。作中、主人公が作ったオペラ作品も2作演じられるが、これがなかなか見せるものになっていた。物語の出来はまあまあだが、ディンクレイジとハサウェイの出演により魅力的な作品に仕上がっていた。

 

激動の80年代イギリスを彷徨する若者たちの魂/映画『THIS IS ENGLAND』

THIS IS ENGLAND (監督:シェーン・メドウス 2006年イギリス映画)

1983年、サッチャー政権下のイギリス。父親をフォークランド紛争で亡くした少年ショーンは、町にたむろする不良少年たちと交流するようになる。しかしその彼らに極右主義集団が接近し、仲間に加えようと狙っていた。映画は監督シェーン・メドウスの実体験をもとに製作されたという。

冒頭にルーツ・レゲエ・バンド、トゥーツ・アンド・メイタルズの名曲「54-46 Was My Number」が流れておおこりゃご機嫌だね、と思ったけど、訳された歌詞を読んだら最底辺のチンピラの麻薬売買についての内容で頭がクラクラした。英語を理解してないとたまにこんな目に遭う。そんな冒頭に流れるのは当時の英首相サッチャーと、生前のダイアナ妃と、フォークランド紛争の戦闘で片足が千切れた兵士の映像だ。

イギリスの若者を描く映画ってどれも鬱屈しているな。この映画の主人公は小中学生ぐらいの少年なのだけれども、ピンク・フロイドの『アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール』の歌詞そのままの学校への嫌悪と、『時計仕掛けのオレンジ』と『トレイン・スポッティング』の中間にあるような殺伐とした毎日を描いたお話で、モリッシーの曲『エブリデイ・イズ・ライク・サンデー』みたいな日常への呪いに満ち満ちている。

物語の背景にあるのはサッチャリズムの失敗による長期化した不況と高い失業率、それによる社会不安と貧困だ。その中でデリケートでセンシティヴな子供たちは逃げ場のない閉塞感の中に捨て置かれる。そりゃあ鬱屈もするだろう。ネオファシズム政党・イギリス国民党が1982年結党で、物語の時代ときれいに被っており、社会不安と右傾化が密接に関わっている様が手に取るように分かる。

とはいえ救いを感じたのは、物語で描かれる「スキンヘッズの不良少年」たちが、社会の爪弾き者集団では決してない、という部分だ。彼らは逆に、居場所を失った者同士のセーフティネットとして機能しているのだ。彼らは気の置けないコミュニティを作り、仲間を大事にし、彼らなりの真正さで生き難い社会を生きようとする。極右に走る暴力的な者ももちろんいるのだけれども、そういった者たちばかりではないのだ。こんな若者たちの気風の中に、当時のパンク/ニューウェーブといった音楽ムーブメントの一端を垣間見たような気がした。

余談だが、フォークランド紛争に揺れる1982年のイギリスで、UKロック史上最高のアルバムの1枚に数え上げられるであろう作品がリリースされている。それはロキシー・ミュージックの『アヴァロン』である。血腥い戦争と政治闘争の最中にある国で、それとは真逆の位置から「至高の愛」を歌ったアルバム『アヴァロン』。そこに政治的意味はないだろうけれども、むしろ、だからこそ、ロック・ミュージックというものの強靭さを改めて思い知ったアルバムだった。

この映画はこちらのブログの紹介で観てみました。映画ラストに流れるザ・スミスの「プリーズ・プリーズ・プリーズ」の対訳が泣かせるので是非こちらもお読みください。

永遠の若さを得た男を巡る怪奇と幻想の物語/オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』

ドリアン・グレイの肖像 / オスカー・ワイルド (著)、仁木 めぐみ (翻訳)

ドリアン・グレイの肖像 (光文社古典新訳文庫)

「若さ! 若さ! 若さをのぞいたらこの世に何が残るというのだ!」美貌の青年ドリアンと彼に魅了される画家バジル。そしてドリアンを自分の色に染めようとする快楽主義者のヘンリー卿。卿に感化され、快楽に耽り堕落していくドリアンは、その肖像画だけが醜く変貌し、本人は美貌と若さを失うことはなかったが……。美貌を保つ肉体と醜く変貌する魂の対比。ワイルドの芸術観・道徳観が盛り込まれた代表作。 

このところ古典怪奇文学を集中的に読んでいるオレだが、今回読んだのはオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』。『サロメ』、『幸福な王子』などでも知られるワイルドはアイルランド出身の詩人、作家、劇作家であり、19世紀末の文学界で耽美的・退廃的・懐疑的な旗手として語られている。

『ドリアン・グレイの肖像』はオスカー・ワイルド唯一の長編小説作品であり、耽美と頽廃に満ちた作品として完成している。物語は快楽主義者の美青年ドリアン・グレイが友人の画家バジルのモデルとなり、本人同様に美しい肖像画が完成するところから始まる。永遠に美しくありたいと願うドリアンはこの肖像画が代わりに年を取ってくれればと願い、それは叶えられてしまう。しかし次第に醜さを増してゆく肖像画を見ながら、ドリアンは次第に狂気に捕らえられてゆくのだ。

さて、そもそもこの物語には奇妙な「捻じれ」が存在する。なぜなら、自らの肖像画がいかに醜く年取ろうと、それにより現実の自分が永遠の若さを保てているのであればむしろ僥倖ではないか。にもかかわらずドリアン・グレイは、次第に醜怪となってゆく肖像画を眺めその有り様に悲嘆し絶望するのである。こういった感情の描き方にどこか作為を感じるのだ。これは、そもそもこの物語が、表層的な超自然的怪異を描くことを意図して描いたものではないということなのではないか。

むしろこの物語は、芸術作品はほぼ永遠にその美しさを保つのに、それに比べ人の命があまりに儚い事を、そしてその悲しみを、あえて逆の立場に置き換えて描いた作品なのではないだろうか。つまりここで描かれる「永遠の美」とは、ドリアン・グレイではなく芸術の永遠の美を、定命の者の立場から切なく愛おしく賛美した作品ととれないだろうか。作品の中で繰り返し語られる芸術への愛執からもそれは感じるのだ。

こういった形で読み替えてみると、この物語は歳を重ね零落してゆくドリアン・グレイが、永遠の若さを持ったまま永遠の中で制止する自らの肖像画を眺めながら、ただ醜く老いさらばえてゆく自己に呻吟する物語だということができるのだ。ここで描かれる主人公の悲嘆の全ては、即ち自らの老いそのものの悲嘆を指すものであり、そのうえであえて肖像画と主人公との立像を反転させることで、奇妙に妖しく異様なものとして成立させた物語なのではないかと思えるのだ。

ではなぜワイルドはこのような「捻じれた」構成を持ち込んだのか。それは文中にあるように、ワイルドが「文学に野卑なリアリズムを持ち込むことを嫌う(p262)」文学者だからだ。老いさらばえて醜くなった男の悲しみをリアルに描いた物語などワイルドにとって美しくもなく面白くもない「野卑な」文学なのだ。こういった部分にワイルドならではの独特の美意識を感じることのできる作品だと言えるだろう。