ピーター・ディンクレイジとアン・ハサウェイ共演のロマンチック・コメディ『ブルックリンでオペラを』を観た

ブルックリンでオペラを (監督:レベッカ・ミラー 2023年アメリカ映画)

ピーター・ディンクレイジが好きだ。小人症というハンディキャップを背負いながら、逆にそれを類稀な個性として生かし、威風堂々と役柄を演じ切るディンクレイジにはいつも惚れ惚れとさせられる。アン・ハサウェイも好きな女優だ。アン・ハサウェイは美人過ぎて逆に非現実的な存在に見えてしまうという変な女優で、だから普通に美人役をやらせるよりも変な役をやらせた方が面白い。

そのピーター・ディンクレイジアン・ハサウェイが共演したロマンチックコメディが公開されると知って興味が湧き、観てみることにした。タイトルは『ブルックリンでオペラを』、ディンクレイジとハサウェイは夫婦役で、ちょっとエキセントリックなこの二人がなにやらエキセントリックな災難に遭うのらしい。共演にマリサ・トメイ、監督は「50歳の恋愛白書」のレベッカ・ミラー。

《物語》ニューヨーク、ブルックリンに暮らす精神科医のパトリシアと、現代オペラ作曲家のスティーブンの夫婦。人生最大のスランプに陥っていたスティーブンは、愛犬との散歩先のとあるバーで、風変わりな船長のカトリーナと出会う。カトリーナに誘われて船に乗り込んだスティーブンを襲ったある事態により、夫婦の人生は劇的に変化していく。

ブルックリンでオペラを : 作品情報 - 映画.com

ディンクレイジは哲学的な相貌が魅力的な俳優だが、この映画でもいつも今日が世界の終りの日みたいな深刻な表情を浮かべていて、それがコミカルな味わいをもたらしている。一方ハサウェイは一見まともな役なのにもかかわらず、いつも周りから浮き上がって見えるのは、やはり美人過ぎる女優だからだろう。このちょっと現実離れした二人が夫婦役だというのが妙にハマっていて、別の映画でも共演してみせて欲しいと思ったほどだ。なにしろディンクレイジとハサウェイを眺めているだけでも楽しいのだ。

この映画の登場人物たちは誰もがなにがしかの形で病んでいるか、問題を抱えている。まずスティーブンは人間嫌いで鬱病。パトリシアは病的な潔癖症。カトレーナはストーカーと化すほどの恋愛依存症。こんな登場人物ばかりなので破綻を起こすのは待ったなし、そしてその破綻の中でどう自分の人生と向き合うのか、というのが物語の主題となる。その中でハサウェイ演じるパトリシアの扱いだけが妙にブラックなのだが、ハサウェイはこの映画のプロデューサーも務めているので、多分セルフジョークなのだろう。

心を病んだり問題を抱えている人々の物語、おまけに舞台がブルックリン、というのはそれほど珍しくないが、オペラ作曲家と精神科医のセレブ夫婦という設定が物語を目新しいものにしている。しかも演じるのがディンクレイジとハサウェイだ。この二人、もともとコメディのセンスがあり、一歩間違うと重くなりがちなテーマを軽やかにし、セレブ夫婦という役柄を嫌味なく演じていた。作中、主人公が作ったオペラ作品も2作演じられるが、これがなかなか見せるものになっていた。物語の出来はまあまあだが、ディンクレイジとハサウェイの出演により魅力的な作品に仕上がっていた。

 

激動の80年代イギリスを彷徨する若者たちの魂/映画『THIS IS ENGLAND』

THIS IS ENGLAND (監督:シェーン・メドウス 2006年イギリス映画)

1983年、サッチャー政権下のイギリス。父親をフォークランド紛争で亡くした少年ショーンは、町にたむろする不良少年たちと交流するようになる。しかしその彼らに極右主義集団が接近し、仲間に加えようと狙っていた。映画は監督シェーン・メドウスの実体験をもとに製作されたという。

冒頭にルーツ・レゲエ・バンド、トゥーツ・アンド・メイタルズの名曲「54-46 Was My Number」が流れておおこりゃご機嫌だね、と思ったけど、訳された歌詞を読んだら最底辺のチンピラの麻薬売買についての内容で頭がクラクラした。英語を理解してないとたまにこんな目に遭う。そんな冒頭に流れるのは当時の英首相サッチャーと、生前のダイアナ妃と、フォークランド紛争の戦闘で片足が千切れた兵士の映像だ。

イギリスの若者を描く映画ってどれも鬱屈しているな。この映画の主人公は小中学生ぐらいの少年なのだけれども、ピンク・フロイドの『アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール』の歌詞そのままの学校への嫌悪と、『時計仕掛けのオレンジ』と『トレイン・スポッティング』の中間にあるような殺伐とした毎日を描いたお話で、モリッシーの曲『エブリデイ・イズ・ライク・サンデー』みたいな日常への呪いに満ち満ちている。

物語の背景にあるのはサッチャリズムの失敗による長期化した不況と高い失業率、それによる社会不安と貧困だ。その中でデリケートでセンシティヴな子供たちは逃げ場のない閉塞感の中に捨て置かれる。そりゃあ鬱屈もするだろう。ネオファシズム政党・イギリス国民党が1982年結党で、物語の時代ときれいに被っており、社会不安と右傾化が密接に関わっている様が手に取るように分かる。

とはいえ救いを感じたのは、物語で描かれる「スキンヘッズの不良少年」たちが、社会の爪弾き者集団では決してない、という部分だ。彼らは逆に、居場所を失った者同士のセーフティネットとして機能しているのだ。彼らは気の置けないコミュニティを作り、仲間を大事にし、彼らなりの真正さで生き難い社会を生きようとする。極右に走る暴力的な者ももちろんいるのだけれども、そういった者たちばかりではないのだ。こんな若者たちの気風の中に、当時のパンク/ニューウェーブといった音楽ムーブメントの一端を垣間見たような気がした。

余談だが、フォークランド紛争に揺れる1982年のイギリスで、UKロック史上最高のアルバムの1枚に数え上げられるであろう作品がリリースされている。それはロキシー・ミュージックの『アヴァロン』である。血腥い戦争と政治闘争の最中にある国で、それとは真逆の位置から「至高の愛」を歌ったアルバム『アヴァロン』。そこに政治的意味はないだろうけれども、むしろ、だからこそ、ロック・ミュージックというものの強靭さを改めて思い知ったアルバムだった。

この映画はこちらのブログの紹介で観てみました。映画ラストに流れるザ・スミスの「プリーズ・プリーズ・プリーズ」の対訳が泣かせるので是非こちらもお読みください。

永遠の若さを得た男を巡る怪奇と幻想の物語/オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』

ドリアン・グレイの肖像 / オスカー・ワイルド (著)、仁木 めぐみ (翻訳)

ドリアン・グレイの肖像 (光文社古典新訳文庫)

「若さ! 若さ! 若さをのぞいたらこの世に何が残るというのだ!」美貌の青年ドリアンと彼に魅了される画家バジル。そしてドリアンを自分の色に染めようとする快楽主義者のヘンリー卿。卿に感化され、快楽に耽り堕落していくドリアンは、その肖像画だけが醜く変貌し、本人は美貌と若さを失うことはなかったが……。美貌を保つ肉体と醜く変貌する魂の対比。ワイルドの芸術観・道徳観が盛り込まれた代表作。 

このところ古典怪奇文学を集中的に読んでいるオレだが、今回読んだのはオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』。『サロメ』、『幸福な王子』などでも知られるワイルドはアイルランド出身の詩人、作家、劇作家であり、19世紀末の文学界で耽美的・退廃的・懐疑的な旗手として語られている。

『ドリアン・グレイの肖像』はオスカー・ワイルド唯一の長編小説作品であり、耽美と頽廃に満ちた作品として完成している。物語は快楽主義者の美青年ドリアン・グレイが友人の画家バジルのモデルとなり、本人同様に美しい肖像画が完成するところから始まる。永遠に美しくありたいと願うドリアンはこの肖像画が代わりに年を取ってくれればと願い、それは叶えられてしまう。しかし次第に醜さを増してゆく肖像画を見ながら、ドリアンは次第に狂気に捕らえられてゆくのだ。

さて、そもそもこの物語には奇妙な「捻じれ」が存在する。なぜなら、自らの肖像画がいかに醜く年取ろうと、それにより現実の自分が永遠の若さを保てているのであればむしろ僥倖ではないか。にもかかわらずドリアン・グレイは、次第に醜怪となってゆく肖像画を眺めその有り様に悲嘆し絶望するのである。こういった感情の描き方にどこか作為を感じるのだ。これは、そもそもこの物語が、表層的な超自然的怪異を描くことを意図して描いたものではないということなのではないか。

むしろこの物語は、芸術作品はほぼ永遠にその美しさを保つのに、それに比べ人の命があまりに儚い事を、そしてその悲しみを、あえて逆の立場に置き換えて描いた作品なのではないだろうか。つまりここで描かれる「永遠の美」とは、ドリアン・グレイではなく芸術の永遠の美を、定命の者の立場から切なく愛おしく賛美した作品ととれないだろうか。作品の中で繰り返し語られる芸術への愛執からもそれは感じるのだ。

こういった形で読み替えてみると、この物語は歳を重ね零落してゆくドリアン・グレイが、永遠の若さを持ったまま永遠の中で制止する自らの肖像画を眺めながら、ただ醜く老いさらばえてゆく自己に呻吟する物語だということができるのだ。ここで描かれる主人公の悲嘆の全ては、即ち自らの老いそのものの悲嘆を指すものであり、そのうえであえて肖像画と主人公との立像を反転させることで、奇妙に妖しく異様なものとして成立させた物語なのではないかと思えるのだ。

ではなぜワイルドはこのような「捻じれた」構成を持ち込んだのか。それは文中にあるように、ワイルドが「文学に野卑なリアリズムを持ち込むことを嫌う(p262)」文学者だからだ。老いさらばえて醜くなった男の悲しみをリアルに描いた物語などワイルドにとって美しくもなく面白くもない「野卑な」文学なのだ。こういった部分にワイルドならではの独特の美意識を感じることのできる作品だと言えるだろう。

ホラーアドベンチャーゲーム『Alan Wake 2』をクリアした

Alan Wake 2  (PS5, PC, Xbox Series X/S)

《物語》一連の儀式的殺人を調査するため、太平洋岸北西部にある小さな町ブライトフォールズへやって来た優秀なFBI捜査官サーガ・アンダーソン。自身の言葉によって姿を変える恐ろしい異界、闇の世界に何年も閉じ込められた作家、アラン・ウェイク。一度も会ったことのない2人が2つの現実をまたいで結びつき、それぞれの行動がもう一方の世界に影響を与えていく。 

Alan Wake 2 | ゲームタイトル | PlayStation (日本)

2010年に発売されたTPSタイプのサイコロジカル・ホラーアドベンチャーゲーム、『Alan Wake』の続編。パッケージ版はリリースされておらず、ダウンロード販売のみとなる。

1作目『Alan Wake』の物語は、作家である主人公アラン・ウェイクが悪夢的な世界に放り出され、自分が書いた小説の登場人物に命を狙われるといったもので、スティーヴン・キングモダンホラー小説から大きな影響を受けていた。戦闘システムがちょっとユニーク。夜の山の中を亡霊から延々逃げ惑いながら戦うのだが、亡霊は光に弱いという設定で、出遭ったらまずフラッシュライトでひるませ、そこを銃器で攻撃する、というシステムになっている。また、家の中や街燈の下など光のある場所に逃げ込むと亡霊は手出しできない。これをうまく組み合わせながら攻撃・逃走を組み合わせてゆくのだ。

この『2』は1作目からストーリーを引き継ぐが、今作では悪夢世界の中に取り込まれたアラン・ウェイクと、カルト教団による猟奇殺人事件を捜査するFBI捜査官サーガ・アンダーソンの二人の主人公の物語を交互にプレイすることになる。今作でのシステムは前作を引き継ぎながら今作独特のものが打ち出される。まずサーガ・アンダーソンでのプレイでは、プレイ中に沢山の証拠を集め、その証拠を元にした「プロファイリング」という作業をしなければゲームを先に進めることができない。アラン・ウェイクでのプレイでも同様で、様々な証拠を集めそれを基に「現実を書き換える」という作業が必要になる(作家なので)。

この「プロファイリング」や「現実の書き換え」がゲーム世界の雰囲気を盛り上げ、深みのある物語にしている。ただ、これにより作業が煩雑になりテンポが悪くなっており、あまり楽しめるシステムではなかった。こうして盛り上げたストーリー自体も、どうにも複雑すぎるだけで、それほど面白いとは感じなかった。最もうんざりさせられたのは敵となる亡霊の存在で、これは場面によって倒す必要もなく、倒しても爽快感はなく、さらにどれも変わり映えがせず、ただ邪魔なだけなのだ。

グラは相当にリアルで、また登場人物とそっくりの実写映像が用いられている(というか3Dスキャンされたアクター自身なのだろう)。章が終わる毎にそれぞれ新しい楽曲が流れるなど、かなり野心的な部分も見られた。そういった面で完成度も評価も高いゲームなのだが、オレにはどうも今一つだった。オレ向きじゃなかったということなんだろうなあ。クリア時間約40時間。

 

意識と無意識の領域に切り込んだ怪奇小説『ジーキル博士とハイド氏』

ジーキル博士とハイド氏 /スティーヴンスン (著), 村上 博基 (翻訳)

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

街中で少女を踏みつけ、平然としている凶悪な男ハイド。彼は高潔な紳士として名高いジーキル博士の家に出入りするようになった。二人にどんな関係が? 弁護士アタスンは好奇心から調査を開始する。そんな折、ついにハイドによる殺人事件が引き起こされる! 高潔温厚な紳士と、邪悪な冷血漢――善と悪に分離する人間の二面性を追求した怪奇小説の傑作であり、「悪になることの心の解放」をも描いた画期的心理小説、待望の新訳!

最近定番的な古典怪奇小説をぽつぽつと読んでいるのだが、今回選んだのはイギリスの作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンにより1886年に上梓された『ジーキル博士とハイド氏』。これもタイトルだけは有名だがあまり読まれていない小説の一つだろう。翻訳は多数出版されているが、今回もKindle Unlimitedで読める光文社古典新訳文庫で読んでみた。ちなみに作者であるスティーヴンソンはあの『宝島』の作者でもある。

内容については今更述べる事もないだろう。善良な博士ヘンリー・ジーキルが自分自身を実験台にして、自ら開発した薬により邪悪な人格エドワード・ハイドを創り出すという物語だ。いわゆる「人間の二面性」あるいは「二重人格」を描く物語の嚆矢となった作品であり、「ジーキルとハイド」という言葉自体が二重人格を意味するものとして認識されるほどになった。

その後このテーマはスティーブン・キング作品『ダークハーフ』や『シークレットウインドウ』、 チャック・パラニューク作品『ファイトクラブ』、デニス・ルヘイン作品 『シャッターアイランド』でも扱われ、M・ナイト・シャラマン映画『スプリット』ではなんと23の人格を持つ男が登場する。一人の人間の中に別の人格が存在する、というのはやはり不気味であり、人を不安にするものなのだ。

小説それ自体はいわばミステリー的な体裁をとっている。まずは前半。時は19世紀、ロンドンの町にハイドという名の小柄で醜怪な男が徘徊し、道歩く人に暴力をはたらき、遂には殺人まで犯すが、その行方が掴めない。弁護士アターソンは目撃情報からある館を訪ねるが、そこにはジーキルという名の大柄な科学者がいるばかりだった。しかしアターソンはジーキル博士とハイド氏の関係を疑い始めるのだ。

ただし今現在であればもはや「ジーキル博士はハイド氏である」と”ネタバレ”しているので、前半部のミステリー構成は読んでいて退屈なのは否めないだろう。しかし後半、その真相が発覚してからの物語が逆に面白い。それは、そもそもなぜ善良な男ジーキルが、わざわざ薬物を開発してまで邪悪な別人格を持とうとしたのかが明かされるからだ。人は求めて邪悪になりたいなどと思わないはずではないか。

実はジーキル博士は善良な性格でありながらも、自らの中に悪辣な性質もまた存在することを自覚していた。そして彼は薬物によって自らの善と悪を分離することにより、罪悪感なく悪辣な行為を謳歌することを欲してしまったのだ。最初は「表の顔と裏の顔」を使い分け背徳的な生活を楽しんでいたジーキルだったが、次第に「裏の顔=ハイド」が勝手に現れて「表の顔=ジーキル」の日常を飲み込んでしまい、遂には破滅の日が訪れてしまうである。

即ちこの物語は、精神の裡にある鏡像のように相反する二面性をテーマにしたものというよりも、無意識下に抑圧された感情が人為的に顕在化したことによって意識が侵食され、最終的に自我が破壊されてしまう、という物語ではないか。解放された抑圧が破壊的に振舞ってしまったということなのだ。つまりあくまでフィクショナルではあるが、フロイトユングよりも早い時期に意識/無意識の領域に切り込んだ作品だという事ができるのだ。そういった部分においてこれは案外と史上初のサイコサスペンス小説だったのかもしれない。