映画『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』を観た

ゴーストバスターズ/フローズン・サマー (監督:ギル・キーナン 2024年アメリカ映画)

ゴーストバスターズ』も実に息の長いシリーズ物で、1984年に第1作『ゴーストバスターズ』、1989年に第2作『ゴーストバスターズ2』、その後しばらく音沙汰がなかったけれども2016年にリブート作の『ゴーストバスターズ』が公開され、これがたいそう面白い作品だったので今後に期待していた。

しかしこのリブート版『ゴーストバスターズ』は無かったことにされ、2021年に「正式続編」として『2』の続き『ゴーストバスターズ/アフター・ライフ』が公開、するとこれが箸にも棒にもかからない駄作映画でがっかりしていたところ、そのまた続きの作品としてこの『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』が今年公開が決まったのである。

前作『ゴーストバスターズ/アフター・ライフ』がつまらなかったのは、1,2作目のノスタルジーで作られたような内容だったからだ。一応新規キャラが配役はされているが、数10年前の前作キャラの俳優が引っ張り出され、数10年前とたいした代わり映えのしない展開を見せるだけだった。これだったら主要キャラが全員女性だったリブート版『ゴーストバスターズ』の方が100倍ぐらいマシな作品だった。

で、つまらなかった『ゴーストバスターズ/アフター・ライフ』の続きとなる『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』、予告編を観る限り意外と攻めており、「こりゃひょっとしたら割とイケてるかも」と観に行ったのだが。

《物語》真夏のニューヨーク。日差しが降り注ぐビーチで大勢の人々が海水浴を満喫するなか、海の向こう側から突如として巨大な氷柱が大量に現れ、街は一瞬にして氷に覆われてしまう。ゴーストバスターズとしてニューヨークの人々をゴーストたちから守ってきたスペングラー家は、その元凶が全てを一瞬で凍らせる「デス・チル」のパワーを持つ史上最強のゴーストであることを突き止め、事態を解決するべく立ち上がる。

ゴーストバスターズ フローズン・サマー : 作品情報 - 映画.com

結論から言うなら今作もダメだった、つまらなかった。予告編やあらすじでは「ニューヨークの街を最凶のゴーストが襲う!」というものだが、冒頭に予兆すらあれ最凶ゴーストが大暴れしてゴーストバスターズの面々がそれと戦うのは後半も後半。ではそれまで何をやっているのかと言うと器物損壊しまくりのゴーストバスターズがいつものように怒られていたりとか、新キャラのフィービーが若すぎるという理由でゴーストバスターズ・メンバーから外されしょんぼりしていたりとか、たいした盛り上がらないシーンを延々見せられるのだ。

最凶ゴースト・ガラッカにしても来歴はなんとなく語られはするのだが特に深く掘り下げられているわけではなく、『ゴーストバスターズ2』におけるボスキャラ・ヴィーゴのようなオカルティックな設定が抜け落ちているばかりになぜこんなに最凶なのかなんだかよくわからない。ビームの効かないガラッカへの対抗策も思い付きのようなものだし、火を操る助っ人キャラの登場は取って付けたみたいだし、最終対決ではメンバー全員デクの坊のように突っ立ってるだけで何の役にも立っていない。なにしろ全体的にシナリオが行き当たりばったりで物語が薄すぎる。そんな訳で相当退屈してしまった。

とはいえ、あまり悪し様に言うべき作品でもないようにも思えた。というのは、どうもこの作品、実は低年齢層向けに作られたものなのではないかという気がするからだ。映画館には結構家族連れの観客もいたのだが、やはりそういった層をターゲットにした作品なのだろう。そう考えるなら深みのないシナリオも人間関係も設定も、オチャラケたゴーストも、単純で分かり易くて刺激が強すぎなくて、家族が週末に観る映画としては悪くないではないか。

そういった部分で、個人的には楽しめなかったが、お子さんのいる家庭向けとしては、それなりに選択肢に挙げられる映画なのではないかと思う。だいたいゴーストをキャプチャーするのってポケモンの走りみたいだしな。

 

 

映画『オッペンハイマー』はクリストファー・ノーランの最高傑作だと思う

オッペンハイマー (監督:クリストファー・ノーラン 2023年アメリカ映画)

クリストファー・ノーラン監督の最新話題作『オッペンハイマー

クリストファー・ノーラン監督の新作『オッペンハイマー』は「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描いたものだ。アメリカで公開後凄まじい話題作となり大ヒットを飛ばしたが、日本では一部で皮相的なイデオロギー論争が起こり公開が危ぶまれていた所、本年度アカデミー賞最多7部門受賞という事もあってかようやく公開に漕ぎ付けた。

というわけでその『オッペンハイマー』を公開初日にIMAXで観てきた。『オッペンハイマー』を観るためだけに会社に有休を出した。アメリカでいったいどんな具合にこの映画が絶賛されたのかこの目で確かめてみたかったのだ。するとこれが、凄かった。ヤバかった。上映時間3時間があっと言う間だった。俳優、音楽、撮影、編集、どれをとっても一級品の素晴らしさだった。

オッペンハイマーの罪と贖罪

物語はオッペンハイマーが第2次世界大戦前後を通じて関わった原爆開発により、数奇な運命を辿る様を描いたものだ。戦況を有利に導くため、アメリカはドイツ(や当時は同盟国だったソ連)よりも早く究極兵器・原子爆弾を開発する必要があった。オッペンハイマーは物理学者としての知識を総動員して原爆開発に勤しむが、そこには「どこまでも理論を突き詰めてゆき最適解を得てそれが形となる事」という学者ならではの愉悦もあったのに違いない。

しかしそれが結果的に「大量破壊殺戮兵器」としてどれだけの惨禍を生み出すことになったかをオッペンハイマーが理解した時には全ては遅きに失していた。良心の呵責に苛まれるオッペンハイマーはその後の水爆開発に反対するが、政府にとってそれは軍拡競争の否定に繋がり、オッペンハイマーマッカーシズムの嵐に巻き込まれる形で弾劾されることになってしまう。

物語ではこういった形でオッペンハイマーの罪と贖罪とを適切な配分で描いている。それにより、オッペンハイマーが呪われた所業を成した男なのでは決してなく、物理学を突き詰めた先に結果的に原爆を生み出してしまった男なのだということを詳らかにする。原爆開発はオッペンハイマー一人が成したものではなく、歴史がそうさせたものでもあるからだ。

オッペンハイマーが存在しなくとも誰かが必ず原爆を生み出していただろう。その原爆は日本で使用されなくとも世界のどこかの国で必ず一度は使用されていただろう。それはヒトラーが存在しなくても大規模なユダヤ人排斥はヨーロッパで必ず起こっていただろうことと同じだ。オレは人間の歴史というのはそういうものではないのかと思うのだ。

クリストファー・ノーラン監督の最高傑作

映画においてオッペンハイマーを演じるキリアン・マーフィーは常に大きく目を見開き感情の読めない表情をしている。彼の周りで感情を爆発させる多くの登場人物とは対比的だ。その表情はどこか虚ろですらある。それは彼が現実世界ではなく理論と知識の中でのみ生きていたことを言い表しているかのようだ。原爆投下の苦悩の中でも彼の表情は虚ろであり、運命に翻弄される男の姿が痛々しく迫ってくる。大きなアクションがなくともキリアン・マーフィーの演じ方は物語に強い迫真性を持たせている。

サウンドトラックの使い方も的確であり、過不足なく映画を引き立ている。特に音響の扱いは絶妙だった。原爆実験の際の爆発の光線と爆裂音との時間差は強烈な緊張感を生み出していた。また、あたかも背景音のように常にガイガーカウンター放射線検出ノイズが横溢し、不気味さを醸し出す。核分裂反応や原爆爆発の特殊効果は抽象的な用いられ方をするが、扇情的なキノコ雲映像を用いるよりも深い印象を残す。

何よりも凄かったのは3時間に渡り一時たりとも緊張を絶やさない編集の妙だ。それにより、映画への素晴らしい没入感を得ることができた。アカデミー賞作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞・撮影賞・編集賞・作曲賞受賞、というのも納得の作品だった。これはクリストファー・ノーラン監督の最高傑作と断言していいのではないか。同時に、映画芸術の高みまで押し上げられた作品だと言っていい。そして隙のない完成度を誇る作品だからこそ、物語のテーマが観る者の心に深く突き刺さるものとなっているのだ。これは映画史に残る作品なんじゃないかな。

オッペンハイマー』が素晴らしかったのは、作品の完成度のみならず、クリストファー・ノーラン監督“らしさ”が全てにおいて見事に功を奏していた、監督の才能が遺憾無く隅々まで発揮されていたことへの賞賛もあるんですよ。

柴田元幸 編訳『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読んだ

ブリティッシュアイリッシュ・マスターピース(柴田元幸翻訳叢書) /柴田元幸 (翻訳)

ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース(柴田元幸翻訳叢書) (Switch library)

柴田元幸翻訳叢書シリーズ 待望の第5弾! 】 11名の作家による、英文学の名作中の名作を選りすぐった贅沢極まりないアンソロジー。 好評既刊『アメリカン・マスターピース古典篇』の姉妹編となる一冊。

翻訳家・柴田元幸氏による翻訳叢書シリーズの1冊となるこの『ブリティッシュアイリッシュ・マスターピース』は、以前ブログで紹介した『アメリカン・マスターピース古典篇』の姉妹編として同時に刊行されたものなのらしい。内容はタイトル通り、アイルランドも含む「英文学」の名作短篇を柴田氏の視点から編集したものとなる。そしてこれがまた古典英文学の大御所が大挙してピックアップされたお得感たっぷり・読み応えたっぷりの短編集となっており、これ1冊だけでも非常に読む価値があると言っていいだろう。

そして通読して思ったのは、オレは米文学と比べるならどちらかといえば英文学のほうが好みであるという事だ。『アメリカン・マスターピース』シリーズにおける錚々たる米文学作家のメンツにも十分満足させられたが、英文学にはどこか安心感を感じるのだ。それと同時に、英文学の方が読んだことのある作家・作品が多かった。柴田氏はこれら米文学と英文学の違いを、「遠心的なもの(米)と求心的なもの(英)の違い」とあとがきで述べられているが、要するに米文学は「世界は変わりゆくものであり変えるべきものである」という立場にあり、一方英文学は「世界とはこういうものでありいつまでも変わることなくこうなのだ」という立場にあるという事なのだろう。

それにしてもこうして眺め渡してもつくづく楽しいラインナップだ。猿の手」W・W・ジェイコブズ(これはもう「完璧な」怪奇小説だろう)や「信号手」チャールズ・ディケンズ「しあわせな王子」オスカー・ワイルドなんて子供の頃からお馴染みだったし、メアリ・シェリ「死すべき不死の者」)はついこの間『フランケンシュタイン』を読了したばかりだし、コンラッド「秘密の共有者」)やオーウェル「象を撃つ」)の著名な長編は読んでいるし、ジョナサン・スウィフトアイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」)は『ガリバー旅行記』の作者だし、サキ「運命の猟犬」)は本棚のどこかに短編集が転がっている筈だ。

ディラン・トマスウェールズの子供のクリスマス」)は読んだことはないがボブ・ディランの芸名の元になったのは初めて知った。デ・ラ・メア「謎」)も読んだことが無かったなー。そしてこれも英文学最後のボスキャラ(?)ジェームズ・ジョイスの名前があることに大いに挑戦心が湧く。総じて「奇妙な味」の作品が多かったのがオレ好みだった理由だろう。英国風味の強烈な皮肉(スウィフト)や薄暗い不条理感(デ・ラ・メア)が伺われる部分もよかった。作品として最も屹立していたのはコンラッドので、油断を許さぬ展開に手に汗握った。

とはいえ、この短編集最大の収穫は、やはりジェームズ・ジョイスを初めて読めたことに尽きる。この短編集にはジョイス作『ダブリン市民』から「アラビー」「エヴリン」の2編が収録されているが、これがもう、正直別格だった。もうちょっと書くと、実は衝撃的だった。短編という短い文章構成の中に、(ダブリンという)ひとつの世界がゴロンと、あるいはドテッと横たわっているのが如実に伝わってくるのだ。

ここには、「何もかもどうしようもない」という変えようのない現実が存在している。不幸ではないが、幸福でもない。貧しくはないけれど、豊かでもない。孤独ではないが、心は満たされてはいない。何もかもどうしようもなくて、そしてそう生きてゆくしかないのかもしれない。でもそれはあまりに切ないことだ。ジョイスの小説は「麻痺(パラライズ)の物語」と呼ばれるのだそうだが、それはつまり、「(麻痺しているかのように)何も変えようがない」という悲哀を指しているのだろう。そしてこれは、オレの事なんじゃないか、と思えて仕方がなかった。どこか、心の奥の一番柔らかい部分を掻き毟られたような気持ちにさえなった。

【収録作品】「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」ジョナサン・スウィフト/「死すべき不死の者」メアリ・シェリー/「信号手」チャールズ・ディケンズ/「しあわせな王子」オスカー・ワイルド/「猿の手」W・W・ジェイコブズ/「謎」ウォルター・デ・ラ・メア/「秘密の共有者」ジョゼフ・コンラッド/「運命の猟犬」サキ/「アラビー」「エヴリン」ジェームズ・ジョイス/「象を撃つ」ジョージ・オーウェル/「ウェールズの子供のクリスマス」ディラン・トマス 

柴田元幸 編訳『アメリカン・マスターピース 準古典篇』を読んだ

アメリカン・マスターピース 準古典篇 (柴田元幸翻訳叢書) / 柴田元幸 (翻訳)

アメリカン・マスターピース 準古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

柴田元幸翻訳叢書シリーズ最新作。 10年前に発行された「古典篇」に続く「準古典篇」です。 アメリカ合衆国で書かれた短編小説、その”名作中の名作”を選ぶ。 ヘミングウェイ、フォークナーなどの巨匠による「定番」から、ハーストン、ウェルティ、オルグレンの本邦初訳作まで。 激動の時代、20世紀前半に執筆・発表された全12篇を収録。

以前読んだ〈柴田元幸翻訳叢書シリーズ〉『アメリカン・マスターピース 古典篇』の続編となる『アメリカン・マスターピース 準古典篇』である。この「アメリカン・マスターピース・シリーズ」は「翻訳者(柴田元幸氏)が長年愛読し、かつほとんどの場合は世に名作の誉れ高い作品」というコンセプトのもとに編まれているもので、今回の『準古典篇』では20世紀前半、厳密には1919~47年に執筆・発表された作品が収められている。

あとがきにも触れられているが、アメリカの20世紀前半とは二つの世界大戦に挟まれた時期であり、アメリカが世界でも目覚ましい繁栄と躍進を遂げ、その後の大恐慌を体験し、同時にアメリカならではの腐敗と混乱が徐々に社会に広まっていった時期でもある。そういった世相を反映してか、この『準古典篇』では繁栄の陰の退廃や、人種問題、犯罪化社会が浮き彫りとなった作品が並ぶ。

「グロテスクなものたちの書」シャーウッド・アンダーソンなどはその「アメリカ20世紀前半」の序章ともなる作品だろう。「インディアン村」アーネスト・ヘミングウェイではタイトル通りインディアンの村が描かれるがそこはヘミングウェイ、削ぎ落した描写が逆に寒々しい。というか、実はこれがヘミングウェイ初体験。

「ハーレムの書」ゾラ・ニール・ハーストン、「何度も歩いた道」ユードラ・ウェルティは黒人たちの生活を生き生きとしたユーモアで描くが、「広場でのパーティ」ラルフ・エリスンでは陰惨極まりない黒人差別が噴出する。この「広場でのパーティ」の地獄図は相当に凄まじい。「ローマ熱」イーディス・ウォートン、「失われた十年F・スコット・フィッツジェラルド、「三時」コーネル・ウールリッチは都市化の影響で空疎になってゆく人間関係を描く。この3作はどれも好きだが、ミステリ作家のウールリッチが選出されているのには驚いた。

一方、「心が高地にある男」ウィリアム・サローヤン「納屋を焼く」ウィリアム・フォークナーアメリカ農村地帯の貧困を方や諧謔的に、方や熾烈に描いたコインの裏表のような作品だ。とはいえフォークナー苦手なんだよなオレ。「分署長は悪い夢を見る」ネルソン・オルグレンでは犯罪化する都市を黒い笑いで活写する。その中で「夢の中で責任が始まる」デルモア・シュウォーツは、「この時代にアメリカで生きる事」を切なく描いた逸品だった。

全体的に格調高く、アメリカ文学がまさに花開こうとしたときを濃縮した短編集だったと思う。その分ちょっと取っつき難さもあったが……。

【収録作品】「グロテスクなものたちの書」シャーウッド・アンダーソン/「インディアン村」アーネスト・ヘミングウェイ/「ハーレムの書」ゾラ・ニール・ハーストン/「ローマ熱」イーディス・ウォートン/「心が高地にある男」ウィリアム・サローヤン/「夢の中で責任が始まる」デルモア・シュウォーツ/「三時」コーネル・ウールリッチ/「納屋を焼く」ウィリアム・フォークナー/「失われた十年F・スコット・フィッツジェラルド/「広場でのパーティ」ラルフ・エリスン/「何度も歩いた道」ユードラ・ウェルティ/「分署長は悪い夢を見る」ネルソン・オルグレン

 

 

柴田元幸 編訳『アメリカン・マスターピース 古典篇』を読んだ

アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書) / 柴田元幸 (翻訳)

アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

柴田元幸が長年愛読してきたアメリカ古典小説から選りすぐった、究極の「ザ・ベスト・オブ・ザ・ベスト」がついに登場! ホーソーンウェイクフィールド」、メルヴィル「書写人バートルビー」、O・ヘンリー「賢者の贈り物」......アメリカ古典文学の途方もない豊かさを堪能できるアンソロジー。ポー「モルグ街の殺人」、ヘンリー・ジェイムズ「本物」の豪華訳し下ろしもたっぷり収録の、贅沢極まりない傑作集

お気に入りの海外小説翻訳家の名を挙げるなら、岸本佐知子氏と柴田元幸氏になるだろう。「お気に入りの翻訳家」などと書くとなんだかとてもマニアックに思われるかもしれないが、このお二人、いつも変わった短編小説ばかり訳していて、そういった好みが被るのである。このお二人が共訳した短編集が1冊あるのでここで挙げておこう。

さて今回紹介する『アメリカン・マスターピース 古典篇』は、柴田元幸氏による翻訳叢書シリーズの1冊となる。この「アメリカン・マスターピース」シリーズは今回の古典篇の他に純古典篇が刊行されており、さらに戦後篇、現代篇の刊行が予定されているらしい。

さてこの古典篇となるが、マスターピースと名付けられているように、アメリカ古典文学の錚々たる作家たちの名前が並ぶ(下記【収録作品】参照のこと)。実はそれほど文学小説を読まないオレとしては初めて読む作家が多く、ラインナップに気圧されながらも受けて立つことにしたのである(受けて立つものなのか?)。

とはいえ実際読んでみると、柴田氏らしい「ちょっと変わった物語」が多く感じられ、この辺りは取っつきがよかった。それと読んでいて感じたのは、アメリカ文学史を代表する作家の名が連なっているが、彼らの代表作というよりも、柴田氏が翻訳家として「訳してみたい」「訳し甲斐ある」と思わせる、ある種の「翻訳の難易度・満足度」に挑んだ作品セレクトじゃないかな?という気がした。

ザックリ感想を。 冗談で20年間行方不明者になってみた男の話ウェイクフィールド」(ナサニエル・ホーソーン)、雇用者の命令を頑なに聞かない奇妙な男の話「書写人バートルビーウォール街の物語」(ハーマン・メルヴィル)、貧乏貴族がモデルに雇ってくれと画家にねじこむ話「本物」(ヘンリー・ジェームズ)、どれも現実では有り得なさそうな変な物語で、柴田氏好みだなあとニンマリ。「モルグ街の殺人」(エドガー・アラン・ポーは実は生まれて初めて読んだのだが、緻密な構成に度肝を抜かれた。

O・ヘンリー「賢者の贈り物」はベタベタにO・ヘンリーしており、そのベタベタぶりにあえて注目する部分に柴田氏的なアメリカ文学史の在り方を感じさせる。マーク・トウェイン「ジム・スマイリーの跳び蛙」は単なる大馬鹿野郎噺なんだが、マーク・トウェインでわざわざこれを持ってくるところにこれも柴田氏独特のアメリカ文学観を感じさせるんだよなあ。一方エミリー・ディキンソンの「詩」は、しみじみと素晴らしい作品が並びディキンソンに大いに興味が惹かれた。

そして華氏零下50度という極寒のカナダの大地を走破しようという男の物語ジャック・ロンドン「火を熾す」、「死が目の前に待ち構えている」というギリギリの状況と人間心理を迫真の筆致で描き、「文学は何を描き出すことができるのか」ということをまざまざと眼前に叩き付けた凄まじい1作だった。これ、まさに自分がその状況に置かれているかのような描写で、なぜこんなものが描けるのだ?と呆然としてしまった。

【収録作品】 「ウェイクフィールドナサニエル・ホーソーン/「モルグ街の殺人」エドガー・アラン・ポー/「書写人バートルビーウォール街の物語」ハーマン・メルヴィル/「詩」エミリー・ディキンソン/「ジム・スマイリーの跳び蛙」マーク・トウェイン/「本物」ヘンリー・ジェームズ/「賢者の贈り物」O・ヘンリー/「火を熾す」ジャック・ロンドン