ミシェル・ウエルベックの『地図と領土』を読んだ

地図と領土/ミシェル・ウエルベック

地図と領土 (ちくま文庫)

孤独な天才芸術家ジェドは、個展のカタログに原稿を頼もうと、有名作家ミシェル・ウエルベックに連絡を取る。世評に違わぬ世捨て人ぶりを示す作家にジェドは仄かな友情を覚え、肖像画を進呈するが、その数カ月後、作家は惨殺死体で見つかった―。作品を発表するたび世界中で物議を醸し、数々のスキャンダルを巻きおこしてきた鬼才ウエルベック。その最高傑作と名高いゴンクール賞受賞作。

2010年に発表された『地図と領土』はウエルベックの長編第6作となる。物語は一人の芸術家の生涯を通して彼の精神的彷徨を描くものとなっている。主人公ジェドは写真・絵画の領域で天才的才能を発揮し一躍美術界の寵児となる。巨万の富を得、究極の美女を恋人としながらもジェドは現実社会とコミットすることを疎み孤独な生活を楽しんでいる。そんな彼がある日有名作家「ミシェル・ウエルベック」と出会い、彼に仄かな友情を感じはじめる、というのがこの物語だ。

作中に突然作者本人が登場する、という横紙破りな展開になにより虚をつかれるが、この「作者本人」が変人な上に極めてだらしない生活をしているヨレヨレかつグダグダの男で、現実かどうかは知らないが実に情けない男として登場する。ただし、小説、そして芸術というものに対する態度は限りなく真摯だ。そういった点で主人公ジェドと通じある部分があったのだろう。それにしても、この物語はいったいなんなのか?いったい何が主題なのだろうか。

例えばウエルベックの『素粒子』が、二人の主人公がそれぞれに作者ウエルベックの分身であったのと同様に、この作品においても架空の人物ジェドと「ウエルベック」は同一人物なのではないかと思うのだ。芸術に対して限りなく真摯で深い造詣を持ち豊かな才能を備える主人公ジェドは作者ウエルベックの分身であるが、それだけでは世界に対し超然とし過ぎてつまらない。そこにだらしなくヨレヨレのもう一人の「ウエルベック」を登場させることで生臭く現実まみれの反面も見せつけ、バランスをとっているのだ。

そしてこの「ウエルベック」同士の対話によって描かれる物語のテーマとは「芸術へのアティテュード」なのだ。これはジェドだけが語っても白々しいし「ウエルベック」が語っても嘘くさい。そもそも常に物議を醸しだし変態作家とまで呼ばれるウエルベックがいきなり「芸術とは」などとやっても誰も取り合わないだろう。それを半身同士の対話の形にすることで物語を膨らませテーマを豊かなものにしているのだ。

物語は「芸術へのアティテュード」だけではなく「世界に対する違和感」と「決して成就することのない愛」をも描き、そこからウエルベックらしい「孤独の物語」が導き出されてゆくのもまた定石だ。その中で物語内における「ウエルベック」の異様な退場の仕方は、これを「ジェドの物語」、すなわち「フィクション」として終わらすための小説的なテクニックだったのだろうと思う。サスペンスフルな展開の後半はウエルベックらしからぬ面白さを醸し出していた。

ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』を読んだ

闘争領域の拡大/ミシェル・ウエルベック 

闘争領域の拡大 (河出文庫)

闘争領域。それはこの世界、自由という名のもとに繰り広げられる資本主義世界。勝者にとっては快楽と喜びが生まれる天国、敗者にとってはすべて苦しみ、容赦ない攻撃が続くシビアな世界。日々、勝者か敗者かの人生が揺れている微妙な三十男の「僕」と、生まれついての容姿のせいで女に見放されている、完全な敗者のティスラン。彼らにとって人生は苦々しく、欲望はときに拷問となる。そんなふたりが出会ったとき、奇妙で哀しい、愛と人生の物語が生まれる―。現代フランス文壇で類を見ない才能を放つウエルベックの、若き哲学が爆発した初期の傑作小説。

ミシェル・ウエルベックの長編小説第1作である(実質的な作家デビューは前作の長編エッセー『H・P・ラブクラフト 世界と人生に抗って』)。そして長編第1作だけあってウエルベックのエキスがたっぷり凝縮された1冊となっている。

物語のテーマは「闘争領域」。そしてその「闘争」とは「性的対象を奪取するための戦い」である。経済的繁栄は富を元にしたあらゆる自由を可能にしたが、同時にそれは旧弊な倫理と宗教観を破壊し、これまで檻の中に閉じ込められてきた「性的自由」をも解放した。だがその「自由」は経済と同様「持つ者と持たざる者」の「冷酷な差異化システム」をも生み出してしまった。平たく簡単に言うと「モテと非モテの相克」である。

欲望の果てしなき拡大は許されながらも欲望の対象を奪取するためには熾烈な闘争を展開せねばならない。その戦いにおいて「引っ込み思案のブ男」のハンデは致命的である。即ち「引っ込み思案のブ男」はあらゆる「性的自由」を目の前のぶら下げられながら、彼自身における「性的自由」は「不可能」と宣告されるのだ。

よくある話じゃんか、と思われるかもしれない、しかしこれは「では自由とはなんなのか、何のための自由なのか」という激しい糾弾の書であり、「性の絶対的貧困を生み出さざるを得ない社会で生きること」への陰鬱極まりない呪いであり、その絶望と孤独とを謳った悲壮なる逸話なのである。このモチーフはそのまま次作である『素粒子』へと受け継がれ、さらに残酷で無情な物語が展開されるのだ。

それは動物ガシャポンだったッ!?

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動物が結構好きである。そんな動物たちと会える動物園が好きである。中でも、オレの最も愛する動物、カピバラマヌルネコがいる「那須どうぶつ王国」が特にお気に入りである。

このコロナ禍の中、あまり動物園にも行けないのだが、最後に行った「那須どうぶつ王国」の記事はこれとなる。

ちなみにカピバラマヌルネコをオレがいかに愛してやまないかについては以前こんな記事を書いた。

そんな「那須どうぶつ王国」のホームページで、「動物カプセルトイ」がネット販売されていると知り、オレは色めき立ったのである。

『はしもとみおの彫刻』那須どうぶつ王国カプセルトイ【Original】5種の内の1つが届く | 那須どうぶつ王国ネット

5種類の動物たちが入っており、それはハシビロコウ、ホッキョクオオカミ、スナネコ、そしてカピバラマヌルネコだというではないか!!これは欲しい、欲しいぞ!ただしそこはカプセルトイ、中は秘密になっていて購入してもどれが入ってるのかは分からない。では5種類コンプするには何個購入すればいいのか?一応最大9個まで購入可となっていたので、そこはもう9個購入するしかないではないか!

逆上気味にネットでポチったオレは到着を今か今かと待ちかねていた。そして到着したのが巻頭の写真である。さあ!開封だ!オレは全部の種類がコンプできるのか!?

というわけで、ジャーン。全種類コンプできました!

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とはいえ、9個のうち4個がダブっていて、それはカピバラ4匹、スナネコ2匹であった。オレはダブるんならマヌがよかったなあ。

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まあしかしカピが4匹になってもあまり違和感がない。いつもこんな具合に群れてるし。

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なにしろ可愛いマヌルと、それとスナネコが入ってたから満足です!

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それにしても前から思っていたのだが、「那須どうぶつ王国」ってこういった商品のプロデュースがとても上手いね。今回は「木彫りを元にしたフィギュア」という部分がとてもポイント高い。以前もここのネットショップで「マヌルネコマスク」を購入したけど、とてもクオリティが高かったんだよ。

プロデュース力といえば、やはり「那須どうぶつ王国」が作った「マヌルネコの歌」も動物好きの間で大流行したんだよな。この「マヌルネコの歌」、ちょっとクセになる曲だから、みんなも見て聴いて!


www.youtube.com

♪それはマヌルネコマヌルネコ~マヌルヌルヌルマヌルネコ

最近読んだコミックその他

ヤングアニマル 2021年 9/24 号 

去る5月に急逝した三浦健太郎のメモリアル特集号。三浦の描いた『ベルセルク』最後の原稿が掲載されている。実は『ベルセルク』は単行本でしか読んだことがなく、雑誌の判型で読むのは初めてなのだが、この判型ですら息苦しくるほどの書き込みがなされており、改めて驚愕した。「なんでこの大きさコマに登場人物が10人も描かれているの?」と思う場面ばかり。いやこれは魂削るわ……。凄い、と思うのと同時に「ここまで描かなければならなかったのか」とすら思えてしまった。しかも今回の話、とんでもないところで終わっている……。三浦はここからいったいどうするつもりだったのだろう。このメモリアル号には付録として親交の深かった漫画家による特別寄稿小冊子「Messages to KENTAROU MIURA」、さらに『ベルセルク』名場面ポスターが附けられていて、ファン必携だろう。オレは三浦の個人的側面はあまり知らなかったのだが、小冊子からは生前の彼の人となりが伺え、いかに彼が愛され尊敬されていた人物だったのかを知ることになった。それにしても『ベルセルク』はこれからどうするのだろう。12月に発売される第41巻で本当に終わってしまうのだろうか。しかし今回の第364話で未完の終了だとしても、十分余韻のある終わり方だったのかもしれない。三浦の魂に安らぎあれ。

ゴールデンカムイ(27)/野田 サトル

ゴールデンカムイ』もいよいよ佳境に入り、終幕に向けて思いっきりドライブがかかっている感じ。おまけにこれまで隠されていた真実がこの巻で次々と明かされ、怒涛の展開過ぎて泡を吹いてしまった。そもそも濃い話だが今回は輪をかけて濃厚であり、残虐かつ猟奇的なシーンと残酷な運命がこれまで以上に描かれ、闇はさらに黒々と深まっていく。こんな物語にいったいどんな幸福な結末を期待すればいいのだろう。これは次巻が待ち切れないでしょ……。

ダンジョン飯(11)/九井 諒子

この『ダンジョン飯』もまたいよいよ佳境じゃないですか。大量の狂暴なドラゴンと対峙するライオス、という絶望的なシーンから始まりつつ、それを切り抜けた後に待つさらなる恐るべき展開、これは目が離せませんわ。ファンタジーを知り尽くした作者があらゆるファンタジー知識を総動員して練り上げられた物語は圧巻の一言。

アンダーニンジャ(6)/花沢健吾 

全体的に妙にダルイ雰囲気で描かれながら突発的に凶悪な暴力描写が飛び出すところが面白い『アンダーニンジャ』、話が進んでいるんだか進んでいないんだかさっぱり分からないのだが、なんだかこの作品も佳境に向かっているような気がする。向かってないかもしれんが。いきなり次巻で終わりでもいいような微妙なテンションの作品なのでこれからも適当に読んでおきます。

クマとたぬき(1)(2)/ 帆

大自然の中で生きるクマとたぬきの交流を描くほのぼの動物漫画。オレも最近動物漫画が多いな。癒されたいんだろうな。しかし数ある動物漫画の中でなぜ本作が気に入ったのかというと、それは主人公となるのが「クマとたぬき」だからなんだな。実はオレ、相方からクマ呼ばわりていて、一方相方は常々たぬきに自己投影しており、つまりは「クマとたぬき」とは「オレと相方」であり、そういった感情移入をして読んでいるんだよ。そういった部分を離れても里山の四季をそれぞれのテーマにし、季節ごとの違う動物たちの生態を描いている部分で読み所のある作品なんだよな。2巻は若干ネタ切れ気味になっているんだが、まあのんびり楽しんでるよ。しかし「樹木」が主人公となり会話している回とかある意味凄かったな。

総特集:諸星大二郎―怪を語り、快を生み出す―<大増補新版> (文藝別冊) /諸星大二郎

この間『諸星大二郎展』を観に行って興奮冷めやらぬまま河出から出ていた『諸星大二郎総特集』を購入し読んでしまった。インタビュー、作品論、作品リストなどで構成されているが、未発表作品が掲載されているのがなにより目玉で、『失楽園』の元となった1972年執筆作『恐るべき丘』などは超貴重作だろう。また、諸星のロングインタビューでは彼の作品が論理性よりも非常に感覚的な側面から描かれているのが伝わってくる。確かに知識量はハンパないのだろうが、それを論理性でもって構築してゆくのではなく、脳内ミキサーにかけて磨り潰し「不気味さ・気持ち悪さ」に特化した別個の形を与えているのが諸星作品なのではないのか。諸星作品を人類学や民俗学的切り口から論じる作品論も掲載されてはいるが、そういったアカデミズムからスルリとすり抜け、あくまでも物語の持つダイナミズムで牽引してゆく、そういった部分が諸星の面白さなのではないか、そんなことを思った。

諸星大二郎 デビュー50周年記念 トリビュート/諸星大二郎

さらに諸星関連本、こちらは「デビュー50周年トリビュート」ということで諸星を敬愛してやまない様々な漫画家が一同に会し、諸星作品のパロディ・二次創作を通して海よりも深い諸星愛を吐露するという作品群となっている。そういった意味で全体的に私的で極ゆるい作品が並ぶけれども、それよりも彼らがいかに諸星を敬愛しているのかが十二分に伝わってきて、その諸星愛は読んでいるこちら側の諸星愛ともシンクロし、まるで諸星さんファンクラブの飲み会に参加しているかのようなぽかぽかとして暖かい気持ちになってくる。それにしても唐沢なをきの高密度情報量による諸星漫画は大爆笑だった。

失踪した運命の女を捜索する男を描いたSFノワール作品『レミニセンス』

レミニセンス (監督:リサ・ジョイ 2021年アメリカ映画)

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この連休は特に観たい映画も無かったのですが、暇だったのでとりあえずなにか1本、ということでこの『レミニセンス』を観に行くことにしました。一応SFだし。ただ「記憶に潜り込む」という内容は『インセプション』のバッタもん臭かったし、最初はあまり興味湧かなかったんですよ。『インセプション』といえばこの映画、「「インターステラー」「ダークナイト」などクリストファー・ノーラン作品で脚本を担当してきた、クリストファー・ノーランの弟ジョナサン・ノーランが製作を手がけ」ているのらしい*1

【物語】海面が上昇した近未来のマイアミに住む、無骨で孤独な退役軍人のニック・バニスター(ヒュー・ジャックマン)は、顧客が望むあらゆる記憶を追体験させる機会を提供するという、危険な職業の専門家である。ある日、彼の人生は、メイ(レベッカ・ファーガソン)という謎めいた若い女性との出会いによって一変する。最初は単なる探し物を端緒とした関係であったが、やがてメイとの関係は情熱的な恋愛へと発展する。しかし、別の依頼人の記憶がメイを凶悪犯罪に巻き込んでしまったため、バニスターは過去の暗い世界を掘り下げて、自分が愛した女性の真実を明らかにしなければならなくなる。

レミニセンス (2021年の映画) - Wikipedia

で、最初は「記憶を巡る陰謀!抗争!恐るべき真実!」みたいなアクション作品だと思ってたんですが、アクションほどほどでサスペンス要素もあるにせよ、派手派手しくSFチックに盛り上がる!という作品では全然なかった。むしろこれは「失われた愛」を非常にウェットな情感で描く作品で、思っていたのとは全然違っていたのですが、まあこれはこれで悪くなかったかな、というのが感想です。

この映画では海面上昇によりどこもかしこもベニスみたいに水浸しになっちゃったマイアミの街が舞台で、つまりそれはいつか全てが水に飲み込まれてしまう未来しかない、希望のない世界が舞台という事なんですよ。いつも道路は水浸しだし、街は湿気は多そうだし、なにもかも鬱陶しいんです。これは世界のウェットさと登場人物のウェットさがシンクロした映像なんですね。

こんな世界で主人公が営むのは「記憶再生屋」という稼業で、これは顧客の輝かしく満ち足りていた過去を掘り起こし追体験させるというもので、要するに希望は過去にしかない、という実に後ろ向きな人たちのための仕事なんですね。世界にもそこに暮らす人々にも未来なんかない、というとても暗いお話なんですよ。

こんな未来の無い暗い街で、主人公ニックは顧客となった美しい女メイと恋に落ちてしまうんですが、メイがある日失踪してしまう。悲しみに暮れるニックですが、ある日犯罪捜査に協力した時偶然にもメイが関わっていたことを知ってしまう。ここからニックのメイ捜索の日々が始まるんですが、もうこれが愛の妄執に取り憑かれた狂った男にしか見えないんです。で、メイが犯罪組織と関わっていたことを知ったニックは犯罪組織に乗り込んじゃったりするんですが、もう毎回ボコボコにされるんですね。しかし満身創痍になりながらも、ニックは消えた女を求めて希望の無い街を彷徨うというわけなんですよ。

実はこの辺りの物語構造って、50年代とか60年代の古めかしいハードボイルド作品、ノワール作品の骨子そのままなんですね。ハードボイルドというと「情緒を排した乾いた文体」を指しますが、同時に「犯罪捜査の為に大都市を彷徨う男/探偵があちらこちらでギャングにボコボコにされる」というのもハードボイルドのお決まりだったりするんですね。ファム・ファタールと出会ってしまい運命を狂わされた男ってのもハードボイルドぽくないですか。

そもそもこの作品、「記憶再生」というSFガジェットを排して「関係者の証言」という形にしてしまっても物語として成り立ってしまうんですよ。つまりSFである必然性は薄いんです。ただ、この「記憶再生」というSFガジェットが、物語を別の面からエモーショナルに盛り上げているんですね。

それは主人公を含め過去の美しく輝かしい情景にのみ囚われた人々ばかりが登場し、「希望は過去にしかない」ことを繰り返し繰り返し語り続けるという、非常に徹底したペシミズムとニヒリズムが作品の根底となっているからなんですよ。愛に満ちた過去だけが真実であり、今この現在と未来とには何一つ希望はない、これを言い切っちゃうということの絶望の深さと、絶望それ自体の甘やかさとがこの物語なんですよ。そしてそれは未来の無い水没世界の、死の静寂を予見させる美しさと呼応しているんですね。

通常オレはこういった後ろ向きでただただ暗澹とした話というのは嫌いな部類なんですが、それを美しく描き切ってしまったところにちょっと感銘を受けてしまいました。実はギレルモ・デル・トロピーター・ジャクソンドゥニ・ヴィルヌーヴの初期作ってこんな暗さに満ちた作品だったことを考えると、意外とこの作品の監督リサ・ジョイも次作から化けてしまうかもしれませんね。