夢だけがただ一つの喜び/映画『サヴァイヴィング・ライフ -夢は第二の人生-』【ヤン・シュヴァンクマイエル週間その6】

サヴァイヴィング・ライフ -夢は第二の人生- (監督:ヤン・シュヴァンクマイエル 2010年チェコ/スロヴァキア/日本映画)

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チェコ出身のシュルレアリスト/ストップモーションアニメ監督、ヤン・シュヴァンクマイエルの長編新作映画『サヴァイヴィング・ライフ -夢は第二の人-』は【夢】をテーマにした奇想奇天烈な物語です。映画は写真切り絵のアニメーションと実写の混合で製作され、例によってシュヴァンクマイエルらしいシュールな映像を堪能することが出来ます。

物語の主人公はうだつのあがらない中年男エフジェン。仕事は退屈で妻は口うるさく、生活は困窮したまま、そんな彼の楽しみといえば寝ることぐらいです。そしてある日彼は夢の中で理想の女性エフジェニエと出会うのです。次第にエフジェニエと過ごす夢にのめりこんでゆくエフジェン。遂には妻に秘密で仕事を退職し秘密の隠れ家を借りて昼間っから眠り呆け、【夢の中の第二の人生】を生きるようになってゆきます。しかし夢の内容が気になりだしたエフジェンは精神分析医を尋ね、彼の夢が幼少時の記憶と密接に結びついていることを知るのです。

フロイトユングなどお馴染みの精神分析学者による夢に関する学説が登場し、夢の裏に隠された深層心理を読み解いてゆきますが、まあこれは精神分析学の俗流な解釈がストレートに描写されているだけなので決して小難しいことを言っているわけではありません。逆にストレートすぎる分とても素朴な物語展開ともいえます。主人公の名前がエフジェンで夢の中の女性の名前がエフジェニエ、即ちエフジェニエはエフジェンのアニマであり、さらに夢の中でエフジェンは父と思しき男を殺害しエフジェニエと結ばれる、ということからこれはエディプス・コンプレックスの物語である、ということが分かります。ただこういった"夢分析"はあくまで物語の骨組みのひとつでしかなく、主題と言うわけではありません。

この映画の見所はなんと言ってもシュルレアリストシュヴァンクマイエルによる摩訶不思議なヴィジュアル世界です。写真を切り絵でアニメーションさせたカクカクした画像は映画に不気味な印象を与え、一見夢と現実の対比のように描かれながらも、実はこの物語全てが夢であり、夢の中でまた夢を見ているかのような、まるで映画『インセプション』をもっともっとシュールでナンセンスにしたような物語が展開してゆくのです。立ち並ぶアパートの窓からは巨大な手や巨大なリンゴや巨大なヘビが飛び出し、鶏の頭をした裸の女、犬の頭をしたスーツの男が街角や部屋に現れます。これらにそれぞれ意味を見出すことも可能なのかもしれないでしょうが、それよりも突然現れる突飛なイメージの世界を監督と一緒になって遊びまわるほうが映画を楽しむことが出来るでしょう。

全てが自分の理想通りに生きられる夢の中で生活できたら、なんて誰でも思ったことがあるかもしれません。もうどうにも変えられないしがらみや苦痛ばかりの現実の人生を捨てて、永遠の喜びだけがある夢の中で生きられたら。しかしシュヴァンクマイエルの描く夢はどこかイビツでグロテスクです。そしていつも暗くどんよりとしていて、それは悪夢と言うほどのものではないにしろ、夢の持つ不条理がそのまま映像になったような世界です。生が不条理であるように、実は夢もまた不条理。結局全てが薔薇色な世界なんてありません。シュヴァンクマイエルはそんな不条理な世界を、シニカルな視点で描いてゆくのです。

(※この記事は【ヤン・シュヴァンクマイエル週間】に合わせ2011年9月5日更新の記事を一部内容を変えて再録したものです)

 

不気味の国のアリス/映画『ヤン・シュヴァンクマイエル アリス』【ヤン・シュヴァンクマイエル週間その5】

ヤン・シュヴァンクマイエル アリス (監督:ヤン・シュヴァンクマイエル 1987年スイス・ドイツ・イギリス映画)

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ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』といえば知らない者のいない英国児童文学の名作でありファンタジー小説だろう。奇想天外であると同時にナンセンス極まりない言葉遊びが駆使されたこの作品は続編も含め多くの国の多くの人々に愛され、多数の映像化作品、派生作品を生み出している。かく言うオレの部屋にも「アリス」絡みの画集が4冊もあったりする。

その『不思議の国のアリス』をアートアニメ界の鬼才ヤン・シュヴァンクマイエルが映画化したものが『ヤン・シュヴァンクマイエル アリス』だ。シュヴァンクマイエルによる輝かしい長編第1作となるこの作品は、原作の持つファンタジックな味わいを大いに奇っ怪に、そしてグロテスクに味付けしたダーク・ファンタジー作品として完成している。作品内ではアリス役の少女クリスティーナ・コホウトヴァー以外に人間は登場せず、殆どがパペットによるストップモーションアニメによって制作されており、その鬼気迫る作りこみは長編第1作にしてシュヴァンクマイエルの集大成であり最高傑作という事ができるだろう。

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アリス役のクリスティーナ・コホウトヴァー

物語は原作を踏襲しながらも巧妙にシュヴァンクマイエル的映像アレンジでもって進行してゆく。なにしろ物語の発端となる「白うさぎ」が薄気味悪い剥製のうさぎとして登場するのだ。その白うさぎを追うアリスが不思議の国へと入り込むのはうさぎ穴ではなく荒野に置かれた机の引き出しからだったりする。ここから始まるのはアリスの悪夢巡りだ。アリスが足を踏み入れるのは汚らしい部屋部屋であり、そこには薄汚れたガラクタが山のように置かれ、ブリューゲルの絵画に出てきそうな醜悪な化け物たちがアリスに襲い掛かってくるのである。

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目が死んでる白うさぎ

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アリスを襲う謎生物

もちろん原作にあるように薬やクッキーを口にしたアリスが大きくなったり小さくなったりするシーンや、お馴染みの芋虫、キチガイ帽子屋も登場し、最後はハートの王女が現れてイカサマクロッケーを始めたりと、『不思議の国のアリス』らしい展開を迎えてゆく。これら全ては、どれも薄汚れた汚らしいパペットを使用したストップモーションでグネグネと蠢き回り、作品のグロテスクさを盛り上げてゆくのである。

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キチガイ帽子屋は操り人形として登場する

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この歯の生えたソックスがどうやら芋虫らしい

物語の舞台となるのはファンタジー世界というよりも老朽化し打ち捨てられた廃アパートのような建物であり、その部屋部屋を行き来することで物語が進んでゆく。部屋ごとに奇妙なクリーチャーがいて奇妙な事件が起こり、アリスはその部屋から脱出するためにパズルを解くような算段を練らなければならない。

こうしてそれぞれのエピソードが部屋単位で展開するために、作品全体が息苦しくなるような閉塞感に満ちている。ストップモーションでチマチマ動くクリーチャーたちの存在、古ぼけた部屋の体裁も、その閉塞感を倍加させる。いったい『不思議の国のアリス』とはこんな閉塞感溢れる物語だったろうか?『ヤン・シュヴァンクマイエル アリス』製作当時シュヴァンクマイエルの故国チェコスロバキアは未だ社会主義国家であり、著しい人権侵害と言論弾圧が為されていたという。シュヴァンクマイエルは、そういった社会体制に反抗し続けてきた映画監督でもあった。すなわち『シュヴァンクマイエル アリス』は、そもそもが不条理極まりない原作『不思議の国のアリス』をさらに奇怪でグロテスクな美術によって塗り込め、当時のチェコスロヴァキア社会の不条理さと閉塞感を映し出そうとした作品だったのではないだろうか。

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やあみんな!気持ちイイことしてる!?/映画『悦楽共犯者』【ヤン・シュヴァンクマイエル週間その4】

悦楽共犯者 (監督:ヤン・シュヴァンクマイエル 1996年チェコ・イギリス・スイス映画

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1996年に公開されたヤン・シュヴァンクマイエルの長編第3作『悦楽共犯者』は、6人の男女が己が悦楽を極めるため、それぞれに「自慰機械」の製作に没頭する、という物語である。いやーしかし「自慰機械」て。シュバンクマイエル、かっ飛んでますなあ。しかしそこはシュヴァンクマイエル、決してエロを追求した下ネタ映画ではなく、得意のストップモーションを駆使した、実にシュルレアリストらしい作品に仕上がっているのだ。ちなみに物語にセリフは一切使われない。

登場する6人はこんな方々。彼らはそれぞれに正体不明のリビドーに突き動かされ、それぞれになんだかよく分からないものを作り始めるのだ。 

ピヴォイネ(主人公?)……鶏の頭の被り物と翼を制作し、鳥になります。

マールコヴァ(郵便配達婦)……小さなパンの固まりを幾つも作り、吸い込みます。

ベルティンスキー(ヒゲ男)……刷毛や指サックや麺棒で愛撫機械を作ります。

クラ(本屋)……電子機器と人形の腕を組み合わせてロボット的な何かを作ります。

ロウバロヴァ(中年女)……藁を集め、蝋燭を買い、廃屋にしけこみ、大暴れ。

アナ(アナウンサー)……巨大な2匹の鯉を手に入れシクシク泣いています。

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鳥になれぇ~~(by五輪真弓

「快楽を極める」とか「自慰機械」とか書いたが、何がなんだかよく分からないものが幾つもある。主人公ピヴォイネ、なんで鳥になるんだ。マールコヴァはパンの固まりを吸い込んでどうするんだ。ベルティンスキーとクラは愛撫機械を作ることになるのだが、なんでそんな凝りまくってるんだ。ロウバロヴァはいきなり豹変するから笑えるぞ。そしてアナ、飼ったコイのその行方は……。

彼らの行きつくことになる「快楽」は、どれもフェティシズム感溢れる倒錯的なもので、いわゆる「普通」な欲望、快楽とはどうにも道が外れている。ではこれは6人の変態さんを集めた物語なのか?変態さんの奇異な性向を見世物にして楽しむ作品なのか?いやそうではない。実のところ欲望も快楽の形も人それぞれで、振り幅の差はあれども、「普通」なんて言葉で一からげにできない、極めて個人的なものなのではないか。すなわちこの物語は、人はそれぞれに自由でありアバンギャルドな存在であると宣言してみせたものではないか。

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あ……ああああ……たまんねえ!

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これがね、うにょうにょ動くんですよ。

とは言え、一見こうした形で「人の快楽の多様さ」 を描いたようにも見えるこの物語、実は本質はそこではないようにオレには思えるのだ。この作品は、同じ「快楽」でも、「性愛」の快楽ではなく、「物作り」の快楽を描いたものなのではないかとオレは思うのだ。

登場する6人のうち幾人かは、己の快楽を完遂する為に、あまりにも手の混んだ「モノ」を作る。最終的には快楽装置となるそれだが、回りくどすぎるのだ。狂気すら感じさせる作りこみなのだ。快楽そのものよりも、「作る」ことが目的化しているようにすら思えるのだ。そして完成したそれぞれの「モノ」は、異様であり異形である、ある意味シュヴァンクマイエルの作る映画そのもののような「変なカタチ」をしているのだ。 

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ワハハ本舗のウメちゃんじゃないよ!

これはすなわち、シュヴァンクマイエルが一人のシュルレアリストとしてダダイストとして、映画という作品(モノ)を作る事の快楽と愉悦そのものを、6人の登場人物に仮託して描いたものなのではないのか。物語における性衝動を製作衝動としてとらえ、その衝動にまつわる妄想/物語を、快楽機械/映画作品として昇華してゆく事、そしてその「モノ作り」行為に没頭する愉悦あるいは慰撫を、「自慰行為」に名を変えて映画に表出させることがこの作品だったのではないだろうか。モノを作ること、それはつまり「創造」である。この映画は、その「創造の喜び」を謳歌した作品なのではないだろうか。

で、そんな映画を作ったのがなにしろシュヴァンクマイエルなんで、どうにもこうにも変態さん大集合な見た目の映画になっちゃった!ってことじゃないかな。ま、シュヴァンクマイエルからしょうがないよね!まあやっぱ変態さんなのは間違いないし!

ちなみに映画の中で登場人物の一人クラが、女性アナウンサーの唇が大写しになったTV画面に顔をくっつけレロレロするシーンがあるんだが、これってクローネンバーグ監督の『ビデオドローム』を彷彿させるよね。『ビデオドローム』は1982年公開でこの映画は1996年公開ってことを考えると、ひょっとしてシュヴァンクマイエル映画にクローネンバーグ作品の影響が!?なんて想像しちゃってちょっと楽しかったな。クラの作る自慰機械はクリス・カニンガムのPVに出てくる自動演奏機械と似ているのもニヤリとさせられた。あと究極の快楽を得るためにアブノーマル行為に走る、なんてのは『イレイザーヘッド』を思い出したよ。シュヴァンクマイエル映画、結構ホラーと親和性が高いんだよな!

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癲癇院の異常な夜/映画『ルナシー』【ヤン・シュヴァンクマイエル週間その3】

ルナシー (監督:ヤン・シュヴァンクマイエル 2005年チェコ映画) 

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精神病院で母親を亡くし、悪夢にうなされるベルロ。同じ宿に居合わせた侯爵は、そんなベルロを自分の城へと招待する。そこでは、完全な自由主義を唱える侯爵による禁断の儀式が繰り広げられていた。やがて侯爵は、ベルロに自分と同じセラピーを受けさせようと提案、彼の通う精神病院へと連れて行く。 

2005年に公開された映画『ルナシー』はヤン・シュヴァンクマイエルの長編5作目となる作品だ。本作はエドガー・アラン・ポーの二つの短編小説 『タール博士とフェザー教授の療法』と『早すぎた埋葬』を基にしており、マルキ・ド・サドの著作からも影響を受けているという。

物語の主人公ベルロは母を精神病院で亡くし、自らも同じ運命を辿ることに恐怖して毎夜悪夢に悩まされていた。ある日ベルロは奇妙な侯爵の城に招待されるが、そこで見たのは侯爵の反キリスト儀式だった。逃げ出そうとするベルロを侯爵は引きとめ、「恐怖を克服するためにはセラピーが必要だ」と言って彼と共に精神病院へと向かう。しかしその病院の美しい看護婦から、病院内でかつて患者たちの反乱があったことを知らされる。

この作品で描かれるのは様々な対立項だ。それは正気と狂気であり、善と悪であり、真実と嘘である。主人公は精神病院でその対立項の中に放り込まれ、自分がどちらの側にいるのかが曖昧となり、その両端の間で引き裂かれてゆくのだ。登場する奇妙な侯爵もその対立項の一端だ。彼は全きの自由を求める反体制的なアナキストであり、それが管理と支配を第一義とする体制的な病院側との闘争を引き起こしていたのだ。混沌とした状況の中ベルロは看護婦との間に愛を見出しそれに従おうとするが、その愛さえも揺らいでしまう事実と直面することになる。

映画の冒頭、シュヴァンクマイエル監督が登場し、「これはアートではない、ホラーだ」と宣言するが、ではこの物語において「ホラー」とは具体的に何を指すのか。それはこの物語が暗喩するように、社会の体制と機構の中で人間存在が引き裂かれてゆくという事なのだろうか。真実なのか嘘なのかも分からない曖昧な状況の中に捨て置かれ、信じることもままならないまま生きざるを得ない人の生であるという事なのか。

とはいえ、このようなシリアスな命題を掲げながらも、この作品は物語の合間合間に不気味な映像を挟んで気を逸らそうとする。その不気味な映像とは、多数の生肉が蠢き回り不可思議な遊びに講じるグロテスク極まりないストップモーションアニメである。陰鬱な物語の狭間に挿入されるこれらナンセンスでシュールな映像が、この物語に別の解釈の存在があることをうながしているのではないかと思わせるのだ。

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こんな具合に生肉がニョロニョロと遊び回ります

例えば主人公と病院看護婦との逢引きやベッドインのシーンが始まろうとするときに、画面はこの生肉たちが睦み合い絡み合うシーンへと切り替わるのである。あまつさえ、生肉たちは主人公が今行っているのであろう性交シーンを再現し始めたりするのだ。

これは畢竟、人はただ「肉」でしかなく、その願いも諍いもなにもかもが、「肉」同士の起こした事に過ぎない、それも、「蠢く生肉」の如きグロテスクで滑稽なものの行う事でしかないのだ、という事を言い表そうとしているのではないか。そしてそれはあまりにも冷笑的で虚無的な結論と言えはしないか。 映画『ルナシー』は、それがどういうものであるにせよ、シュヴァンクマイエルの一つの絶望の形を描いた映画だったのではないだろうか。その絶望こそが、監督の言う「ホラー」だったのではないだろうか。

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不気味に蠢く操り人形!/映画『ファウスト』【ヤン・シュヴァンクマイエル週間その2】

ファウスト (監督:ヤン・シュヴァンクマイエル 1994年イギリス・フランス・ドイツ・チェコ映画

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 奇妙な地図に導かれ男がやってきたのは旧く不気味な建物。そこは地下には劇場があり、錬金術の実験室や食堂にもつながる奇妙な場所だった。そこに現れた悪魔に誘惑された男は、メフィストフェレスを呼び出し、挙げ句あらゆる快楽と知識とを引き換えに、悪魔の王ルシファーに自分の魂を売り渡す契約をとりかわしてしまう。

人生に退屈した学者ファウストは宇宙の神秘を知り尽くすために悪魔メフィストフェレスとの契約を果たす。ゲーテによる戯曲で有名な『ファウスト』はもともとはドイツの伝承として語り継がれてきた物語であり、13世紀末に実在したゲオルグ・サベリクスという男の生涯がその大元になっているのだという。シュヴァンクマイエルの描く『ファウスト』もこのファウスト伝説から借りてきた物語だが、そこはシュヴァンクマイエル、非常に特異な構成を持った作品となっている。

まず主人公はその辺の冴えないおっさん。このおっさんが謎の地図を手に入れ、行ってみるとそこは奇妙な劇場であり、その劇場でおっさんはファウストを演じることになってしまうのだ。しかもおっさんと劇を演じるのは誰が操っているのかもわからない等身大の操り人形。劇を演じるうちに虚構のファウストとおっさんの現実は混じり合い、おっさんは遂に本当に悪魔との契約を果たしてしまう、というのがこの物語だ。

この作品ではドロドロと蠢き回る粘土のメフィストフェレスストップモーションアニメで描く部分が楽しいが、しかし最も特筆すべきなのは不気味極まりない等身大の操り人形の姿だろう。ヨーロッパの祭りなどでもたまに見かけるが、日本のなまはげにも通じる土俗的で薄気味悪いフォルムをしているのだ。なにしろこんな感じ。 

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なにより怖いのは、これが「等身大」ということなのだ。 なんだか異様な生々しさと威圧感があるのだ。しかも、「操り人形」だと思って観ていると、動きがあまりに人間臭いことが段々と気になってくる。やがて、「これ操り人形ちゃう、中に人間が入ってる……」ということに気付かされるのだ。操り人形の被り物をして操り人形のような動きをしている人間、でも物語では操り人形という事になっている。しかし場面によっては本当の操り人形も登場している。この生物(人間)と非生物(人形)の境界を曖昧にし混交させながら描かれる部分が、なんだかとても気持ち悪いのだ。

アニメーションというのは生命無きものをあたかも生命があるかの如く描くのがその役割であり本質だろう。シュヴァンクマイエルがその作品で多用するストップモーションアニメはまさにそれを体現するためのものであり、さらにシュヴァンクマイエルはそれを「生きてはいないのに生きているかのように動くものの気持ち悪さ」として表出させる。そして操り人形を広義でアニメーションであるととらえるなら、この作品における「中に人間が入っていたりいなかったりするする、曖昧な状態の操り人形」は、実にシュヴァンクマイエルらしい「気持ち悪さ」に満ちた存在だと言える。

なにしろ「女装した悪魔の操り人形」を主人公のおっさんが女性だと思ってセックスしちゃうシーンとか、倒錯しまくり過ぎていてオレは変な笑いが漏れてしまいましたよ……。 おまけにこの人形の股間にあらかじめドリルで穴開けておくとかさあ……。シュヴァンクマイエル、アートアニメ作家とかシュルレアリストとかいう前に、まず普通に変態だろ!(褒めている)