終わりなき戦いの果てにあるもの/ロシア産侵略SF映画『ワールドエンド』

■ワールドエンド (監督:イゴール・バラノフ 2019年ロシア映画

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ロシアのSF映画には意外と拾い物がある。

ロシアのSF映画と言えば古くには『惑星ソラリス』(1972)や『ストーカー』(1979)のような格調高い作品、『未来惑星キン・ザ・ザ』(1986)みたいなカルト作品もあるが、もっと最近だと『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』(2008)、『ダーケストアワー 消滅』(2012)、『ガーディアンズ』(2017)、『アトラクション 制圧』(2017)など、ハリウッド作品並みに派手なVFXを使用し大衆受けしやすいストーリーを持った作品が製作され、日本でも公開されている。

これらロシア産SF映画の特徴はいかにもロシアを思わせる武骨さであり、ハリウッド製のSF映画とは一味違う物語展開の在り方だろう。お国が違えば物語の切り口も自ずと違ってくるという訳だ。かつて社会主義連邦国家だったという政治的歴史性、広い国土と寒冷な気候、ロシア特有の文化風俗と人種構成、こういった背景が物語の色合いを独特のものにしているのだ。ロシア産SF映画には奇妙なエグみや泥臭さがあり、そういった「臭み」が逆に面白味へと繋がったりする。

最近日本でも公開されたロシア産SF映画『ワールドエンド』を観たが、これもなかなかの拾い物だった。SFジャンルとしては「侵略モノ」ということになるだろうか。ある日突然、世界中の全ての電力が喪失し、同時に人々も突然死し、あるいは謎の消失を遂げていた。地球でこの未曽有の危機を免れたのはロシアの一地域だけだった。ロシア軍特殊部隊は原因究明の為調査を開始するが、派遣された部隊はどれも全滅し音信不通となってしまう。そして混乱する軍部に1人の異星人が現れ、人類滅亡と地球移住計画について語り始める。その頃、消失した人間たちは異星人の操り人形となり、ロシアの都市を攻撃し始めたのだ。

こうした物語を背景にしつつ、作品においてはロシア軍対異星人に操られた人間たちとの凄まじい戦闘が徹底的に描かれてゆく。これら傀儡となった人間たちの様相はさながらゾンビである。死んではおらず人肉も食わないが、自分の意志を持たず死も恐れず圧倒的な数で相手に襲いかかる様子はゾンビ映画のそれだ。しかも彼らは銃を所有し、ロシア軍と銃撃戦を繰り広げるのだからゾンビよりもタチが悪い。殺しても殺しても後から後から雲霞の如くゾンビ人間が湧いて出る光景は、『ワールド・ウォーZ』のロシア篇が作られたらこうだったろうとすら思わせる。ロシア軍は次々と兵を失い、弾薬も尽き果て、希望無き敗走を余儀なくされてしまう。 人類に勝利の道はあるのか?

主人公となるのがロシア兵であり、銃撃戦をメインとする攻防が描かれてゆくこの作品は、ある意味ミリタリーSF作品と呼ぶこともできる。その終わりの無い熾烈な戦闘の描写は『ブラックホーク・ダウン』すら思わせる。時代背景は近未来に設定されており、車両や装備も近未来風だ。しかしそのデザインはハリウッド的なスマートさではなく、あくまで武骨で重厚な、実にロシア風のものになっている。兵士たちの行動や性格設定も武骨そのものであり、ヒロイックなキャラも存在せず、華がないと言えばそれまでだが、こういった泥臭い地味さが実にロシアのミリタリー作品だなと感じさせる。近未来と言えば途中描かれる近未来ロシアの都市は実に『ブレードランナー』しており、こういった部分のSF的楽しさもある。

終盤においては人類と異星人との太古における関係性が言及され、あたかも『プロメテウス』を思わせる真実が描かれることになるが、この辺は話を膨らませるための大風呂敷程度に思っておけばいいかもしれない。なにしろこの映画のキモは徹底的な銃撃戦なのだから。とはいえ「人間はなぜ殺し合うのか、なぜ殺し合いを止めないのか」という暗い問い掛けは、実はこの物語の背景の根本となっているもののような気がする。それはなにか。

意志を持たないゾンビの如き大群とロシア軍との終わりなき戦い、というモチーフの背景にあるものはなんなのか。これは1979年から1989年にかけて行われたソ連アフガニスタン侵攻を揶揄したものではないだろうか。10年に及ぶ長期の戦闘、ソ連側戦死者1万4000人以上、アフガン側はその数倍の戦死者を出したというこの紛争は「ソ連ベトナム戦争」とまで呼ばれた。そして経済的にも対外的にも疲弊したソ連が遂に崩壊する原因を生み出した紛争でもあった。映画『ワールドエンド』の物語は、アフガン侵攻におけるソ連軍の泥沼の如き戦闘と、絶望的で虚無的な結末のアレゴリーであったのかもしれないとオレは思うのだ。

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デヴィッド・リーンの初期の作品『旅情』と『逢びき』を観た【デヴィッド・リーン特集その5】

■旅情(監督:デヴィッド・リーン 1955年イギリス・アメリカ映画)

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アメリカに住む独身女性ジェーン(キャサリン・ヘプバーン)が念願のヨーロッパ旅行に出かけ、最終目的地である水の都・ヴェネツィアで一人のイタリア人男性と恋に落ちる。しかしその男性レナード(ロッサノ・ブラッツィ)は妻子ある身だった、というデヴィッド・リーン1955年監督作『旅情』である。

なにより目を惹くのはこれでもかとばかりに美しく撮影されたヴェネツィアの情景だろう。オレもこれまで映画や記録フィルムでヴェネツィアの映像を見たことはあるけれども、ここまで魅了させられる映像は無かったかもしれない。それはただ単に名所や美景を羅列するのではなく、映画ならではのアングル、カット割り、光線、編集で見せてゆくのだ。当然これらの映像には、作品の主役たる二人の男女の心理情景も加味され、それゆえのロマンチックさなのだろう。

さてこの作品は単純に言うなら「不倫モノ」でしかないのだが、デヴィッド・リーンの手にかかると格段の文学性を感じさせるものになる。ジェーンは気が強く物事をはっきり言う典型的なアメリカ女として描かれ、一方レナードは人生と愛をあけすけに楽しもうとするこれも典型的なイタリア男だ。ここにもデヴィッド・リーンの「異文化とのコミュニケーション」が描かれるのだ。

恋に憧れながら自らの頑なさで恋を逃してきた女ジェーンは最初レナードを許さないが、人生を愛する彼の態度にいつしか心を開く。この恋は許されないものではあったが、レナードに人生を愛することを教えられたジェーンは、彼と別れ、そこからまた新しい一歩を歩み出すのだ。これもまた、人生の発見ではないか。ニューヨーク映画批評家協会賞監督賞受賞作。

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■逢びき (監督:デヴィッド・リーン 1945年イギリス映画)

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駅の待合室で出会った男女が恋に落ちる。しかし、二人は互いに配偶者を持つ者同士だった。そんな二人の狂おしい想いを描くのが1945年に公開されたデヴィッド・リーン監督作『逢びき』である。モノクロ。実際のドラマ構成は、二人の別れから始まり、その二人の出会いから別れまでを、主人公女性ローラ(セリア・ジョンソン)が回想する形で描かれる。そしてその回想は実は、夫への、声に出さない懺悔の形で行われるのだ。

回想における、ローラが出会った男性アレック(トレヴァー・ハワード)との心ときめく日々、それと同時に、嘘を重ねてゆくことへの罪悪感、それらがない交ぜになった心理描写がこの作品のメインとなる。つまり「不誠実ではあったが一線は越えなかった妻の懺悔」という形で、この当時の映画的なモラルとしてはギリギリに格調高い描写で押さえているような気がした。古い作品であり今現在観るとありふれたロマンス映画にも見えてしまうが、非常に抑制された感情表現の在り方にイギリス映画らしさを感じる事が出来るだろう。また作品内で描写される駅待合室(お茶や軽食を出すのだ)や映画館、レストランなどの風俗も観ていて楽しい。

しかし、それにしてもデヴィッド・リーンはなぜにこれほどまでに「不倫モノ」ばかり描きたがるのか。リーン監督自身が人生で6度の結婚を経験した恋多き男で、「恋に制約があることが許せない」ことが「不倫モノ」へと帰結させたのか。デヴィッド・リーンの多くの作品は「異文化とのコミュニケーション」で成り立っているが、非常にこじつけがましく書くけれども、「女性という他者=異文化」とのコミュニケーションの模索が、そもそもの原動力だったのではないだろうか。英国映画協会「イギリス映画100選」第2位、カンヌ映画祭グランプリ受賞。

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引き続きデヴィッド・リーン監督作『ライアンの娘』『インドへの道』を観た【デヴィッド・リーン特集その4】

■ライアンの娘 (監督:デヴィッド・リーン 1970年イギリス・アメリカ映画)

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映画『ライアンの娘』は20世紀初頭のアイルランドの寒村が舞台となる。当時イギリス領であったアイルランドはイギリスに対して独立運動を繰り広げていた。物語の主人公は若き人妻ロージー(サラ・マイルズ)、彼女は赴任してきたばかりのイギリス人将校ランドルフ(クリストファー・ジョーンズ)と恋に落ちてしまう。そこにパルチザンによる武器搬入が発覚し村は大きく揺れ動く。

例によってリーン監督お得意の不倫ドラマだが、不倫であると同時に本来であればイデオロギー的に対立するもの同士の密会という事実がクライマックスに大いなる波乱を呼び込むことになる。つまり二重の意味で道義か愛かを突きつける物語なのだ。スパイ疑惑の掛かったロージーを裏切る父、吊るし上げる村民といった中で、不貞を働かれた夫だけは彼女を守り通そうとする。夫チャールズ(ロバート・ミッチャム)は妻の裏切りに苦しみながらも、人として彼女を守るのだ。ここにも愛と道義の確執を見て取ることが出来る。

こうして物語は人の心の醜さと尊さを同時に描き切り、強烈な印象を残して幕を閉じる。この物語における「異文化とのコミュニケーション」はイギリス人将校とアイルランド人の娘ということになるだろう。許されない恋ではあるけれども、二人は強烈な欠落感を胸裏に持ち(ロージーは結婚への失望を、ランドルフは戦争のトラウマを)、それを埋め合わせるために求め合ってしまう。二人のこの欠落感が道ならぬ恋をなおさら遣る瀬無いものにする。

今作ではアイルランドの寒々しく荒々しく、しかしどこまでも澄み切った美しい自然の描写がとことん描きつくされることになる。特に嵐のシーンでは、これはいったいどうやって撮影したのかと驚嘆した。195分。

■インドへの道(監督:デヴィッド・リーン 1984年イギリス・アメリカ映画)

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『インドへの道』は第一次世界大戦後の時代を背景に、当時英国植民地だったインドへ英国人の娘アデラ(ジュディ・デイヴィス)とその婚約者がやってくることから始まる。インド滞在の英国人たちはインド人に侮蔑的だったが、アデラは対等に接しようと心掛け、インド人医師アジズ一行と洞窟見学旅行に出る。しかし洞窟の中で「何かを見た」アデラは錯乱し、アジズはレイプ疑惑をかけられ裁判となるが、それはインド人差別だとして街は巨大な騒乱となる。

ここでの「異文化とのコミュニケーション」はイギリスとインド、宗主国と植民地との困難な対話を描くこととなる。物語では双方が歩み寄りを見せつつまた破綻し、英国とインドの一筋縄ではいかない関係を伺わせる。

そしてもう一つ、作品内では明瞭に描かれない「アデラが洞窟で見たものは何か」ということだ。これは物語を注意深く観てゆくと分かるのだが、婚約者との間で積もり積もったアデラの性的欲望/欲求不満が異邦の男アジズとの行動により発露し、しかしそれがなんなのか理解できない為に心理的に破綻を起こしたと言う事なのだろう。つまりアデラが洞窟で見たものは己の性的幻影だったのだ。

実はデヴィッド・リーン作品の多くには「人間は性的存在である」というテーマが隠されているように感じる。人はそもそもが性的存在であるが往々にしてそれを無視してしまう。それによる軋轢もまたリーン作品に描かれる事が多いと思う。さて今作においてはインドがその舞台となるが、インド映画好きのオレが観てもその描写の在り方は的確だったのように思う。ちなみにこの作品は『ライアンの娘』から14年ぶりに製作された作品であり、そしてデヴィッド・リーンの遺作となった作品でもある。

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戦争という名の虚無/映画『戦場にかける橋』【デヴィッド・リーン特集その3】

 ■戦場にかける橋 (監督:デヴィッド・リーン 1957年イギリス・アメリカ映画)

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デヴィッド・リーン監督作『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』は観ていなくともこの『戦場にかける橋』を観たことのある方は多いのではないか。なぜならオレもその一人だからだ(全部自分基準かよ)(ロレンスとジバゴはこないだやっと観た)。 と言ってもオレが観たのは大昔、正月の晩か何かにTV放送していたものだった。そんな『戦場にかける橋』を最近のデヴィッド・リーン・ブーム(オレの中で)の一環として数十年ぶりにブルーレイで観直してみたのだが、いやーどうやら殆ど内容を忘れていたことが発覚、逆に新たな気持ちで鑑賞することが出来た。

『戦場にかける橋』は第二次世界大戦中、タイ/ビルマの国境地帯に置かれた日本軍管轄の捕虜収容所が舞台となる。この捕虜収容所にはイギリス兵らが収容され、強制労働によってクワイ川を渡る鉄道橋を建造させられていた。しかし新たに捕虜となったイギリス軍大佐ニコルソンと捕虜収容所長・斎藤との間に対立が起き、ニコルソンのサポタージュにより橋建設は暗礁に乗り上げる。斎藤はニコルソンを懐柔し建設は順調に進むかに見えたが、そこに連合軍による橋爆破計画が進行していた。

『戦場にかける橋』は戦争を題材にした映画ではあるが、戦闘シーンのスペクタクルを描くのではなくメインとなるのは捕虜と収容所側との対立である。こういった題材は映画『大脱走』をはじめあれこれあるとは思うのだが、『戦場にかける橋』は一種独特だと思ったのは、捕虜と収容所側とに「交渉の余地」が持ち込まれるといった部分だ(他にもそういった戦争映画があるのかもしれないけど知らないんだ、ゴメン)。

もうひとつ独特だったのはある意味敵役である日本軍を血も涙もない殺戮機械としては描いていないという部分だ。交渉する同士の立場がある意味同等に描かれるのである。日本軍大佐斎藤は喜怒哀楽を持ったキャラとして肉付けされ、冷徹ではあってもどこか人間臭い。例えば他の戦争映画であれば、これがドイツ軍だったらもっと冷酷無比な悪鬼の如きキャラとして描かれはしないか。またこれがベトナム軍だったら十把一絡げの有象無象として描かれないか。それは相手が一方的な「悪」だったり「敵」だったりするからだ。しかしこの作品では双方のコミュニケーションの在り方を描こうとする。ここでもデヴィッド・リーンらしい「異文化とのコミュニケーション」といったテーマが発露しているのだ。

逆に言うなら、融通が効かないとはいえ、この作品における日本軍は随分物分かりがいい描かれ方をしていて、実際の戦争ではこんなものだったろうか?という疑問も湧いたりはする。大日本帝国軍はもっと狂気に満ちた存在として描かれないとどうも納得いかない、というのは自虐史観か?とはいえ、なにしろ主題が「異文化とのコミュニケーション」なのだからこういった体裁になるのは当然なのかもしれない。映画というフィクションである以上、リアリズムそれ自体はまた別の話となるのだ。それと、この作品を観て思い出したのは『戦場のメリークリスマス』だが、テーマ的には似て非なるものがあるような気がする。

そしてやはり、あまりにアイロニカルなあのクライマックスだろう。「異文化とのコミュニケーション」をひとつのテーマとしながらもその最期に徹底的な死と破壊を持ち込むことでこの作品は戦争映画として一級の輝きに満ちている。それは戦争という名の虚無である。これはキューブリックフルメタル・ジャケット』でもコッポラ『地獄の黙示録』でも成し得なかった透徹した物語性なのではないのか。少なくともオレの中で「戦争映画」というジャンルの見方が刷新された作品であった。 

 

砂漠を愛し、アラブの民を愛した男/映画『アラビアのロレンス』【デヴィッド・リーン特集その2】

 ■アラビアのロレンス (監督:デヴィッド・リーン 1962年イギリス・アメリカ映画)

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デヴィッド・リーン監督作『アラビアのロレンス』。やっと観た。やっと観た、というのは要するに生まれて初めてやっと全篇通して最後まで観た、ということである。子供の頃TV放送していたのを最初だけ観た記憶があるが、なにしろ全部観てない。とりあえずロレンスがバイクで事故死することだけは分かった。

その後いい歳のオッサンとなり「やはりこの作品だけは観ておかないとまずいか」と思いソフトを買ったのが2012年10月(アマゾンに履歴があった)。その時買ったのが「アラビアのロレンス 製作50周年記念 HDデジタル・リマスター版 ブルーレイ・コレクターズ・エディション」というヤツで、これはオリジナル207分より長い227分の「完全版」だった。観始めると、雄大な砂漠と広大な砂漠と遠大な砂漠がどこまでもどこまでも……。気が遠くなったオレはディスクをバカ映画に替えて気持ちを取り直し、それ以降観る事は無かった。ただ、とりあえずロレンスがバイクで事故死することだけは分かった。

そんな『アラビアのロレンス』をソフト購入後8年経ってようやく観終ったという訳なのである。感想?面白かったに決まってるじゃないか!しかしロレンスが最後バイクで事故死するなんてショック!……それにしても、この作品くらい有名で不動の評価を得ている名作中の名作について、今更何か書くのって無意味なような気さえするのだが、とりあえずなんか思いついたことを書いておこうと思う。

この映画、なにしろビックリさせられるのは本当にどこまでもどこまでも続く砂漠のロングショットなのだ。地の果てまで続くかと思わせるその砂漠の地平線の彼方に、なにか豆粒みたいなものがゆっくりゆっくり動いている……と思ったらそれはラクダに乗った人影なのだ。画面全体が巨大な窓の様になり、その向こうに実際の砂漠が広がっていて、そこに本物の人がいるようにすら見えるのだ。その圧倒的な臨場感がこの作品のひとつのキモとなるのだ。こんなの見せられると、「劇場の、なるたけ巨大なスクリーンで観たい!」と思うに決まってるじゃないか。こんなにTV画面で観るのがもどかしい作品は他にない。

この遠景ショットは一つの人影から小隊へ、さらに何百というラクダ騎乗部隊へと描かれるたびに増えてゆき、今度は画面を埋め尽くすそのモブの数に驚嘆させられる。画面いっぱいに写し出される雄大な砂漠の次は画面いっぱいの、見渡す限りの人、人、人!特にロレンス軍のアカバ奇襲作戦シーンは、膨大なラクダ兵の群れが砂漠の彼方から大津波の如く町に押し寄せ町を飲み込んでゆくという様子を遠景から写し、その凄まじい臨場感にTVの前で「あ・あ・あ!!」と変な声を出してしまったぐらいである。

大昔の超大作はエキストラの数で驚かされることがあるが、この『アラビアのロレンス』もまた迫真の撮影法も相まってその圧倒的な量に兎に角驚かされる。昨今の映画は砂漠もモブもCGでなんとかしてしまうのだろうが、やはりホンモノは歴然と違う。映画監督クリストファー・ノーランはホンモノを使った撮影にこだわることで有名だが、『アラビアのロレンス』を観れば分かる、ホンモノは違う、だからホンモノで写すんだ!少なくとも映画を志し『アラビアのロレンス』に感銘したことのある者ならば、誰もが皆そう思うのではないか。スピルバーグやスコセッシを始めとする有名監督がなぜデヴィッド・リーンを支持し尊敬するのか、この『アラビアのロレンス』を観れば理解できる。

この作品における「異文化とのコミュニケーション」は言うまでもなく英国人であるロレンスとアラブの砂漠の民とのコミュニケーションである。『ドクトル・ジバゴ』を観た時も思ったが、リーン監督は画面に現れる異文化、異邦人をあくまで対等の相手として、歪みや曇りの無い目で映し出そうとする。それ自体がリーン監督の物を見る目、他者に対するポリシーであるかのようだ。当時アラブの民をこの作品の様に人間性溢れた者として描くことの出来た欧米映画はあったのだろうか。

さて主人公であるロレンスだ。ロレンスは軍隊でも変わり者として描かれる。砂漠を愛し、砂漠の民を愛しているのらしい。彼の稚気に溢れ公平で屈託の無い態度はアラブの民の心を容易く開き友愛の念すら抱かせる。こんなロレンスのをピーター・オトゥールが演じるが、それにしてもなんてイイ男なんだ。オレはちょっと惚れそうになったぞ。しかし映画の中におけるロレンスは、風変わりが過ぎるのか、あまりに屈託が無く陰影に乏しく感じて、オレにはどこか理解しがたいものを感じた。なんだか人間離れしているというか、愛すべき人物の様には思えても、なにか血肉を持った人間の様に感じなかったのだ。

そのロレンスは後半捕虜となり虐待を受けることでダークサイドに入ってしまい、自傷を繰り返し遂にはオスマン帝国軍の虐殺まで指揮してしまう。しかしこのスイッチのオンオフみたいな機械的な変節の在り方は演出不足・説得力不足に感じてしまった。ラストは失意の中にあるロレンスが描かれることになるが、ある程度史実をなぞっていたのだとしても、前半の華やかなまでの瞬発力と躍動感が失われどこか尻すぼみになって終わるような印象になってしまい、この部分で不満が残るんだよなあ。なんかこう、カタルシスがさあ。とはいえこうしたアンチクライマックスの形をとることで、T・E・ロレンスという人物を神格化したヒーローではなく、アラブとの対話に最終的に失敗した軍人として描き、その後のアラブ外交の困難さまでうかがわせようとしたのだろう。