最近読んだSF/『巨星 ピーター・ワッツ傑作選』『星間帝国の皇女-ラスト・エンペロー-』

■巨星 ピーター・ワッツ傑作選/ピーター・ワッツ

巨星 ピーター・ワッツ傑作選 (創元SF文庫)

地球を発って十億年以上、もはや故郷の存続も定かでないまま銀河系にワームホール網を構築し続けている恒星船と、宇宙空間に生息する直径2億kmの巨大生命体との数奇な邂逅を描くヒューゴー賞受賞作「島」、かの有名な物語が驚愕の一人称で語られるシャーリイ・ジャクスン賞受賞作「遊星からの物体Xの回想」、戦争犯罪低減のため意識を与えられた軍用ドローンの進化の果てをAIの視点で描く「天使」――『ブラインドサイト』で星雲賞など全世界7冠を受賞した稀代のハードSF作家ピーター・ワッツの傑作11編を厳選。日本オリジナル短編集。

 カナダのハードSF作家ピーター・ワッツの短編集。ピーター・ワッツを読むのはこれが初めて。作品の全体的な傾向としては「自意識とは何か」とか「訳分からんものとの遭遇」を描き、まあSFでは普通によくあるテーマではあるのだが、実際読んでみると結構奥深い洞察が加えられていて実に読み応えがあった。ハードSFとして先端的な描写が多用されるワッツ作品ではあるが、同様のハードSF作家、例えばグレッグ・イーガンのアプローチの在り方とはまた別種、というか違う次元のものを感じる。例えば「自意識」と言った場合何がしか学術的な定義があるのだろうけれども、ワッツが描く物語は単に「自意識」というのではなくその先の「魂」的な部分に肉薄しようとしているように感じるのだ。そして「魂」の定義は神学的な部分にしか依拠できないものなのではないか。だからこそワッツの短編はどこか暗く鬱々としているものが多い。それは「魂」という科学的には不合理なものを取り扱おうとするときの、科学者でもあるワッツの苦心の在り方ではないのか。同様に、「訳分からんものとの遭遇」のテーマ作品は、単に「異生物や異種知性体との遭遇を描くSF的な面白話」の枠を超えてある種の人智を超えた「試練」であったり人智を超えた「超存在」との遭遇を描いたものの様に思えるのだ。例えば「島」における「宇宙空間に生息する直径2億kmの巨大生命体」とは、これは「惑星ソラリス」の変奏曲であるばかりではなく、「一個の世界に遍く存在する一個のみの生命」という意味合いにおいて「神」を指しているとも言う事もできるのだ。すなわち「魂」と「試練」と「神」の存在を模索しようとするワッツの短編からは、望んでか望まずにかは分からないが、どこか宗教的な洞察の在り方を感じるのだ。そこが面白い。

巨星 ピーター・ワッツ傑作選 (創元SF文庫)

巨星 ピーター・ワッツ傑作選 (創元SF文庫)

 
巨星 ピーター・ワッツ傑作選 (創元SF文庫)

巨星 ピーター・ワッツ傑作選 (創元SF文庫)

 

 ■星間帝国の皇女-ラスト・エンペロー-/ジョン・スコルジー

星間帝国の皇女 ―ラスト・エンペロー― (ハヤカワ文庫SF)

相互依存する国家および商業ギルドの神聖帝国、すなわち"インターディペンデンシー"は、異時空内の流れ"フロー"を用いた超光速航行で成立する星間帝国だ。だが、47星系を結ぶ礎である、そのフローが崩壊しつつあった……。父皇帝の死後、カーデニアは惑星ハブで若くして皇位を継ぐ。破滅の迫る帝国で、彼女は権謀術数渦巻く権力争いにのみこまれていくが――《老人と宇宙》著者によるスペースオペラ新シリーズ開幕!

ジョン・スコルジーは好きなSF作家で、訳出作は多分全て読んでいるとは思うのだが、なんだか量産しまくってて読後感が段々軽くなってくるなーと近作読みながら思ってたんだけれども。で、今回は【星間帝国!】と来たから「おおっとスコルジーに似つかわしくない重量級にゴシックな世界が展開されるのかッ!?」と思ったが、読んでみるとやっぱりスコルジー的な軽い世界でなんとも拍子抜けした。なんというか誰も彼もが現代風にブロークンな、要するに汚い言葉使い過ぎ。これはスコルジーの味わいでもあるのかもしれないが、これじゃあ【星間帝国!】というには余りに軽過ぎカジュアル過ぎで、それがスケールの大きさを感じさせなくしている。舞台も「銀河にひしめく数多の惑星国家!」というわけでもなく帝国と23の惑星とそこのおエライさんがドタバタするだけで、「これホントに帝国なのか、単なる企業間闘争のお話に過ぎないんじゃないか」としか思えない。「企業間闘争」と書いたのはこの物語が基本的に経済とその契約、それにまつわる陰謀を描いているからで、ここらもスコルジーらしいといえばそうなんだが、やはり【星間帝国!】というからには専制政治と搾取と圧政とそこから生まれる叛乱を描いて欲しかった……というのはオレの一方的なイメージの押しつけにすぎないか。それとこの作品の最も大きな不満は、これ1冊で物語が終わっていないということだ。物語における最大のテーマは超宇宙航行を可能にする「フロー」と呼ばれる時空変異点の危機を描くものなのだが、それが最終的にどう決着するのか描かれないのだ。というのはこの作品、後で知ったのだが3部作の1作目だからだそうで、じゃあ【星間帝国シリーズ1】とかなんとか表題に付けろよハヤカワさんよー。という訳でなんとも煮え切らない読後感であった。

星間帝国の皇女 ―ラスト・エンペロー― (ハヤカワ文庫SF)

星間帝国の皇女 ―ラスト・エンペロー― (ハヤカワ文庫SF)

 

【ネタバレなし】スカイウォーカー・サーガ完結編、映画『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』を観た。

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け (監督:J・J・エイブラムス 2019年アメリカ映画)

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■オレとスター・ウォーズ

オレはスター・ウォーズが好きである。より厳密に言うなら、オレは『スター・ウォーズ・サーガ』を割りと結構好きなほうである。VHSのボックスセットを買ってDVDが出たらそのボックスセットも買ってブルーレイになったらなったで当然ボックスセットで買う、というぐらいには好きなのだ。「いやそれ相当好きなんじゃないですか」と言われそうだが、本当に【相当好き】な人はこんなもんじゃ済まない事を周りを見て知っているので、このように謙遜交じりで言うのである。

「割りと結構好き」なSWファンのオレがひとつだけ自慢できるのは、1作目(EP4)公開当時から全て劇場で観ていることぐらいだろうか。なにしろオレは1962年生まれのジジイなので、1978年の日本公開時は「話題のエスエフ映画大公開!」ということで興奮して観に行ったのだ。その当時の思い出や、EP1-6のざっくりした感想はオレのブログの以下の記事でまとめてあるので御用とお急ぎの無い方は読んでもらえれば嬉しいのである。

 

■「オリジナル」と「プリクエル」と「シークエル」

スター・ウォーズはまず最初に公開されたEP4-6を「旧3部作/オリジナル・トリロジー」と言って、その次に公開されたEP1-3を前日譚ということで「新3部作/プリクエル・トリロジー」と言って、最新の3部作は後日譚なんで「続3部作/シークエル・トリロジー」と言うのらしい。なんだかややこしい。

実はオレはSWファンでも珍しい「プリクエル」派で、「旧3部作」よりも好きかもしれない。いや「旧3部作」は十分好きなんだが、今観ると冗漫だし古臭く感じるんだよ。その点「プリクエル」は映画テクノロジー的に進化しててキラキラした画面が官能的だし、あれこれのデザインも刷新されていて美しいし、お話も緩急自在で割と複雑な上悲劇的な様相すら呈していて、その翳りの在る部分が好きなんだよ。だから「プリクエル」を頭ごなしに否定されると結構イラッと来るんだ。なんかさー、「プリクエル」貶せば本当のSWファンだと思ってる輩いたりしない?

じゃあ「シークエル」はどうかというとだ、まずEP7『フォースの覚醒』、これがもう何の新鮮味も無いホンットのクソだった。EP3から10年待たされて出来上がったものが「オリジナル」の焼き直しというか正直パロディみたいなのってどういうことだよ、と思った。しかし続くEP8『最期のジェダイ』はどうかというと、結構ゴチャゴチャしてたけれども相当興奮して観ることが出来た。EP7監督のJ・J・芸の無い・エイブラムスに対するEP8監督ライアン・やればできる子・ジョンソンの卓袱台返しだと思えた。

ちなみにオレは外伝に当たる『ローグ・ワン』のみならず『ハン・ソロ』も好きなので、SWサーガ全体で言うならEP7を除いてどれも好き、というSWファンとしたら相当好意的な部類のファンじゃないかと思う。オレがSWに求めてるのは「オリジナル」の厳密な踏襲なんかではなく「SF映画としてその時その時楽しかったかどうか」なのではないかと思うんだ。

■そして(やっと)『スカイウォーカーの夜明け』

長々とSWサーガ全体をおさらいしてみせたのは、「じゃあオレは一人のぞんざいなSWファンとしてこの『スカイウォーカーの夜明け』をどう観なければいけないのか」と思ったからだ。どう観なければも何も、「SF映画として」楽しみゃあいいだけなんだが、どうもこの「シークエル」はデコボコしていて、期待やら否定的感情やら余計な思惑が入り込み素直に観られない部分があったからだ。

まず心掛けとして、今作の監督がクソつまらないEP7を監督したJ・J・エイブラムスであることを念頭に置き、EP7的なファン迎合作品であることは避けられないだろう、だからその辺はブツクサ言わず軽く流そう、多大な期待はしないでおこう、と思った。それとこれは「シークエル」の最終話となるので、なにかとんでもないことが起こる訳ではなく、収まるべきものが収まる、既に予定調和的な作品にならざるを得ない、ということだ。あと、なんだかんだと言いつつ、これは亡くなられたキャリー・フィッシャーの最期の出演作となるので、敬意をもって臨もう、ということだ。

で、結局どういう感想だったかというと、これが結構楽しんで観られた。その場の思い付きで作ったんじゃないか、とすら思えたシナリオの雑さや、これSFじゃなくて単なるファンタジーだろ、と感じた展開のインチキさ加減、エイブラムスの大味さや外連味頼りの監督振り(プロデューサーとしての手腕は評価できるかもしれないが映画監督としては全然たいしたことないよな)は、【既に学習済み】ということにして、徹底的に【お気楽に】観ることにしたら、これが、割と悪くないのだ。

まあこれすらもEP7の酷さやEP8の悪くはないがゴチャゴチャした作りと比べるなら、という相対的なものではあるのだが、なにしろ上映時間が142分あったにも関わらずスイスイスラスラと立て板に水の如くお話が進んでゆくではないか。当然3部作最終話としての予定調和的展開がそう思わせるのかもしれないが、「いや、別にこれでいいじゃん?」と感じたのだ。要するに「安心して観ていられた」ということなのかもしれない。

それよりも、あれやこれやの惑星の工夫されたロケーションが楽しかったし、新たな登場人物の何人かは魅力的だったし、レン騎士団はカッコよかったし、「ビックリ隠し玉」にはやっぱりビックリさせられた。そして主役たるレイ役デイジー・リドリーの終始引き攣った顔と、カイロ・レン役アダム・ドライバーのヌボッとした顔には、流石に3作目ともなると愛着が沸いてこれも安心して観ていられた理由だった。

実の所、「語るべきものも語りたいことも何も無いにも関わらず極めて商業的な理由ででっち上げられたオハナシ」には余り興味が沸かず、だから「スカイウォーカー一族がああしてこうして結果的にこうなった」という本来のテーマの結末にも特に感銘を受けることはなかったけれども、とりあえず期待したり失望したり驚かされたりうんざりさせられたりしたこの「シークエル」が大団円を迎えた、というその「完走感」が、『スカイウォーカーの夜明け』の感想を底上げしているかもしれない。ああ、終わった終わった、だから次はもっと新しいものが観たいな。

 

池澤夏樹個人編集による『短篇コレクション I』は凄まじく素晴らしい文学短篇集だった。

■短篇コレクションI (池澤夏樹個人編集:世界文学全集 第3集)

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

■濃厚で重量級の世界文学短篇コレクション

ドスッ!ボカッ!ザスッ!・・・・・・これらは池澤夏樹個人編集:世界文学全集第3集『短篇コレクション I』を読んでいたオレの、心が打ちのめされていた時の音である。この『短篇コレクション I』には20編の短篇文学作品が収録されているが、その殆どどれもが、「文学の力」を思い知らされるような、濃厚で重量級、シリアスかつ胸に迫る物語ばかりだったのだ。

池澤夏樹個人編集:世界文学全集」は全30巻からなる全集だが、その中で短篇を中心に編集した本はこの『短篇コレクション I』、そして『II』が刊行されている。オレは読む本と言えばSFやミステリのエンタメ中心で、文学にはあまり縁がない人間なのだが、この『短篇コレクション』は何かのきっかけでふらふらと購入していたのだ。

この『短篇コレクション I』に収録されているのは「ヨーロッパ圏を除く」世界各国の短篇文学作品だ(ヨーロッパ圏のものは『II』に収録されているようだ)。そのセレクトは恐ろしく幅広く、よくここまで探し、読み込み、選んだものだな、と感嘆させられる。そしてただ世界各国の短篇文学作品を集めたのではなく、その中でもさらに選りすぐった、「これしかない」と思わせるような、まさに”珠玉”の作品ばかりが並んでいるのだ。

オレの読書はお気楽なエンタメ中心なものばかりではあるが、この『短篇コレクション I』を読むに付け、その1作1作ごとに「文学スゲエ・・・・・・」と溜息を付くほどに感嘆させられてしまった。大げさに言うなら、オレの小説というものの概念が、180度とは言わないまでも、10度か15度くらい変わってしまうぐらいに衝撃だった(いや「この程度で?」とか言わんといてください、もともとがエンタメ中心な人なんだから)。いやあ、文学スゲエわ。どの短篇であろうとも、それを読み終わるごとに、この作者の作品をもっと読みたい!と興奮しながら思ってしまったもの。

「濃厚で重量級」とは書いたが、決して物語がくどく重苦しく晦渋であるといった意味ではない。むしろどれも恐ろしく読み易く容易く作品世界に入っていけ、そして気付くとすっかりその世界に取り込まれている自分に気付くのだ。これはお話の内容だけではなく、「短篇文学」ならではのストーリーテリングのあり方、その技巧に極めて精通した作家だからこそできるものなのだろう。つまり、「読ませる」のだ。

このようなハイレベルな作品を20編、無駄も隙も無く1冊の書籍にまとめることの手腕にもまた驚かされる。さらに1篇1篇の冒頭に池澤氏による短い紹介文が入っていてなおさら作品世界に入っていき易くさせている。作品の最後にまとめられた著者略歴や代表作も簡潔にまとめられ作者理解の手助けになる。いやあ、至れり尽くせりじゃないか。最高のアンソロジストによる、最高の短篇コレクション。これは広く誰にでも強烈にお薦めしたい。

■それぞれの作品をざっくり紹介してみる

全部で20作もあるのでそれを全部紹介していたらキリがないのだが、どれもとても素晴らしかったのでここはあえてそれをやってしまおう。それぞれの国別の来歴も付け加えたのでセレクトの幅広さを感じてほしい。

まず初っ端からフリオ・コルタサル「南部高速道路」オクタビオ・パス「波との生活」フアン・ルルフォ「タルパ」というラテンアメリカ文学名作短篇の連打で横っ面を張り飛ばされる。バーナード・マラマッド「白痴が先」はロシア系移民作家のもの、上海租界を舞台にした張愛玲「色、戒」は映画『ラスト、コーション』の原作ともなった息詰まる中華文学。ユースフ・イドリース「肉の家」はエジプト作家による息苦しくなってくるような情欲作、そしてそこにSF作家P.K.ディック「小さな黒い箱」が投入されて一気に佳境に入るが、更にこの作品、『ブレードランナー』原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の元となった短篇作品なのだ。

チヌア・アチェベ「呪い卵」はナイジェリア作家の作品、続く金達寿「朴達の裁判」は韓国人作家によるものだが、なんとそもそもが日本語で書かれた作品なのだ!その後のジョン・バース「夜の海の旅」ドナルド・バーセルミ「ジョーカー最大の勝利」アメリカ作家によるポストモダン小説だか実はこのアンソロジーで一番つまらない。しかし続く女性アフロアメリカン作家トニ・モリスン「レシタティフ─叙唱」は女性二人のなにげない心の行き違いを描くだけなのに、壮絶に読ませる!これ素晴らしいよ!これが文学ってもんだよ!同じくアメリカ人作家リチャード・ブローティガン「サン・フランシスコYMCA讃歌」はこのアンソロジーのちょっとした息抜きといった掌編。

さあ後半戦だ。パレスチナ人作家ガッサーン・カナファーニー「ラムレの証言」はその遣り切れなさとこの状況が未だにパレスチナで存在することに心胆寒からしめる作品、そしてカナダ人作家アリステア・マクラウド「冬の犬」は犬好き必読の感涙作、好きだ好きだマクラウドアメリカ人作家レイモンド・カーヴァー「ささやかだけど、役にたつこと」はじわじわと真綿で首を絞めるような深刻な展開の果てに待つある結末、いやあこのストーリーテリングには脱帽させられた!帽子被ってないけど!ブラボー!ちなみに村上春樹訳。『侍女の物語』で知られるカナダ人作家マーガレット・アトウッド「ダンシング・ガールズ」は都市生活の孤独を描き、中国人作家高行健「母」はタイトル通り母の思い出を語るがちょっとウェットすぎるかな。シリア人作家ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」はアラブ圏における女性蔑視の古い因習と新しい世界における男女平等の気風の狭間で引き裂かれる一人の男の葛藤を描き、これは世界中に遍在するジェンダー問題へと繋がっていて非常に読ませる作品だ。そしてラスト、目取真俊「面影と連れて」。これは沖縄出身作家によるものだが、「琉球マジックリアリズム」とも呼ぶべき凄まじい幻視と哀惜極まりない物語展開を迎え、読んだ者の心をいつまでも掻き毟る名作だろう。

《収録作》
フリオ・コルタサル「南部高速道路」
オクタビオ・パス「波との生活」
バーナード・マラマッド「白痴が先」
フアン・ルルフォ「タルパ」
張愛玲「色、戒」
ユースフ・イドリース「肉の家」
P.K.ディック「小さな黒い箱」
チヌア・アチェベ「呪い卵」
金達寿「朴達の裁判」
ジョン・バース「夜の海の旅」
ドナルド・バーセルミ「ジョーカー最大の勝利」
トニ・モリスン「レシタティフ─叙唱」
リチャード・ブローティガン「サン・フランシスコYMCA讃歌」
ガッサーン・カナファーニー「ラムレの証言」
アリステア・マクラウド「冬の犬」
レイモンド・カーヴァー「ささやかだけど、役にたつこと」
マーガレット・アトウッド「ダンシング・ガールズ」
高行健「母」
ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」
目取真俊「面影と連れて」

 

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

 

最近購入したゲーム

話題だったりちょっと気になったゲームは小遣いの予算のことなどまるで考えることも無くヒョイヒョイ買ってしまうのだが、買うだけ買ってあんまりやれていない。なんというか生活の優先順位が酒と映画とメシ、な人間になってしまい、暇があったらあったでこうして益体も無いブログ書き始めるものだから、ゲームをする、というのはホンットに何も何一つもやる事がない時に限られてしまう。やれないんなら買うな、と普通思うものなのだろうが、しかし、なんかこう、買ってしまう。とはいえ、買ったのはいいがこの量をどうさばけばいいのだ。計画的に購入して今すぐできないであろうゲームは中古とかスペシャルプライス版になった時に考えるとかあると思うのだが、【新発売】になった時の【ハツモノ感】が好きなんだ、とかなんとか訳の分からないことを言って正当化している。アホなんだろうか。アホの子なんだろうか。そういった反省と悔恨と呻吟に満ちたゲーム記事なのである。

 

■プレイグ テイル -イノセンス-

プレイグ テイル -イノセンス- - PS4 【CEROレーティング「Z」】

プレイグ テイル -イノセンス- - PS4 【CEROレーティング「Z」】

 

黒死病が蔓延する中世フランスを舞台に、異端審問官に家族を殺された姉弟が助けを求めてひたすら逃げ惑う、という粗筋書いてるだけでも胸が締め付けられてくるようなゲームであります。ゲームの基本要素はステルスとパズル、敵に見つかれば一発死、というオレの最も苦手なジャンルのはずなのに、これがやってみると無類に面白い。まず背景となる中世ヨーロッパの物寂しい美しさ、主人公となる姉の儚げな佇まい、物語全体の鬱蒼とした暗さとホラー風味が非常に魅力的なだけでなく、ゲームオーバーしてもほぼ同じ地点でやり直せるので攻略にストレスを感じない。ただ思わぬことに戦闘もあり、これはちょっと苦手かな。これは是非クリアまで漕ぎつけたいなー。 

シェンムーIII

シェンムー』、1も2もクリアしていないけど鈴木裕さん大好きだからクラウドファンディングに参加してたんですよオレ。それがこの間遂に発売になってなにしろメデタイメデタイ。あれからもう3,4年経つんだねえ。とはいえなにしろ1も2もきちんとやってないからこの『3』のオープニングを観て「???」となってしまった。ドリキャス時代とあんまり変わらんゲームシステムはとても古臭く感じるが、当時のファンの意見を聞いた結果なのかなー。

Star Wars ジェダイ:フォールン・オーダー

 ジェダイナイツになってライトセーバー振り回し帝国軍を斬って斬って斬りまくるんだッ!と思いプレイし始めたら、なんと基本アクションが『アンチャーテッド』 だったのでちょっとびっくりした。ライトセーバーを手にしてからのアクションはすっかりジェダイになりきれて爽快だな!当然スター・ウォーズの世界観も実にしっかりしていてSW好きならすっかりゲーム世界に没入できるだろう事請け合い。できるならクリアまでやりたい・・・・・・。

■DEATH STRANDING

『MGS』小島監督による話題沸騰中の新作ゲーム。暗く難解な(要するにようわからん)世界観と研ぎ澄まされたビジュアル、ヌルヌル動く有名外国俳優(キャラの中の人)、 発売前から「いったいどんなゲームだ!?」と期待と不安で一杯(でも買うけど)だったが、いざプレイしてみると「伝説の宅配屋が命を懸けて宅配する宅配ゲーム」というこうして書いてみても伝わるかどうかさっぱり分からんゲームなのだが、しかし遊んでみると妙に面白い、「配達」という単純な行為に膨大な屁理屈付けて壮大な意味合いを持たせているという目くらましの在り方は流石小島監督と思わせた。これはクリアしたいなー(『MSG5』クリアしとらんけど)。

■アウター・ワールド

『フォールアウト:ニューベガス』のスタッフが作ったとかいうシューティングRPG。猥雑極まりない異星世界の雰囲気とシニカルな会話が楽しい。これもクリアしたいゲーム。ただ、やることいっぱいありそうなゲームなんだよなあ。

コールオブデューティ モダン・ウォーフェア

CoD。惰性でやってるCoD。そして今回も惰性で購入。それにしてもなんだ、「モダン・ウォーフェア」って「CoD4」とタイトルダブってるけどなぜだ。あとPS4でもマウス&キーボード操作ができるらしい。やってないけど。 

WORLD WAR Z

WORLD WAR Z - PS4 【CEROレーティング「Z」】

WORLD WAR Z - PS4 【CEROレーティング「Z」】

 

映画にもなったゾンビ小説『WORLD WAR Z』のゲーム版だ!オレ映画も小説も好きだったんだよな!と思い早速遊んでみたらなんだか雰囲気が『Left 4 Dead』そっくりで、あーやっぱり協力プレイしてナンボなんだろうなあ、と思うと寂しさでゲームが進められなくなった。

■Gears 5

Gears 5 - XboxOne 【CEROレーティング「Z」】

Gears 5 - XboxOne 【CEROレーティング「Z」】

 

ギアーズは律儀にシリーズ全部遊んでるが、今回は女性が主人公という事で雰囲気が変わって面白いな。 面白いんだけど、実はこないだXboxOneがぶっ壊れてしまってな……さっさとクリアしておけばよかった……。

 ■RAGE2

1作目は面白かったなーと思いこの2作目もやってみたのだが、なんだか今回はあまりハマレないんだよなあ。戦闘は意外とハード。

 ■ASTRAL CHAIN(アストラルチェイン)

ASTRAL CHAIN(アストラル チェイン) -Switch

ASTRAL CHAIN(アストラル チェイン) -Switch

 

プラチナゲームズの開発という事でこれは買わねばなるまい、と思い購入したが、ほう、キャラクターデザインが桂正和だったのね、桂正和興味無いけど……興味無いけど……と思っているうちに次第にやらなくなってしまっていた……。

ネトフリ映画『アイリッシュマン』を観た。

アイリッシュマン (監督:マーティン・スコセッシ 2019年アメリカ映画)

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■ネットフリックス映画『アイリッシュマン』を観た

あちこちで評判になっていたネットフリックス映画(限定劇場公開もあり)『アイリッシュマン』、3時間半もあるんで毎日チビチビ観ようかと思って観始めたら、それほど期待していなかったのにも係わらずこれが結構面白くて止め時が見つからなくなり、結局二日掛かりで観終わってしまった。そして観終わった感想は「結構面白い」どころかこれは「傑作」だったじゃないか。

「それほど期待していなかった」というのはまずネトフリ映画ってェのがハリウッド有名監督や有名俳優の登用を喧伝しながら実際観て満足した作品が皆無と言っていいほど無かったこと、今更なマーティン・スコセッシによる今更なギャング映画という新鮮味の無さ、その作品というのがなんと3時間半もありやがる、といった点にあった。

マーティン・スコセッシ、有名監督ではあるがそれはオレにとっては『タクシードライバー』という10代のオレの心に最も鮮烈な印象を植え付けた伝説的傑作を監督した人、というだけでしかなかった。スコセッシ監督作でそれ以外に心に残っているのってなんだ?何作かは観てはいるけれど、せいぜい『ウルフ・オブ・ウォールストリート』ぐらいだ。そもそもスコセッシ、ちょっと過大評価され過ぎじゃないのか?

■スコセッシ監督と裏社会映画

そんなスコセッシがまたぞろギャング映画、と聞いたときは鼻白んだ。「『アイリッシュマン』を観るなら『グッド・フェローズ』で予習しましょう!」とかいうネット上の知ったかぶった声にもうんざりさせられた。そもそも『グッド・フェローズ』、たいして面白くなかった映画だった(でもなぜかブルーレイは持ってるんだよな)。

とはいえ、スコセッシはそんなに沢山ギャング映画を製作している人ではない。「裏社会」を描いた作品が目立つのでそういうイメージが付いたのだろう。だがむしろ近年まで様々なジャンルに果敢に挑戦してる監督だ。そんなスコセッシがまたぞろ古巣ともいえるギャング/裏社会映画を製作した、というから「ネトフリ映画だから気ィ抜いて作ったんだろな」と思ったし、デ・ニーロらスコセッシゆかりの有名俳優集結、ってのも「同窓会かよ」と思えてしまったのだ*1

(なんかここまで書いてて思ったが、オレって結構性格悪いのかもしれない)

ところがだ。ここまでネガティヴなことをグダグダとほざきながら観始めたのにも係わらず、物語が始まって数分で、すっかり作品世界に引き込まれてしまった。お話はよくあるようなギャング・ストーリーで、別段特別に興味をそそるものがあるわけでもない。しかし、なぜか馴染む。安心して観ていられて、引っ掛かりが無い。語り口調にスムーズにノレる。いわゆる映画手法やらなんやらのことはオレは理解が極めて乏しいが、これが重鎮熟練映画監督の巧みの技、というやつなのか。

■日常と化したアンモラル

物語はアメリカ50年代から70年代を舞台にした、"アイリッシュマン"と呼ばれたある男とアメリカ裏社会との闇を描くものだ。"アイリッシュマン"ことフランク(ロバート・デ・ニーロ)は殺人を含む裏社会の汚れ仕事を請け負う男だが、カタイ仕事ぶりが買われてマフィアのボス、ラッセル(ジョー・ペシ)に引き立てられる。やがてフランクは「全米トラック運転手組合委員長」として裏で不正三昧を働いていたジミー・ホッファ(アル・パチーノ)のボディガードを勤め、家族ぐるみの親密な付き合いをするようになる。しかし我の強いホッファは次第に裏社会の鼻に付くようになり、フランクはホッファとの友情と組織の義務との間で引き裂かれてゆくのだ。

まあなにしろギャング・ストーリーなので全編においてキナ臭い雰囲気が充満しまくっている。殺しも破壊もあちこちで行われる。しかしこの作品では主人公フランクの適度にヨレたおっさん振りが物語に奇妙な弛緩と安定感を醸し出す事になる。フランクは要するに殺し屋なのだが、ギチギチにイキッた頭のおかしい殺人者なのではなく、その辺の勤め人と変わらない仕事に律儀で忠実で時にくよくよする男として描かれるのだ。しかしよく考えるなら殺し屋が普通人のように描かれ、観る者も普通に共感させられてしまうという部分で実は異常な事だ。

フランクに限らずマフィア関係者やホッファもそうなのだが、「一切のモラルの欠如」以外は普通の人間である、という、実は普通でもなんでもない部分を普通に描いてしまう部分がこの作品のポイントなのだ。モラルの欠如した連中が大手を振って面白おかしくお天道様の下を歩いている、その異様さ、異質さ、それは『グッド・フェローズ』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』に通じるスコセッシのテーマのひとつなのだろう。

■無常の世界

こうして暴力と権力への強烈な志向が毒ガスのように充満するアンモラルな世界が3時間半、他愛のない日常風景のようにダラダラと語られることになる。しかしそれは実は「ダラダラ」なのではなく、たとえどんな日常風景の中にあっても、フランクがどんなに情けない顔をして可笑し味を漂わせていたとしても、そこには常に通奏低音のように暴力の緊張が存在しそれは決して途切れることは無い。この「ダラダラ」な日常の最中にある微妙な異物感、不安感、これを体験させるために3時間半は逆に絶妙だった。

この物語は病院に入院する老境のフランクが車椅子から過去を回想する形で描かれる。過去は既に過ぎ去り年老いたフランクに待つのはあとは”死”のみだ。物語内における様々な登場人物も登場した段階で「最期にどういう死に方をしたか」のキャプションが付けられ、そしてその殆どがろくな死に方をしていない。どのように相手を出し抜き権力の栄華を誇ろうと、そんなものとは関係なく”死”だけは確実に訪れる。こうしてフランク、ホッファ、マフィア連中らの生み出すドラマは強烈なカタルシスを生むことなく虚無のドツボの中に消えてゆく。それは死にゆくジジイどもの挽歌であり、つわものどもが夢の跡という事だ。この無常観こそが映画『アイリッシュマン』のテーマだったのかもしれない。 

この映画がホッファ失踪事件が核となる実話ということを途中で知り驚いたが(原作あり)、舞台となるアメリカ50〜70年代の政治背景がそこここで影響する部分や(ケネディニクソンへの言及)、服飾等のレトロな文化が執拗に再現されているのにも見入ってしまった。登場人物たちがシーンが変わるごとに違う洋服を着て出てくるのだ。主役俳優の顔を若くするCGは、モーションキャプチャーではなく撮影時12台の特殊カメラを使うことで可能としたのだという。技術的な部分で冒険する部分にもスコセッシらしさを感じた。3時間半の尺は原作を活かし切る為に必要だったろうが通常の劇場公開にはあまりそぐわないだろうし、ネトフリ出資のTV/劇場同時公開は的を得ていたと思う。

 

アイリッシュマン(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アイリッシュマン(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
アイリッシュマン(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アイリッシュマン(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
グッドフェローズ [Blu-ray]

グッドフェローズ [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: Blu-ray
 
ウルフ・オブ・ウォールストリート [Blu-ray]

ウルフ・オブ・ウォールストリート [Blu-ray]

 

 

*1:実際はデ・ニーロからスコセッシに企画が持ち込まれ、劇場映画作品として製作を進行させようとしていたが、予算の面で映画会社と折り合わず、断念しかけていたところをネトフリから出資が持ち掛けられて完成に漕ぎ着けたのだという。決して気ィ抜いて作った作品ではないのだ。配役に関しても当初は有名俳優を使うことを考えていなかったらしい。Netflixが支えた『アイリッシュマン』と、マーティン・スコセッシの「理想」とのギャップ:映画レヴュー|WIRED.jp