世界の危機はジェラルド・バトラーにまかしとけ!?/映画『ハンターキラー 潜航せよ』

■ハンターキラー 潜航せよ (監督:ドノバン・マーシュ 2018年アメリカ映画)

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潜水艦攻撃事件に端を発する米ソ軍隊の睨み合い!迫りくる第3次世界大戦の危機!このまま人類は戦乱の炎に焼き尽くされるのか!?この事態を収めることのできる者はいないのか!?そこに現れた一人の男!その名は……ジェラルド・バトラー!!

ジェラルド・バトラー!!『300(スリーハンドレッド)』『キング・オブ・エジプト』では古代、『GAMER』では未来世界で戦い、『エンド・オブ・ホワイトハウス』『エンド・オブ・キングダム』ではアメリカ合衆国大統領をたった一人で守り抜き、『ジオストーム』では衛星軌道上から地球滅亡の危機を救った男!そんなジェラルド・バトラーの今度の戦場は暗く深い海の中だ!その映画のタイトルは、『ハンターキラー 潜航せよ』!!

ジェラルド・バトラーさんの今回の役回りは攻撃型原潜「ハンターキラー」の艦長ジョー・グラス。彼はロシア近海で攻撃され破壊された米ソそれぞれの原潜を調査中だった。その最中、ロシアでは軍事クーデターが勃発、ロシア大統領が拘束される!そしてジョー・グラスに命令が下された!「ロシア大統領を救出せよ!」しかし、海中ですら鉄壁の防衛を誇るロシア海域にハンターキラーは潜入することができるのか!?潜航せよ!深く潜航せよ!行け、行くんだハンターキラー!そしてジェラルド・バトラー!!!

緊張に満ちた原子力潜水艦の戦いを描くミリタリー・アクション・サスペンス『ハンターキラー 潜航せよ』であります。あ、さっきタイトル言いましたか。潜水艦を舞台とした軍事サスペンスとしては『U・ボート』や『レッド・オクトーバーを追え!』なんて映画が有名ですが、共通するのは一切の視界が無く、ソナーだけで敵や周囲の海域を探知しなければいけないこと、潜水艦という狭苦しい密閉空間の中でサスペンスが進行し続けるということ、さらにそれが暗く冷たく高圧の海中であり、ほんの少しの損傷ですら容易く危機に繋がること、などなどが挙げられるでしょうか。しかし逆に、見えない海中という利点を生かし、敵に隠密に近づき強力な武器で一撃必殺の攻撃を仕掛けられる、という潜水艦海戦独特の醍醐味もあるんですね。

さらーに!今作ではハンターキラーの海中作戦だけではなく、現地にHALO降下した4人の精鋭特殊部隊による陸上作戦も展開されるんですな!これにより地上・海中の二つの隠密作戦が展開されることとなり、サスペンスは2倍!美味しさは10倍!となるわけなんですよ!緊張に継ぐ緊張の中じわじわと敵の懐に侵入してゆく二つの作戦行動が終局で交わり、これまでの緊張を一気に弾き飛ばすような熾烈な戦闘が勃発する時の興奮といったらあーりゃしません!即ち決して隠密作戦だけで終始した作品じゃないってことなんですよ。ここで登場するアレやコレやの武器兵器は軍事オタクの方なら垂涎モノでしょうし、あんまりそうじゃないオレですら「ヤベー帰ったら『CoD』やらなきゃ……」と思っちゃったぐらいでアリマス!

こういった物語の中でジェラルド・バトラーさんは、どこまでも熱く濃く艦長としての任務を遂行し、 それがどれほど上層部の逆燐に触れようとも、あくまで己の勘と信念を信じ、軍務という枠組みから離れて、人として漢(おとこ)としてやるべきこと、やらねばならないことを押し通し、徹底的に「漢光り」するキャラクターを演じているのですよ(あ、「漢光り」って今オレが適当に考えた造語です)!そしてそれによって描かれる国境を超えた熱く濃いい漢の友情の炸裂に、観る者皆胸のときめきを押さえる事が出来なくなることでありましょう!もはやジェラルド・バトラーさんの映画に間違いはない!それは「俺を信じて生きろ」と言っているか如きものなのであります!確かにこの物語は「ふつーありえねーだろ」の連続ではありますが、「ありえねー」話だからこそフィクションは面白いのだし、その馬鹿馬鹿しさも含めてとことん楽しめる、映画『ハンターキラー 潜航せよ』 はそんな映画なんざますのよ!

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ハンターキラー 潜航せよ〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

ハンターキラー 潜航せよ〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

 
ハンターキラー 潜航せよ〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

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ハンターキラー 潜航せよ

ハンターキラー 潜航せよ

 

文化大革命と中越戦争の狭間の青春/映画『芳華 Youth』

■芳華 Youth (監督:フォン・シャオガン 2017年中国映画)

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■”文芸工作団”たちの青春

中国映画『芳華 Youth』は、1970年代の激動の中国を舞台に、歌や踊りで兵士たちを慰問する文芸工作団(文工団)と呼ばれる部隊に所属した男女の青春を描く物語だ。監督は『戦場のレクイエム』『唐山大地震』のフォン・シャオガン、主演は新進女優ミャオ ・ミャオ 、『空海 KU-KAI 美しき王妃の謎』のホアン・シュアン。原作・脚本に『シュウシュウの季節』のゲリン・ヤン。

《物語》1976年、文化大革命末期の中国。地方出身のホー・シャオピン(ミャオ・ミャオ)は憧れの歌劇団・文工団に入団するが、垢抜けない彼女は仲間達のイジメの対象になってしまう。そんな彼女の心の支えとなったのは団の模範兵、リウ・フォン(ホアン・シュアン)だけだった。そして毛沢東の死後、二人は別々の部隊に配属される。ホーは衛生兵として野戦病院へ、リウは兵士として中越戦争中のベトナム国境最前線へ。熾烈極まるその戦争は二人の運命を大きく変えてしまうこととなる。 

文化大革命中越戦争

映画『芳華 Youth』における「激動の時代」とは、1966年から1976年まで続いた文化大革命であり、その後1979年に起こった中越戦争が起こった時代である。文革は数100万人とも1000万人とも言われる犠牲者を出した非人道的な革命政策であり、中越戦争は大量虐殺で知られるカンボジアポル・ポト政権に肩入れした形で行われた中国対ベトナムの戦争であった。さらにこの中越戦争は中国側に壊滅的な打撃を与えたまま終了した。

つまり映画『芳華 Youth』における文工団の慰問とは、血塗られた文革の「愛国プロパガンダ」を行うことであり、主人公ホーとリウがその後送られた戦地は、中国の起こした「誤った戦争」の最前線であった。一見若者たちの瑞々しい愛と青春のドラマを描いているように見えるこの『芳華 Youth』は、裏を返せば無慈悲なる中国共産党の、その兵卒たちの日常を描いたものだということも出来るのだ。とはいえ、彼らもまた時代の犠牲者なのではあるが。

文工団のメンバーたちによる歌とダンス、そして伴奏は京劇に現代的味付けを加えたものだが、映画で観ることの出来るそれは、訓練と鍛錬の賜物による素晴らしいパフォーマンスであり、美しく目を奪われるものではある。華奢な体躯の俳優たちが軽やかに歌い踊るその情景はこの物語のハイライトの一つだろう。しかしその本質は「愛国プロパガンダ」であり、それを意識して見るならば途端に禍々しく硬直的なものにしか思えなくなってしまう。この作品での文工団の歌とダンスはどれも現代の北朝鮮を思わせる実に全体主義的な内容のものばかりだ。しかし、この作品は「愛国プロパガンダ」を華々しく謳う作品では決してない。

■「語られていること」と「語られていないこと」

この作品は「語られていること」よりもむしろ「語られていないこと」に意味が隠された作品なのではないかと思えた。 物語は当時の政治的状況や戦争の有様を批評も批判も無くそのまま描く。その中で登場人物たちは翻弄されてゆくが、しかしそれは政治的状況と切り離されあくまで「個人の問題」として描かれてゆく事になる。そこには「そういう時代なのだからそう生きていくだけでしかなかった」ということは描かれても「そう生きざるを得なかった政治的状況」への批判は無い。当然それは現在の中国共産党への忖度ということなのだが、作品の中の「描くべき部分で描かれないことの違和感」が逆に批評となっている、という微妙に捻じ曲がった製作態度が見え隠れするのだ。

その「語られていないこと」とは当然文革中越戦争の在り方への批判であり、党幹部子息への優遇や傷痍軍人に対する劣悪な補償の在り方への批判であったりする。物語では「そういうものだった」としてさらりと流されるが、当時を知る中国人が見るならば相当に思うことがあるのではないのか、と想像してしまう。映画はあくまで激動の時代を生きた中国人民のノスタルジーの形を取るが、あえて無批判に提示された物語と映像の背景にあるのはあの時代を生きてしまったことの暗い刻印なのではないかとオレは邪推してしまうのだ。

例えば劇中文工団のメンバーが当時流行していたテレサ・テンの曲を初めて聴きその歌唱法に陶然となる、というエピソードがある。劇中では単にロマンチックな挿話のひとつとして描かれるだけなのだが、実はテレサ・テンは台湾人歌手であり、当時中国では禁止されていた音楽だった。登場人物たちがテレサ・テンの歌に陶然となったのは、それは歌の美しさや技巧だけではなく、その新しさであり、世界に開かれた自由さの気風がそこにあったからではないか。そして文工団としての彼らが演じる古色蒼然とした京劇風の歌と踊りの窮屈さと退屈さを感じたからではないのか。これらは決して言及されないが、このエピソードの背後にあるのはそういったことではないのだろうか。

■うっすらと滲み出る「政治的忖度」

映画全体の流れとしてみると、多くのエピソードを掘り下げることなく端折ってしまったダイジェスト版のような物語のように思えてしまった。これは最初主人公がホーとリウの物語のように思わせながら、次第に他の登場人物個々のエピソードを、それぞれの独白を交えながら描かれだすためにとっちらかった印象を与えてしまっているからだ。そもそも文化大革命中越戦争という大きな時代の流れと30年あまりの歳月を群像劇的に描こうとしながら、135分の上映時間にまとめなければならないことに無理があったように感じる。しかしこれすらも政治的忖度があったばかりに相当のカットがあったせいだからなのではないかと思えてしまう。

そのひとつとして考えられるのが、「戦時において英雄的な行動を取った登場人物が戦闘ストレス反応を起こし精神に変調をきたす」というシークエンスを、たった一個の説明だけで終わらせているという部分だ。このシークエンスは物語全体に関わる重要なポイントであるにもかかわらず、素っ気無いほど単純に素通りしてしまい、映画を観ている最中呆気に取られたぐらいだ。実はこのシーン、「英雄が精神に変調をきたすとは何事か」と共産党から物言いが入り、一時上映が延期されることになった部分なのらしい。

こういった部分で、どことなく煮え切らない、もやもやとしたものを残す部分のある映画ではあるが、しかしこれをして凡作失敗作とも断言できないのだ。まず文革時の文工団のドラマ、という切り口が斬新であり、中越戦争の悲惨を正面から描いている部分で注目でき(ここにおける戦争スペクタクルの描写は半端ない)、なにより、文工団メンバーを演じる中国俳優たちの瑞々しさが素晴らしいのである。文工団を演じる俳優たちの容姿端麗さは、一瞬「これは中国のアイドル映画なのか?」と思えてしまったぐらいだ。確かに惜しい部分はあるにせよ、こういった部分で興味の尽きない、奇妙に心に残る作品であることも確かなのだ。

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橋本治の『いつまでも若いと思うなよ』を読んでオレも老人になることについて考えた

■いつもまでも若いと思うなよ/橋本治

いつまでも若いと思うなよ (新潮新書)

若さにしがみつき、老いはいつも他人事。どうして日本人は年を取るのが下手になったのだろうか――。バブル時の借金にあえぎ、過労で倒れて入院、数万人に 一人の難病患者となった作家が、自らの「貧・病・老」を赤裸々に綴りながら、「老い」に馴れるためのヒントを伝授する。「楽な人生を送れば長生きする」「新しいことは知らなくて当然」「貧乏でも孤独でもいい」など、読めば肩の力が抜ける、老若男女のための年寄り入門。

橋本治の『いつまでも若いと思うなよ』を読んだ

橋本さんが亡くなって「この機会にまだ未読の橋本さんの本なにか読んでみるべか」と思い、アマゾンで何冊かまとめ買いしたのである。この『いつまでも若いと思うなよ』はその中の一冊で、オレももう若くないから丁度いいかも、と思ったのだ。

紹介文に「どうして日本人は年を取るのが下手になったのだろうか」などと主語の大きな惹句が書かれているが、まあそういった側面も無いことも無いのだが、基本は90年代以降の橋本さんの自叙伝的な内容だと思ったほうがいいかもしれない。

自らが老いてゆく過程とそのとき思ったことを書き記すことで、まだまだ自分を若いと思い込みながらも宿命的に老いざるをえない若い世代になにがしか参考になればと思って書かれたのがこの本なのだろう。だから何かの論旨が述べられてるようなコーショーなものを期待しちゃダメで、むしろ橋本ファンがしみじみと読むような内容のような気がする。

■90年代以降の橋本さんの自叙伝的内容

「90年代以降の橋本さんの自叙伝的」と書いたが、これはまず橋本さんがバブル期にうっかり1億6千万だかのマンション物件を買ってしまったことから始まる。これの月々の払いが150万円X30年、50万X4年ということらしく、まあ橋本さんが印税でどんだけ稼いでたのかは知らないが、やはり馬車馬の如く執筆活動を続けなければならなくなったのらしい。

で、多忙極まりないまま60歳にもなった頃に身体の不調で病院に行ったら今度は「数万人に一人の難病」であることが発覚。過労もあったのか他にもあちこちに併発症が出て、どう考えたって身体はガタガタ。入院は数ヶ月に及んだというからこれは普通に重篤な症状だろう。でも借金返さなきゃならないから指先が痺れてるのに病室で万年筆握って原稿用紙を埋めてたという。結構昔から橋本さんの本はよく読んでいたが、新刊の空白期間があって、それがこの時期だったのだろうけれど、オレは全然知らなかった。

原稿自体は2014年に執筆連載されたもので、それに終章の書下ろしを加えて2015年に刊行されたのがこの本ということになる。その4年後、2019年に橋本さんは亡くなるわけだが、この本を読むと、どう考えたって橋本さんは過労と借金苦で亡くなったとしか思えないんだよな。いみじくもその終章のタイトルは「ちょっとだけ『死』を考える」だった。

とはいえブラック企業のサラリーマンでもあるまいし、病気でも仕事を止めなかったのは、借金があるからというのもあるが同時にそれだけ執筆意欲もあった、頭に書くべきことが溢れてた、ということでもあったんだろう。仕事、好きだったんだよ。書くことが好きだったんだ。「過労と借金苦」とは書いたけど、同時に「執筆家という職業に殉じた」ということもできるかもしれないんだよね。オレは執筆家でもなんでもないからそれの良し悪しはわかんないけどさ。

■そしてオレももはや若くないのであった

そんなオレといえば、現在56歳で、今年は57になる。いやー、もうすっかりジジイですよ。ジジイだし、サラリーマン的に定年間近ということであり、さらに定年後の自分の人生を考えなきゃならないということでもある。

オレは以前から「若く見える」なんて言われててさ、割とそれが嬉しかったりしたもんだが、50過ぎてから「いやちょっと待てよ、調子に乗って若ぶるのは危険だぞ」と思い始めるようになった。「自分が若い」と思うことで、実際はどんどん年を取っているにもかかわらず、「若い連中と同じように仕事が出来て生活も送れる」なんて思い込むのは危ないんじゃないか、と思えてきたんだよ。

それは「まだ若い」から「若いヤツと同じような無理が出来る」と思い込んじゃうことの危険さだ。実際、身体のあちこちにガタがきているのは自覚していたけど、「いやまだまだイケる」と思うのは大間違いなんだ。ガタがきてるんだから「若いヤツと同じ」な訳は無いんだよ。そしてそれは仕事だけではなく、生活習慣のことでもある。「生活習慣病」ってあるじゃないですか。あれって、「自分は若いときと一緒」と思って無理や負担を身体に課すからなるもんじゃないかと思うんですよ。

それに気付いてからオレは職場ではなるべく年寄りアピールしはじめるようになった。それに実際、疲れやすくなってきててて、以前より無理が利かないし、残業が続くと相当ヘタるようになっていた。だから現実の姿を示しただけなんだが、まあ職場の皆も理解してくれているように思える。大事なのは今の健康で、今の健康が無いと将来も判んないじゃないか。

■ちょっと社会の話になっちゃうのだった

それとさ。年取った人間は、基本、どんどん無能になってゆくよ。これはどんな仕事の出来る人間でも間違いなくいつか到達することだ。ボケとかそういうことじゃなく頭も働かなくなってくるし、新しい案件には容易に適応できないし、当然スタミナはジリ貧だし、併せて性格はどんどん頑迷になってくし、だから「シルバー世代を生かしてバリバリ働いてもらおう!」なんて幻想というか妄想というか戯言でしかないと思ってる。働かせても、たいしたことできないんだよ。

で、ちょっと社会の話になっちゃうけど、そういった「どうせたいしたことのできない年寄り」がきちんと引退して生活できる世の中のほうが正しいとどう考えても思っちゃうんだ。「働けないから社会にはいらない人間」ってェのは、多分に【会社経営的】な話でさ、確かに「会社」には仕事の出来ない人間は要らないだろうけど、「社会」は「会社」じゃないんだよ。そういった「働けない人」をどう人間らしく生活させるのかが「社会」の在り方じゃないか。それは年寄りだけじゃなく、低所得者障碍者も一緒だ。こういった部分でケアできる社会のほうが全然健全じゃないかと思うんだけどな。

いつまでも若いと思うなよ (新潮新書)

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ヴァーチャル世界を描く旧西ドイツのSF映画作品『あやつり糸の世界』

■あやつり糸の世界 (監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 1973年西ドイツ映画

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■『あやつり糸の世界』

「1973年旧西ドイツ製作、『マトリックス』や『インセプション』に先駆けたヴァーチャル多層世界を描くSF映画」という触れ込みの作品『あやつり糸の世界』を観た。

監督はニュージャーマンシネマの鬼才ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー。とかなんとかコピペしつつ、オレは「ニュージャーマンシネマ」とは何かまるで知らないし、ライナー・ベルナー・ファスビンダー監督作品もこれまで一作も観たことがなく、この監督がどう鬼才なのかも分かってない。ただ「ちょっとカルトっぽいヨーロッパの古いSF映画である」というただ一点が気になって観てみようと思ったのだ。

物語の舞台は近未来のドイツ。そこにある「未来予測研究所」なる機関がサイバースペースに現実とよく似た仮想現実を作り、そこに住む1万人の仮想人格の動向を解析することで政治経済の未来を予測しようとしていた。しかし開発者であり研究主任でもあるフォルマーが怪死、主人公シュティラーはその後任となるが、度重なる奇妙な出来事に遭遇することになる。真相を追うシュティラーは、もう一つ高次元に本当の現実世界があり、自分の存在するこの世界もまた仮想現実であることを知ってしまうのだ。

■世界は虚構か現実か

「この世界は現実ではなく虚構ではないのか」という感覚はだれしも抱いたことがあるのではないだろうか。フィクション世界でも前述の『マトリックス』『インセプション』をはじめさまざまな作品の題材として取り上げられているが、この『あやつり糸の世界』では1973年に既にコンピューターによるヴァーチャル・リアリティ世界を取り上げた映画作品である部分で画期的だと言えるかもしれない。

この映画にはダニエル・F・ガロイのSF小説『模造世界』という原作があり、発表が1964年とこれも古い。同時代のSF作家にあのフィリップ・K・ディックがおり、ディックもまた「この世界は虚構か現実か」という作品を多く物していた。電脳仮想世界というと現代的だが、根底にあるのは認識論であったり心理学や精神病理学的な側面だろう。世界にリアリティを感じることの出来ないという感覚は慢性的になると離人症や現実感消失障害という精神疾患に繋がる。今目の前にあるものは現実ではない。では「本当の現実」はどこにあるのだろう?

■分断された世界

映画という形で紹介されているが、この『あやつり糸の世界』は実際はTV番組として企画され放映された作品である。作品は2部構成となっており、それぞれを足すと上映時間は212分、優に3時間半あまりある作品となっている。第1部はミステリータッチで進行し、第2部は逃走劇として展開しメリハリがついている。ただやはり3時間半は長い。構成は密であり無駄を感じさせないが、単なるSFサスペンスとして観ようとすると冗漫で理屈っぽく、娯楽性の乏しい退屈な作品に思えてしまう。むしろこれはひとつの不条理劇として観るべきだろう。

1973年、東西に分断されたドイツという国で製作された作品だという事を考えると、これは東西ドイツという政治的不条理を描いたものと見る事もできる。多重世界というテーマはまさに東西に分断されたドイツであるし、現実世界と仮想世界とでアイデンティティを引き裂かれる主人公の姿はそのまま東西ドイツ国民のアイデンティティに繋がるだろう。人間消失、さらにその人間のデータすら消失する映画世界の内容は秘匿と情報改竄と疑心暗鬼の横行する当時の政治的暗部をうかがわせはしないか。

こういったテーマの在り方とは別に目を引くのは鏡やガラスを利用した奇妙な撮影と美術の在り方であったり、必要以上に妖艶な女優であったり(関係ないが主演女優の一人バーバラ・ヴァレンテインはかつてフレディー・マーキュリーの恋人であったという)、時折噎せ返るように噴出する頽廃の匂いだったりする。室内プールに立ち尽くす人々はアラン・レネ監督作品『去年マリエンバートで』を思い起こさせ、リリー・マルレーンが歌われるステージ・シーンはアンニュイさ満ちている。白塗りの男たちが時折現れ無表情に消えてゆく幾つかのシーンも異様でありデカダンだ。これら頽廃性は物語とその描く世界の閉塞感を一層引き立てることになるのだ。

■『13F』

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実は『あやつり糸の世界』と同じ『模造世界』を原作にしたSF映画が存在している。それはローランド・エメリッヒ製作、ジョセフ・ラスナック監督による1999年アメリカ公開作品『13F』だ。

物語のアウトラインは同様だが、仮想現実世界として1937年の”古き善き”ロサンゼルスを舞台としており、大掛かりなセットを使用したこの仮想のロサンゼルスがひとつの見所だろう。物語は殺人犯に疑われた主人公の真相解明のためのミステリー仕立てとなっており、アクションやロマンスも盛り込まれた娯楽作品として仕上がっている。

例えば週末ビール片手に観るのであれば『あやつり糸の世界』よりも『13F』のほうをお勧めするし、一般に受け入れやすい作品という事もできるだろう。ただし今観るならやはり多少地味で古臭いし、B級臭も否めない。ハッピーエンドのラストも予定調和的だ。そこそこ楽しめはすれ、次の日には忘れているような作品ではある。

こうして二つの作品を並べてみると、お気軽な娯楽作に徹した『13F』と比べ、『あやつり糸の世界』はどこか妙に引っ掛かり脳裏に澱の様に残ってしまう癖の強さがある。これはファスビンダーという監督の監督主義的な作品だからなのだろうし、不条理劇的な側面のせいでもあるのだろう。映画『あやつり糸の世界』は万人に勧めたい作品とは思わないが、これもSF映画ファンであれば頭の隅にちょっとだけ入れておいてもいい作品かも知れない。


『あやつり糸の世界』予告

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粛清!粛清!また粛清!/映画『スターリンの葬送狂騒曲』

スターリンの葬送狂騒曲 (監督アーマンド・イアヌッチ 2017年イギリス・フランス映画)

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いやー【粛清】、コワイ言葉っすよねー。専制的な独裁国家がたてつく連中を芝刈り機で芝刈り取るみたいに右から左へ大量に逮捕!監禁!暴行!殺戮!しちゃうってェんですからね。歴史上幾多の粛清が行われ幾多の惨たらしい行状が成され幾多の命が奪われたのか、考えただけで具合が悪くなってきそうです。この文章書く前にちょいと粛清の歴史を調べようとWikipedia先生のページに行ったんですが、どうにも膨大過ぎてその血生臭さに怖気立ち途中で見るの止めたぐらいです。

そして!粛清と言えばこの人、その悪逆非道さで人類史に名を残すヨシフ・スターリンさんでありましょう。なんたってアナタ、この人のやった粛清はとんでもなく大規模過ぎて単なる粛清じゃなく【大粛清】と特別に名前が付いているぐらいなんですよ。スターリンさんと配下の秘密警察による大粛清で殺害された人の数は100万人とも言われ、さらに強制収容所や農業政策の失敗で死亡した人が2000万人、第2次大戦の戦死者まで入れたらスターリン体制化の死者は1億1000万人になっちゃうなんて計算もあるらしいですね。これが日本だったら人口が空っぽになっちゃう数ですが、実際当時のソ連の人口統計を見ても気持ちの悪いくらい人間の数が減っているのだそうです。

そしてこんな【恐怖の大魔王】みたいなスターリンさんが死んじゃった!?おいおいどうしたらいいんだ!?と側近連中が上を下への大騒ぎを演じちゃう、という史実をもとにしたブラック・コメディ作品がこの『スターリンの葬送狂騒曲』なんですね。主演はスティーブ・ブシェミ、サイモン・ラッセル・ビール、オルガ・キュリレンコ、ジェフリー・タンバー。この作品、あまりにブラック過ぎてお膝元であるロシアでは上映禁止になったという話があるぐらいですが、製作はイギリスとフランスになっています。原作は ファビアン・ニュリとティエリ・ロビンによる同タイトルのグラフィック・ノベル作品。

お話はまず今日も粛清し放題でルンルン状態のスターリンさんと逮捕監禁拷問虐殺をスキップ踏みながらやってのける(まあ映画ではスキップしてませんが)秘密警察の皆さん、そしてそのスターリンに怯え毎日を戦々恐々として過ごす国民たちとが描かれます。しかーし!そんなある日スターリンさんは自室で脳卒中を起こしぶっ倒れちゃうんですね!

部屋の前で警備していた兵士たちは「なんか今(ぶっ倒れたような)変な音しなかった?」と気付きますがスターリンさんの邪魔しちゃあ処刑されるってんで部屋を見もしません。翌朝メイドのおばさんが小便垂らして昏睡してるスターリンを見つけソビエト連邦共産党の幹部たちが集まってきますが、「とりあえず医者呼ばなきゃ」と思うものの、有能な医者は全員粛清しちゃってるから医者を呼ぶことができないんです(これ、ネタじゃなくて実話)!そしてあれよあれよという間にスターリンさんは死んじゃいます。

スターリンの死の床に集まった幹部の名はフルシチョフスティーブ・ブシェミ)、ベリヤ(サイモン・ラッセル・ビール)、マレンコフ(ジェフリー・タンバー)、モロトフマイケル・ペイリン)、ミコヤン(ポール・ホワイトハウス)。彼らは絶対的独裁者の死を悲しむのと同時に、これからの政権争いを胸中で画策しながら、お互い虚々実々の駆け引きを開始するんですよ。

一応主演となるのは後にソ連の政権を握ることになるフルシチョフ党書記を演じるスティーブ・ブシェミなんですが、あの情けない骸骨顔にさらにつるっぱげメイクをして登場してくるので見た目のセコさもひとしおです。そして主人公とは言えなにしろフルシチョフ、政敵を蹴落とそうとあの手この手のエグイ手段を使って事態を掌握しようとする食えないヤツなんです。

その政敵というのが第一副首相ベリヤ。このベリヤさん、スターリン大粛清の主要な執行者だった人なんですね!テキパキと大量殺戮の陣頭指揮を執っていた忠誠心篤いベリヤさんですが、スターリンが死んじゃった途端に「粛清止めよう」と脱スターリン化を図るんですから歴史とか人間とかホント不思議なものです。一応スターリン死後の最高責任者となったのはマレンコフ首相なんですが、こいつがハリボテみたいな木偶の坊でいつも右往左往ばかりしており、実質的にはベリヤさんが最高責任者として動いていたんですね。

あとまあ他の幹部もあれこれいますが、どれも「勝ち馬に乗ろう」と虎視眈々としている「洞ヶ峠」な日和見主義者ばかり、フルシチョフが優勢と見るとわっとベリヤを裏切り糾弾に走る様は理想も信念も無く、ただ保身と既得権益をひたすら手放すまいとするだけの愚鈍な政治家ぶりをみせてくれます。

こういったスターリン政権時代のおぞましさ、その死後の幹部たちの醜い政権争いの様子を、スターリンの葬儀を中心としてスラップスティックに描いたのがこの『スターリンの葬送狂騒曲』となるわけです。リアルに描こうとするなら相当血生臭く陰鬱極まりないものになるだろう所を、イギリス人監督がイギリスらしいブラックさとクレイジーさで描いた所に面白さがありましたね。同じく実在の独裁者を主人公に据えた『帰って来たヒトラー』という映画もこれまたブラックでオレはたいそう好きなんですが、『帰って来たヒトラー』が歪んだヒトラーの目から歪んだ現実を炙り出していたように、この『スターリン~』は旧ソ連の醜い政権争いを通じて現代の政治世界に跋扈する魑魅魍魎たちの愚劣ぶりを嘲笑おうとする作品の様に思えました。


『スターリンの葬送狂騒曲』予告編

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