岡本太郎の沖縄

岡本太郎の沖縄

岡本太郎の沖縄

芸術家・岡本太郎はよく知られる彫刻などの作品のほかに大量の写真を撮っていたのだという。生前はそれを作品として発表することを拒んでいたということだが、それは岡本が自身の撮った写真を”作品”としてではなく自らのイマジネーションの源泉として捉えていたからなのだろう。彼の死後その写真の幾つかが写真集として出版されたが、この『岡本太郎の沖縄』はそのひとつである。写真は1960年代前後の沖縄の、そこで生活する人々の姿が主に納められている。それは写真として収まりのいい風光明媚な風景や文化財などではなく、あくまで生々しい人の生きる様が中心であり、岡本の興味とするところが何処にあったのか伺えるだろう。当時岡本は日本文化というものに幻滅していたという記述もあり、その彼にとって沖縄の人々の暮らしぶりは外来文化に侵されない原初的なものを感じたということであるらしいが、60年代前後というと沖縄返還前であり、当時はまだアメリカの統治下にあったはずであるが、そういったイデオロギッシュな意味での文化の捻れには特に興味を示すわけではなく、岡本の関心はあくまで古来からある土着的なものであったようだ。彼が著した『沖縄文化論』を読んだわけではないからなんとも言えないのだが、結果的にこの写真集は芸術家としての無邪気さやイノセンスを感じさせるものとなっている。
それにしても写真には驚くほど老婆のポートレイトが多い。それも自然の風雨に年輪を刻まれたような皺だらけで化石みたいなお婆ちゃんばかりである。それは美しい、というよりも何か生そのものの残酷さとか凄みのようなものを感じる。そしてひどく貧しさを感じさせるバラックが続く町並み。これにもひなびた叙情や雑草のような逞しい生活観を滲ませる訳でもなく、ただそうである、といった情景を切り取ったもののように見えた。このように岡本は写真に情緒を織り交ぜない。彫刻家がこれから自らが刻む石を見つめるように、そこにはあるがままの姿があるだけであり、そこから何を生み出すかというイマジネーションはまだ作家自身の体内に宿っているのだ。そういった意味で先に書いたようにこれは岡本のイマジネーションの素材そのものであり、あくまで個人的な写真であり、むしろ芸術家・岡本太郎を読み解くテキストとして機能しているのではないか。
それと同時にここにある風景はオレにはひどく懐かしいもののように感じた。オレは沖縄には何も縁はない北海道出身の人間だが、ここに暮らす人たちのように特に求心的な文化の存在しない(要するに田舎ということだ)漁業を生業とする貧しい町で育った。風土の違いこそあるにせよ、町の空気や人々の生活感にはどこか似通ったものを感じてしまった。それはどこか既視感さえ憶えるほどだ。勿論それも遠い過去の話ではあるが。
タマさんの紹介で興味を持ち手にしてみました。調べたらSIMさん も以前日記で取り上げていたようです。)
沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)

沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)