カート・ヴォネガット氏死去

タイタンの妖女』、『スローターハウス5』などの作品で知られ、アメリカ現代文学を代表する作家のカート・ヴォネガット氏が4月11日に亡くなられたのらしい。享年84歳。
オレは人の生き死にというのにあまり驚かないほうで、それは人は基本的に死ぬものだと思っているからだ。死に方も死ぬ時期も選べはしない。若くして逝去される方はとても残念だとは思うが、では年寄りならいいというわけではない。事件や事故で亡くなられる方はさぞや無念かとは思うが、では病死ならいいというわけでない。死は死である。そして死んでしまえば残念も無念も本人にはありはしない。それは残されたものの感情だ。そして死を思うことというのは生を思う事であるのだろう。誰かの死を思うということは、その人間の生を思うことであり、そこから自らの生を翻り、自らの死を思えばいいのだと思う。
カート・ヴォネガットはオレの青年期の読書の中で最も重要な作家だった。とはいっても、マンガとSF小説しか読まないようなガキだったから、偉そうな言い方は出来ないのだが。ただ、カート・ヴォネガットの作品は、オレの貧しい読書体験の中でも特別に何かが違う作品であった事は確かだ。第二次世界大戦におけるドレスデン空襲を描いた『スローターハウス5』は、大量虐殺というあまりに陰惨な現実体験を、SFという御伽噺にしなければ描く事ができなかったという苦痛に満ちた物語だった。『タイタンの妖女』は人類の進化も歴史も文明も、全て無意味で無価値なものとして描く冷笑的で虚無的な物語であったが、にも拘らず作品全体に底流するからっけつの慈愛が奇妙に胸を打つ感動作だった。
ヴォネガットの作品は人間の愚かさと人生の無意味さを描きながら、それをギリギリの所で全否定出来ないなけなしの優しさを持っていた。現実は矛盾に満ち不条理で残酷だが、それでも人は生きなければならない。それも、決して絶望に堕ちることなく。それでは人は何に希望を見出せばいいのか。世界の滅亡を描いたSF作品『猫のゆりかご』という作品には、架空の宗教《ボコノン教》が現れ、「無害な非真実を信じなさい」と説く。これは”現実など信じるに値しない”と言っているのか。そして隠れボコノン教の信者となったオレは、それからずっと現実世界を虚仮にしながら愉快な非現実の世界で楽しく過ごすことに腹を決めている。これはニヒリズムなのかもしれない、しかしこの世界をタフに生き抜くためのニヒリズムなら、オレは堂々とやってのけたいと思っている。
ヴォネガットの言葉で一番好きなのは「愛は負けるが親切は勝つ」というものだ。オレはこれを、愛してくれる人はいなくとも、親切にしてくれる人は沢山いるじゃないか、だから寂しいとか言っちゃ駄目だよ、というふうに取ったよ。だからオレは寂しくはない。こんな風に奇妙にヴォネガットはオレの心の支えだった部分もあった。好きな作家だったのだけれども、自分の中であまりにも大きな存在であった為に、3年も続けてきたこの日記の中でさえ触れる事ができなかった。こうして書いていても、やっぱり巧くまとめられないや。
カート・ヴォネガットの著作は殆ど読んでいるのだけれど、何故か処女作の『プレイヤーピアノ』と最後の短編集『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』が読めていない。こうしてヴォネガットが逝ってしまった今、そろそろ全ての作品をコンプリートする時期が来たのかもしれない。しかし彼の作品で初めて感動したのが中学生の時だったから、月日が経つというのは本当に早いものだなあ…。

ミミズだってオケラだってアメンボだって(でもゴキは含まれない!)

土佐犬問題
12日のレイジーさんのコメントを受けまして。詳しく書くと例の土佐犬は別の犬の血もちょっと混じっているらしくて、売却に適さないような事も聞いたな。それにあの大きさだからね。保健所でも里親探しはやっているようだが、一般の人には洋犬のほうが人気がありそうだし、土佐犬は難しいだろうなあ。とか思って調べたら『土佐犬土佐闘犬)』は”明治時代に入ってから、闘犬の盛んな四国、土佐藩でその地の地犬(四国犬)を洋犬と交配したもの”ということらしくて、広義では『日本犬』であっても純粋な『和犬』ではないらしいんだね。また土佐闘犬闘犬の為だけに品種改良された為に通常考えられるような犬の特性を失っていて、2chなんかでは「獲物を捕まえる能力が無い。匂い追跡できない、走るの遅い、噛み付く素早さが無い=人間に食わせてもらえないとすぐ死ぬ駄犬 」なんて書き方もされていたな。まあオレがあの土佐犬をどうこうすることはできないが、こうしてちょっと土佐犬のことを知ってあげるのがせめてもの餞かな。
フェレット問題
動物の愛護及び管理に関する法律」というのは何か奇妙な気がして、それは”愛護”と”法律”がイメージ的に結びつかないからなんだよな。これは動物の命を守る法律というよりは占有物としての動物を名前通り”管理”する為の法律である事が第一義なんだろうとシロウト考えで思ってしまうな。当たり前の話だが法律は人間社会が円滑に存続する為のものでしょうから。(動物によっては「人が占有しているか否か」は問われずにこれを犯したものに罰則が適用される。)しかし法律の適用は哺乳類・鳥類・爬虫類までで、『両生類以下の脊椎動物並びに無脊椎動物には本法の適用はされない』ということらしくて、例えば人んちの金魚を殺しても『器物損壊罪までしか問うことが出来ない』ことになっているのだとか。つまり人の飼ってるヤモリ(爬虫類)ぶっ殺すのとイモリ(両生類)ぶっ殺すのでは法律の適用が違う!ということ。オレはここで別にカエルや金魚も動物愛護に適用しろ!などと言いたいのではなくて、例の事件はフェレットじゃなくてゴキブリあたりをぶっ叩いていればよかったんじゃねえの?と言いたかったのであった。しかしゴキブリぶっ叩くビデオをネットで流されてもやっぱりイヤだけどな!
■参考:Wikipedia『動物の愛護及び管理に関する法律』