崩壊したアメリカの大地を少女とロボットが往くグラフィック・ノベル『エレクトリック・ステイト』

■エレクトリック・ステイト/シモン・ストーレンハーグ

エレクトリック・ステイト  THE ELECTRIC STATE

1997年、無人機ドローンによる戦争で荒廃し、ニューロキャスターで接続された人びとの脳間意識によって未知なる段階に到達した世界が広がるアメリカ。10代の少女ミシェルと、おもちゃの黄色いロボット「スキップ」は、サンフランシスコ記念市の北、ポイント・リンデンのある家を目指し、西へとドライブする。  

アメリカの広大な原野と峡谷、そしてそれを切り裂く州間道路、その合間合間に点在する町々、モテル、電信柱。アメリカのどこの土地にでも遍在するこれら日常的な風景の中に、圧倒的なまでの非現実感を持って威容を見せる巨大で厳めしい謎の建造物、その建造物から触手の様に延びる無数のケーブル、そして二足歩行する畸形生物を思わせる巨大ドローン。さらによく目を凝らすと、地面にはヘッドアップディスプレイを被った無数の人々がゾンビの様に彷徨っている。

スウェーデンストックホルム出身のデジタルアーティスト、シモン・ストーレンハーグのグラフィック・ノベル『エレクトリック・ステイト』は、これら異形化したアメリカの光景を、フォトリアルな精緻なグラフィックでもって描き切る。

『エレクトリック・ステイト』の描くもう一つのアメリカはどことも知れぬ国家と行われたドローン戦争により荒廃し尽くされた世界だ。さらにヘッドアップディスプレイの形をした「ニューロキャスター」と呼ばれる精神接合マシーンに多くの人々が耽溺し、そこから抜け出せないまま生ける屍と化していた。アメリカの大地のそこここに置かれた巨大建造物とそこから延びたケーブルは、この「ニューロキャスター」のクライアントサーバシステムを構成するものなのだろう。そしてこの「ニューロキャスター」によって精神接合された人々の意識は、ひとつの集合意識と化そうとしていた。

物語は、この荒廃したアメリカを旅する一人の少女と一体のロボットとの道行きを描いたものとなる。少女はなぜ、どこに向かおうとしているのか、そしてこのロボットとはなんなのかが物語の鍵となる。描かれる物語はどこか断片的で抽象的であり、この世界で何が起こったのか、何が起こっているのかを具体的に説明するものではない。しかし具体性の無さは逆に謎めいた雰囲気を生み、それはテキストとグラフィックの双方から読者の想像力を持って補う形となるのだ。

ちなみにアマゾンのレビューで書かれているのだが訳文の在り方に明らかな間違いがあり、実はこのテキストは少女と謎の追跡者の二者の独白を交互に書き出してるものを少女一人の独白の形で訳出してしまっているのらしい。それは白地に黒のテキストと黒字に白抜きのテキストによって人物が別なのらしい。これから購入される方は注意されるといい。(訳者の山形浩生さんからコメントにてご指摘を頂き、自分としても迂闊な書き方だったと判断したのでこの部分は削除いたします。山形さんありがとうございました)

とはいえ、実の所これら物語よりも、グラフィックの圧倒的な説得力と不気味で禍々しい雰囲気とが牽引する作品であることは間違いない。見慣れた日常の光景の中に暴力的に挿入され全てを非現実化させる異質で異様な”何か”。この異様さこそがこの作品の魅力だ。

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エレクトリック・ステイト  THE ELECTRIC STATE

エレクトリック・ステイト THE ELECTRIC STATE

 

 

映画『メン・イン・ブラック:インターナショナル 』はやっぱりひたすらお気楽なB級SF作品だった

メン・イン・ブラック:インターナショナル (監督:F・ゲイリー・グレイ 2019年アメリカ映画)

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『M.I.B.(メン・イン・ブラック)』シリーズ第4弾『M.I.B.:インターナショナル』が公開されたというので観に行ったのだ。

シリーズは1作目が1997年公開(もう20年以上前じゃないか)、2作目が2002年公開、3作目が2012年公開。3作通してウィル・スミスとトミー・リー・ジョーンズが主演していたけどこの4作目ではこれを刷新し『マイティ・ソー』を始めとするMCUシリーズや『ゴースト・バスターズ(2016)』出演のクリス・ヘムズワースと、『クリード』シリーズや『アベンジャーズ/エンドゲーム』出演のテッサ・トンプソンの二人が主演を勤めている。あとリーアム・ニーソンやエマ・トンプソンも出演してるよ。

監督は『ストレイト・アウタ・コンプトン』『ワイルド・スピード ICE BRAKE』のF・ゲイリー・グレイ、脚本は『アイアンマン』『トランスフォーマー 最後の騎士王』のウォルター・F・パークス&ローリー・マクドナルドだ。まあ「揃えてきたな」って感じはするよね。

物語は特に改めて書くようなもんじゃない。異星人の地球侵略と戦うM.I.B.の皆さんの活躍をとぼけた雰囲気で描くといったいつものヤツだ。ユルいノリもいっしょ、M.I.B.基地やSFガジェットのレトロフューチャーなビジュアルもいっしょ、エイリアンの皆さんのふざけた容姿もいっしょ。

違うのは主演が「男女二人コンビの新キャラ」といった部分と多様なロケーション。今作ではこれまでアメリカが主要舞台だったものをイギリス・フランス・モロッコと世界各地を経巡ることになり、それでタイトルが「インターナショナル」ってことなんだろうね。それ以外に新しいものは何もない。永遠のマンネリズム。要するに「いつものM.I.B.です。安心して楽しんでください」と言ってるようなもんだ。だから「いつもと変わんないじゃないか」とクサすんじゃなくて「いつもといっしょで安心だー」とリラックスして観るべき作品なんだ。

だいたいこのシリーズには1作目からそれほど愛着は無いのだが、かといって悪し様に批評やら批判やらするようなシリーズでもなく、まあお気楽に作られている映画なんだから観るほうもお気楽に観りゃあいいんじゃないかと思うんだ。

なんていうか豪華料理のフルコースみたいな映画じゃなくちょっと小腹の空いた時に食べるファーストフードみたいな映画ね。しかし小腹の空いた時はファーストフードでもそれはそれで大切だし充分に役割を果たしていると思うんだよ。とはいえ作品的にギャラの高そうな有名俳優が出てたり制作費も結構な金額が掛かってたり世界興行成績ウン億!とか喧伝されたりするから一瞬豪華料理かと思わされ期待値も上がってしまうかもしれないけどそうじゃないんだ、これはちょっと宣伝費の掛かった誰もが目にしやすく手にしやすいファーストフードには変わりないんだ。

とはいえ、そんなこんなで特に期待せずに観に行ったわけなんだが、実はあろうことか、オレはこれまでのシリーズで一番楽しんで観てしまった。

例のいつもの「M.I.B.基地やSFガジェットのレトロフューチャーなビジュアル」や「エイリアンの皆さんのふざけた容姿」も、お馴染みの「判で押したような黒眼鏡黒スーツ」も、一周回ってとても楽しかったんだ。久しぶりのシリーズ作だったんで、前作までのノリを忘れていた、だからなんだか新鮮に目に映った、というのもあるかもしれない(オレもトシなんで忘れっぽいんだよ)。

それとやっぱり、クリス・ヘムズワーステッサ・トンプソンの新キャラ男女コンビが普通に新鮮だった。実のところこれまでの『M.I.B.』って、良くも悪くもウィル・スミスの「俺様映画」で、そんなウィル・スミスのキャラでなんだかゴージャスな作品と勘違いさせられていたけど、結構なハリボテ感もしていたんだよね。しかしそのウィル・スミスがいなくなったお陰で「チープな古典B級SF映画設定を逆手に取って現代風にアレンジしたお気楽B級SF映画」といった物語本来の味わいが生かされていたんじゃないかとオレなんかは思うんだよね。

それと併せ、オレはクリヘムの「バカっぽいイイ男」っぷりが好きで、それは例のMCU諸作や『ゴーストバスターズ(2016)』で存分に生かされてたけど、本作でもその辺が踏襲されていて、しみじみとクリヘムの「バカっぽいイイ男」っぷりを堪能出来たんだよな。そしてそんなクリヘムのバカをきちんとフォローするテッサ・トンプソンの几帳面さやチャーミングさがオレには心地よかったんだよ。物語もさあ、「いつも通り」とは言いつつ、「インターナショナル」にすることによって、ちょっとしたスパイ娯楽作品の雰囲気を出せていたんじゃないかな。

そんな訳で、オレはこの作品、好きだね。まあ3日もしたら忘れてしまいそうなセンスの映画ではあるけど、「観終わった後に何も残らない」程度の面白さのあり方ってェのも、実は逆に娯楽作品としては重要なものなんじゃないかと思えるんだけどね。


映画『メン・イン・ブラック:インターナショナル』予告編

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地獄で生きるということ/映画『暁に祈れ』

■暁に祈れ (監督:ジャン=ステファーヌ・ソヴェール 2018年アメリカ・イギリス・フランス・中国映画)

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なんだかとんでもなく物凄い映画を観てしまったのでざっくり紹介したい。タイトルは『暁に祈れ』、米英中仏合作のドラマだ。

どんなとっかかりでこの作品のDVDをレンタルしたのかがまるで思い出せない。なにやらシリアスなボクシング映画のようなのだが、そもそもオレはボクシング映画には興味がない(ただし正確にはこの映画はムエタイの映画)。でもまあ借りたので一応観とくべえか、と再生し始めたら、うわわわわ、なんだこの世界は!?と度肝を抜かれ腰を抜かしおしっこもちょびっと洩らしたオレがそこにいたのである。

舞台はタイの刑務所。麻薬所持により逮捕されたイギリス人ボクサー、ビリーはこの刑務所に収監されることとなる。そしてそこでビリーが目にする事になったのは、右を見ても左を見ても誰も彼もが全身にも顔にも刺青をしたタイ人囚人の群れだったのだ!

そう、この映画、出て来る囚人がほぼ全員「絵人間」という、とんでもないビジュアルの作品だったのだ!おまけに、顔付や行動がもう、全然真っ当な人間じゃない。アブナイ。限りなくアブナイ雰囲気満載の皆さんではないか。で、後で調べたら、この「絵人間」の皆さん、全員本物の元罪人で、当然「刺青」も全部モノホン、さらに舞台の刑務所までがホンモノだった!?という凄まじくリアルの塊の映画だったんですね!?

いやもうなにしろ刑務所なもんだから常に50人から100人にのぼる囚人たちが画面に映し出されるのだが、くどいようだがこの全員が全身刺青、というビジュアルは、もう異様過ぎて異質過ぎて、こんな世界がこの世にある、という事実に怖気立ってしまったのである。

おまけに刑務所あるあるの新参者いじめ、さらに集団アナル強姦、突発的に起こる暴力行為、威嚇と脅迫がビリーを襲う訳だが、これだけでも嫌になるぐらい怖いのに、さらに怖いのは、ここが異国で、言葉がまるで通じない、相手が何を考えてるのか分からない、おまけに果てしなく暗く不潔な刑務所で、いつまでの刑期なのか全く描かれる事がないという、もう恐怖と絶望しかない【地獄】が口を開けている、ということなのだ。

刑務所を舞台にした映画は多いが、異国で刑務所に入れられる恐怖、というとアラン・パーカー監督の『ミッドナイト・エクスプレス』が印象深かったし、絶望的な刑務所生活を描く作品としてはマヌエル・プイグ原作の『蜘蛛女のキス』という大傑作が存在する。『暁に祈れ』を観てまず連想したのはこの2作品だが、『暁に祈れ』がこれらの作品と全く違うのは、主人公の内省が全く描かれない、という部分、出所やら脱獄やらの形で外の世界に出たい、という主人公の願望すら描かれない、という部分だ。脱獄映画『パピヨン』のように自由を求めて戦い抜く物語では決して無いのだ。即ち、この作品は、地獄にいて、地獄で生きる事、そこのみに焦点を当てた物語なのだ。

この物語は実話であり、後に出所することになったビリー・ムーアの自伝小説を映画化したものなのだそうだが、ここまで徹底的に「地獄での生」のみを切り取ったこの映画は、それによりどこか抽象的な寓話にすら思えてくる。それは、「地獄でしかない逃れられない生をどう生きるのか」ということだ。

絶望の底にまで落とされたビリーはある日ボクサーのキャリアを生かし刑務所のムエタイクラブに入ることになる。厳しいトレーニングを経て強くなってゆくビリーは周囲の囚人たちから信望を得、次第に受け入れられてゆく。この映画の中盤にあたる部分で、ビリーはやっと笑顔を見せる。また、同じ受刑者であるレディーボーイ(タイでは割とお馴染みの性転換者)とのロマンスも描かれはする。ムエタイ試合への挑戦は希望の糧となり、ロマンスは心を癒してくれる。だがしかしだ、ここで注意したいのは、だからといってここが地獄であることには変わりないのである。

「地獄も住み処」という諺があって、これは「地獄のようなひどい所でも慣れれば住み心地がよくなるということ、住めば都」という意味なのだが、逆に言うなら、地獄すらも住み処にしてしまうということ、地獄しか生きる場所が無いのならそこで生きる術を探すしかない、ということでもあるのだろう。

幸いにしてオレは今地獄の中にいるような人生を生きてはいないが、その昔ちょっとかすってしまったことがあるのは確かだ。将来だって分かりゃあしないしな。そして実際今地獄の様な人生を歩んでいる人がこの世には幾人もいるのだろうとは思う。映画『暁に祈れ』はそのような人生を生きる人になんら希望をもたらすものではない。なぜならこれは希望についての物語ではないからだ。しかし、人は時として、地獄でも絶望の中でも生きてしまえること、「地獄も住み処」になってしまうことがある。映画『暁に祈れ』は、その得体の知れない生命力の在り方を描いた部分で、異様な感慨を抱かせる作品であった。

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アストリアス『大統領閣下/グアテマラ伝説集』を読んだ(ラテンアメリカ文学)

■大統領閣下 グアテマラ伝説集/アストリアス

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先日読んだイサベル・アジェンデの『精霊たちの家』がたいそう面白かったのでもう少しラテンアメリカ文学を読んでみるべえかと思い手にしたのがグアテマラの作家、ミゲル・アンヘル・アストリアスによる『大統領閣下/グアテマラ伝説集』。集英社ラテンアメリカの文学」第2巻として刊行されたもので長編『大統領閣下』と短編集『グアテマラ伝説集』の二つが収録されている。

ちなみに集英社ラテンアメリカの文学」は1975~1983年に全18巻で販売された全集で、結構な名作が集められている。オレが読んだこのアストリアス作品は8年ほど前に古本で購入し、例によって永らく積読していたものだ。どうやら『精霊たちの家』と同じ時期に購入したらしく、あの当時何かの理由でラテンアメリカ文学フィーバーがオレの中に訪れていたのだろう。この作品自体はどこからも復刊されておらず、現在古本は結構な高値で取引されてるようだ。

物語はラテンアメリカのある国の恐怖政治を描いたものだ。物語冒頭で、ある大佐が狂犬病の乞食に殺害される事件が起き、大統領がこの事件を利用して自らと政治的対立にある軍人、カナレス将軍に罪をなすりつけ抹殺しようとするのが最初のあらましである。そんな中主人公である大統領側近ミゲル・カラ・デ・アンヘルは人間的良心からカナレス将軍を救うことを決意し、さらに将軍の娘カミラに恋してしまう。しかし秘密警察はカナレス将軍亡命計画を察知し、次第にアンヘルへの包囲網が狭まってゆくのだ。

作品内では言及されないがこの「ある国」とはアストリアスが生まれたグアテマラのことであり、作中の恐怖政治とは1898年から1920年まで22年間続いたマヌエル・エストラーダ・カブレーラ大統領独裁政権を指したものだ。アストリアスはこの作品をカブレーラ大統領失脚後10年の歳月を掛けて書き上げたという。しかし大統領失脚後も政情不安と社会的荒廃は続き、グアテマラにようやく春が訪れるのは1944年のことになる。

というのが長編『大統領閣下』の粗筋と背景なのだが、実際のところ、読んでいて少々キツかった。まず訳文のせいなのか10年に渡る推敲が裏目に出たのか、文書のトーンが一致せず、読んでいて戸惑わされるのだ。

独裁政権がもたらす不条理な逮捕・投獄・拷問の生々しい恐怖、将軍亡命の為に命を掛けた綱渡りを演じるアンヘルの緊張感、これらは「ラテンアメリカ独裁政権小説」とも呼ぶべき政治小説的な側面として迫真的だ。他方、要所要所で挿入されるマジックリアリズム的な幻惑性に満ちた文章は登場人物たちの揺れ動く感情の様を描き出す。同時に、貧困と無知に塗れた庶民たちの肥溜めのような生活振りを描く場面はどうにもグロテスクで嫌悪感を催させる。

これらが渾然一体となりラテンアメリカの熾烈な現実とそこに陰鬱な幻想性を持ち込んだことが小説『大統領閣下』をラテンアメリカ十大小説とまで呼ばせるまでにしたのだろう。とはいえオレ個人としてはそれぞれの描写が水と油のようにちぐはぐに感じてしまい、読んでいてリズムというかテンポを乱されてしまうのだ。ガチガチなリアリズムに固められた描写の後にポエティックで非現実的な文章が入り、その後下品な連中が馬鹿騒ぎを始め、どうもこういう断章化された構成が煩雑で落ち着かない読書にさせてしまう。

それと併せ、物語の息苦しいばかりの救いの無さと絶望感もちょっと苦手に感じた。もちろん恐怖政治を描いたからにはそこに恐怖と絶望しかないのも理解は出来るが、「それだけ」ってぇのもちょっとキツかあないか。そして物語だけ取り出すなら「それだけ」の小説だしな。あとあまりにも下劣な登場人物ばかりなのもげんなりさせられたなあ。それが当時のありのままの社会の様子だったって言われりゃそれまでなんだがな。

なお同時収録の『グアテマラ伝説集』については以前個別にまとめられた書籍を読んでたので割愛。感想はこちら。こっちの短編集のほうも読んでて戸惑ったみたい。 

大統領閣下 (ラテンアメリカの文学 (2))

大統領閣下 (ラテンアメリカの文学 (2))

 

つれづれゲーム日記:『Titan Quest(タイタンクエスト)』の巻

■Titan Quest(タイタンクエスト)(PS4/Xbox One/Nintendo Switch/PC)

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ハクスラが欲しいか」ある夜オレが惰眠をむさぼる布団の枕元にゲームの神が降りてきてこう言ったのである。寝惚け眼でオレは答えた。「ハクスラっすか。いいっすねえ。アレとかコレとかソレとかゲーム積みまくって全然クリアしてないけどなんかいいハクスラゲーあるんっすかムニャムニャ」。ゲームの神は言った。「そのタイトルは『タイタンクエスト』。2006年にPCで発売されたハクスラゲーの10周年記念リニューアル版じゃ。そなたも昔PCでやった覚えがあるじゃろ」。

おお『タイタンクエスト』。ハクスラゲーの金字塔『Diablo2』発売後、しばらくこのジャンルが枯渇していたときに現れたハクスラ中毒者の救いの神の如きゲームである。『Diablo』シリーズが剣と魔法の中世暗黒時代を舞台としているのと比べ、この『タイタンクエスト』は古代ギリシア古代エジプトなどを舞台にしており差別化が計られている。ただしこの時はPC/英語版のみの発売だった。ゲームの神は続けた。「そう、その『タイタンクエスト』がリニューアルされコンシューマーゲーム版として去年発売されておるのじゃ。今回も日本発売は無く輸入盤購入となるが案ずる必要は無い。輸入盤ではあるがきちんと日本語対応しておるのじゃ。輸入盤の映画ブルーレイなんぞでもこういった対応のものが多くあるのう。そういった訳なので安心してポチるがよい」「え?あ、くれるんじゃなくてやっぱ買うんっすか」「安心せよ、アマゾンならXboxOne版は今ならなんとたいへんお安い¥1999じゃ。お徳じゃろ?」「はあ」「ではさらばじゃ!have a nice game!」……こうしてあっけにとられているうちにゲームの神様はオレの寝室から消えたのである。というかあれはアマゾンから来た工作員だったのではないのか?

というわけでゲームの神様(ないしはアマゾンの工作員)の薦めもあり『タイタンクエスト』のXboxOne版を購入し早速プレイしてみた。始めると最初のムービーこそ字幕は付かなかったがゲームそれ自体には確かに字幕が付いている。ただしウインドゥが小さくて見難いかな……あとインベントリ画面ではアイテムの上に説明文が重なるのでちょっと不便だ(キー操作で消せるが)。ゲーム本編も元が2006年のゲームであることと、序盤が荒地や草原ばかり歩きまわされること、モンスターが神話伝説を元にしたものが多いことなどから見た目に新鮮味が無くなんとなく地味である。ゲームの雰囲気もどことなくのどかでおどろおどろしさが希薄だ。

それとこれも序盤だからなのだが、アイテムを多く持てないのが難儀だ。ハクスラはモンスターをぶっ殺して落としたアイテムを奪ってそれを装備したり売ったりしてナンボのゲームジャンルでもあるのだが、アイテム袋がすぐ一杯になってしまうので落ちているアイテムを全部拾えないのである。ではどうすればいいかというと街に戻ってアイテムを売りさばくか、安っぽそうなアイテムは拾わない:持っていたら捨てる、ということをすればいいのだが、根が貧乏性で出来ているオレは落ちているアイテムは勿体ないから全部拾わなきゃ気が済まないのである。

という訳でモンスターを倒した後二束三文にしかならないアイテムをちまちま拾っては袋が一杯になったらポータルで街に戻りそれをまたちまちま売りさばく、ということを延々繰り返している。おかげでストーリーが全然進まないのだが、落ちているアイテムを見るともう矢も楯もたまらず拾わずにはいられない。街とフィールドを頻繁に行き来するのは煩雑で面倒臭いんだが、それよりもオレの生来の貧乏性のほうが勝ってしまうのである。

こうして冒険の目的をすっかり忘れ、ただひたすらちまちまと、フィールドで伸び伸びとして過ごすモンスターの皆さんを惨たらしく虐殺し、たいした金にもならないクズみたいなアイテムを後生大事に拾い集め、慇懃な街のアイテム屋に足元みられながら買い叩かれるということを繰り返していると、なんかもう自分がゲームヒーローでもなんでもなく、単なるゴミ拾いのホームレスになってしまったような気分が段々してくるのである。なにか自分がこのゲーム世界の最下層で惨めな人生を送る食い詰め者の様な気がしてくるのである。なんだ。なんなんだ。なんでゲームごときでこんなどんよりした思いを味合わなきゃならないんだ。なぜならそれはオレが生来の貧乏性だから……。こうしてまたオレはゲーム世界で虚無と徒労に塗れまくるのであった。ああ、諸行無常……。


Titan Quest - Release Trailer Console

Titan Quest (輸入版:北米) - PS4

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Titan Quest (Nintendo Switch) (輸入版)

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Titan Quest (Xbox One) (輸入版)

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