ノヴァ / サミュエル・R・ディレイニー

ノヴァ (ハヤカワ文庫SF)

ノヴァ (ハヤカワ文庫SF)

■ノヴァ=ノヴェル

フィクションというものはある意味どう書かれてもいい訳で、それが娯楽作品であろうと文学作品であろうと、厳密なリアリズムでもって書かれていようと自由な連想のみで書かれた超現実的なものであろうと、描かれた”物語世界”に作者に内在するものが表出することは誰しも了承できるだろう。これがSF作品だとしても、”SF的なアイディア”という娯楽的な側面を見せながらも、何故そういった世界で無ければならないのか?ということを考えるならば、自ずと作者の内面にある、意識的あるいは無意識的な恣意性が浮かびあがってくるはずだ。SFというジャンル世界が、現実性に囚われない分、作者が物語内で”選択”する世界は、一見自由に描かれているように見えて、また逆に自由だからこそ、実は作者自身の雛形であったりするのだ。

そういった描写を得意とするSF作家の先鋒にかのフィリップ・K・ディックが存在する。彼の描いたおぞましくもまた魅力的なSF世界は、読めば読むほど、作者ディックの内面へと肉薄していくという文学体験を読者に与える。読者はアンドロイドやスペースシップといったチープなSF設定を楽しみながら、次第に混乱し錯綜したディックという作家の孤独な魂へと降り立つのである。だからこそディックという作家はあれほど神格化されたのだと思う。60年代SFを賑わせた”ニューウェーブ運動”は、そういった作話の手法を意識的に創出しようとした試みだったのだろう。そしてこの作品『ノヴァ』の作者サミュエル・R・ディレイニーも、そうした作家の一人である。

■粘膜感覚

この作品を評して詩的とか絢爛豪華などといった言葉が冠せられることがあるようだが、むしろ”世界そのものに対する《官能性》”こそがディレイニーの文章の本質なのではないかと思う。それは文学性というよりはもっとセクシャルで肉体的なものなのではないか。世界を視覚や言語で認識するのではなく皮膚をくすぐる感触で認識し表現すること。そしてディレイニーの場合それは”皮膚感覚”といった言葉を一歩飛び越えた”粘膜感覚”とでもいうような感覚で世界を認識しているように思える。なぜならディレイニーの官能はあたかも世界と性交しているかの如き官能性に満ちているのだ。この《官能性》についてはディレイニーがゲイであったことが多大に関係しているような気がする。ゲイもまた世界全てを官能し、また官能で満たそうとする人たちだからだ。

さらに物語の背後に暗喩として存在するという神話性。様々な神話が盛り込まれているというが、しかしなぜ《神話》でなければならなかったのか。単なるペダントとしての手法ではなく、作家にとってのなんらかの必然的があるものであるとするなら、それは黒人であるディレイニーの、その黒人という人種が持つ、起源、始祖といったものに対する強烈な親和性にあるのではないか。自分は黒人文学というものに明るいわけではないが、しかしその音楽を聴くならば、彼らの持つ濃密な”血”への意識、肉体性への拘りを感ぜずにはいられない。そして”血”とは即ち歴史性であり、”肉体”の回帰する場所であり、その歴史の彼方に”神話”というものを垣間見ることはある種の必然のような気がする。だからこそディレイニーはこの作品に”神話”という暗喩を埋め込もうとしたのではないか。

ディレイニーという作家

この作品は多分に作者の自叙伝的な側面を持っているのだという。なるほど、調べてみるとディレイニーはかつて”テキサス湾(メキシコ湾)のエビ漁船に乗り組んだり、フォークシンガーとしてヨーロッパを彷徨したりしながら創作を続けた*1”のらしい。これらの体験はこの作品『ノヴァ』に露骨なまでに反映している。そして作中人物である作家を目指すインテリ青年カティンと、その正反対の性格を持つシリンクス演奏者マウスは、作者ディレイニーの内面にある二つの相対するパーソナリティーを具現化したものなのだろう。

相対するパーソナリティー、その矛盾しあったもの同士が対話を重ねながらお互いを発見してゆく様は、作者ディレイニーがヨーロッパを放浪し自己というものと自問自答を繰り返しながら成長していった過程を描いたものなのかもしれない。煌く夢幻のSF世界を描いたように見えるこの作品は、実は黒人でありゲイであった作者ディレイニーの、その青春期の魂の遍歴を描いた作品だったのだろう。ただ物語そのものとしてみると、あんまりオレの好みじゃなかったかなあ。