ドンソク映画『狎鴎亭スターダム』他、最近ダラ観したDVDやら配信やら

『狎鴎亭スターダム』

狎鴎亭(アックジョン)スターダム (監督:イム・ジンスン 2022年韓国映画

韓国の繁華街・狎鴎亭(アックジョン)を舞台に、『犯罪都市』のマ・ドンソクが怪しい山師となって美容整形業界に乗り出し、インチキ医療で大儲けするというコメディ作品。今作でのマブリーは口八丁手八丁の話術でのし上がってゆくお調子者キャラで、いつものマブリー作品のようなバイオレンス作ではない。時代設定が2~30年前の近過去となっており、韓国の美容整形はどのように流行ったのか?狎鴎亭はどのようにして高級繁華街となったのか?を切り取っている部分が興味深い。

韓国に限らず金と欲望の集まる場所には胡散臭い連中もまた集まり、この映画のように限りなくグレイな商売をしてあぶく銭を稼ぐものなのだ。そんな中でマブリー演じる山師や相方となる無免許美容整形医師なんてまだまだチンピラレベルで、本当にヤバイのはデカイ金を動かせる中国からやってきた資本家だったりする。物語は美容整形業界の暗部とそこで蠢く投資家と反社との腹の読み合い化かし合いが描かれるが、よくある韓国映画ならここで屍累々たる残虐血飛沫展開になること必至だろう。

しかしこの作品ではコメディの形で限りなくオブラートに包んでおり、そういった部分で物足りなく感じはする。あえて暴力を禁じ手にしコメディで見せようとしたのは、マブリーが幅の広いキャラクターを演じたかったというのもあるのだろう。今作におけるマブリーのコメディ演技は堂に入ったものではあったが、それでも、物語の端々から漂ってくるヤバさからは、韓国暗黒暴力映画と紙一重のものを感じた。

ハント(監督:イ・ジョンジェ 2022年韓国映画

80年代軍事政権下の韓国を舞台に、KCIA内に潜む北朝鮮二重スパイ発見の為に血で血を洗う内紛が勃発し、さらに大統領暗殺計画が進行するという物語。「誰が二重スパイなのか?」を巡る虚々実々の駆け引き、憤怒と憎悪に満ちた対立、冷酷極まりない謀略、拷問と謀殺に満ちた血塗れの描写が相次ぎ、二重スパイの正体が明らかにされた時の衝撃度も高かった。

あたかも『裏切りのサーカス』と『ジャッカルの日』を足して韓国流の暗鬱な激情を加えたような凄まじい作品だったが、さらに史実を下敷きにしていることに驚かされた。途中まで「こんな滅茶苦茶ができるのはフィクションだからなのだろうな」と思って観ていたからだ。北朝鮮工作員が外遊中の韓国大統領を狙ったビルマ・ラングーン爆弾テロ事件(1983)とか初めて知ったよ。

映画は光州事件を扱った『タクシー運転手 約束は海を越えて』、アカ狩りの熾烈さを描いた『弁護士』、KCIAによる大統領暗殺未遂事件を描いた『KCIA 南山の部長たち』など、韓国現代史に関わる映画とリンクする場面も多々あり、この作品自体もその列に加えていい名作だったと思う。

アメリカン・フィクション (Amazon Prime Video) (監督:コード・ジェファーソン 2023年アメリカ映画)

売れない黒人文芸作家モンクはある日思いついた。「どいつもこいつも頭空っぽな売れ線小説ばっかり読みやがって!そや!この俺が頭空っぽな売れ線小説書いて世間を冷やかしたるわ!」。するとその小説が売れに売れまくった挙句文芸賞の候補にまでなってしまい、モンク涙目!?というコメディ映画。

この物語における「頭空っぽな売れ線小説」とは「ステレオタイプの黒人キャラクターが登場しステレオタイプの黒人ドラマを演じる」といったもの。要するに「ステレオタイプで黒人を扱うな!」ということなんだけど、黒人かどうかは別としてもフィクションなんてある程度ステレオタイプの登場人物が登場するものだし、ステレオタイプだからこそ読者は安心して物語を読むものだし、ステレオタイプでありながらもそれをどう細かく差別化してゆくのかが作家の腕の見せ所なんじゃないのか。そういった部分でこの物語の作家は随分と傲慢だと思うし、そもそも作家として一段落ちると思えたけどな。

まあそういったテーマであるならもっと毒のある皮肉を込めてドタバタを見せてくれた方が盛り上がっただろうが、実際進行するのは黒人作家と家族・隣人とのごく日常的であまりにありきたりなドラマ。つまりこの「ありきたりな日常性」が「ステレオタイプではないリアルな黒人像」だと言いたいのだろうが、それこそ皮肉なことに、結局ありきたりでつまらないドラマでしかないという結果を生んでいるのだ。だから、そーゆーことだぞ。

復讐とジレンマを描くSF巨編第2部/映画『デューン 砂の惑星 PART2』

デューン 砂の惑星 PART2 (監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 2024年アメリカ映画)

映像化不可能と言われたフランク・ハーバードのSF小説デューン 砂の惑星』を『ブレードランナー2049』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が見事に映像化したのがこの作品だ。映画は2部構成となり、第1部となる映画『DUNE/デューン 砂の惑星(以下:PART1)』は2021年に公開、そして今回満を持してその第2部『デューン 砂の惑星 PART2(以下:PART2)』が公開の運びとなった。

オレは『デューン 砂の惑星』は小説版も映画化された『PART1』も大のお気に入りで、この『PART2』の公開を非常に楽しみにしていた。というわけで会社に休暇届けを出し初日1回目の回をIMAXで鑑賞してきた。

デューン 砂の惑星』の物語は紀元102世紀末、宇宙に版図を拡げた人類帝国の、メランジと呼ばれる超貴重なスパイスを巡る権謀術数を描いたものだ。宇宙でただ一つメランジが採掘される惑星アラキスで、その統治を担っていたアトレイデス家はハルコンネン家の陰謀により全滅させられる。ハルコンネン家の生き残りであるポール・アトレイデスは復讐を誓い、砂漠の民フレーメンと共にハルコンネン家殲滅の戦いを開始するのだ。

拙ブログでの『PART1』の感想はこちら。もう大絶賛なのだが、映画の尺と同じぐらい長い文章なので、全部読んだ方がいるのかどうかは謎だ!今回はその反省として、短めにサクッと感想を書きたい。

さて映画だ。『PART1』では「デューン」の世界観を、それこそ小さな積み木をコツコツ積み上げ大聖堂のような壮麗な建築物に仕立て上げたような力技に唸らされた。オレが『PART1』に魅せられたのは、その精緻に構築された異世界の、迫真的な光景そのものにだった。

この『PART2』では『PART1』で構築された異世界の中で、いよいよドラマが大きくうねりだす。『PART1』では惑星アラキスの情景を舐めるように丹念に描いており、引きの絵が印象的だったが、この『PART2』で人間ドラマを中心とするため、登場人物のバストアップの絵が多い。それにより主人公ポールの数奇な運命を克明にクローズアップしてゆくことになる。

ここで描かれるポールの運命とは、圧政者ハルコンネン家を叩き潰すだけではなく、砂漠の民フレーメンの救世主となり、彼らを約束の地へと導くというものである。フレーメンを救うとされる救世主は伝説の中に存在しており、ポールその人が救世主として祀り上げられることになるのである。

どこまでもエキゾチックな砂漠の民の姿と彼らの暮らす過酷極まりない環境、その彼らが熱狂的に信じる救世主伝説、それにまつわる特異な信仰の在り方、そこからは非常に強烈であまりにも異質な宗教的光景が広がっている。この『PART2』を圧倒的なまでに覆うのはこの「あまりにも異質な宗教的光景」だ。観る者はこの異質さの中に投げ出され、それまで体験したことの無いような異世界の情景と異世界の理を目撃することになる。そしてこの異質な体験こそが『デューン 砂の惑星』の醍醐味なのだ。

ここには現実世界に於ける西洋と中東との対立を暗喩したものがうかがえるが、その中東の救世主が白人のポールである部分に矛盾が存在するように一見思えてしまう。しかし救世主伝説は実は秘密結社ベネ・ゲセリットが流布した作りごとだったのだ。ポールの母ジェシカはそのベネ・ゲセリットの一員であり、救世主伝説に乗りかかる形でハルコンネン家討伐を画策したのだ。この作品では正義と悪といった単純な対立項ではなく、どこまでも計略と策謀が中心となっている部分に、ポールという存在のジレンマが見え隠れする。そしてそのジレンマがポールの辿る運命に一筋の悲哀をもたらしているのだ。

もう一つ、この作品はドラッグによる意識の拡大があまりにも明示的なテーマとなっている。物語の重要項目となるスパイス「メランジ」は人間を長命化し、意識を拡張させ、超能力的な感覚を高める効能があるとされている。すなわちメランジは「知覚の扉の向こう」へと旅立つことを可能にしたドラッグに他ならない。

原作である『デューン 砂の惑星』が発表されたのは1965年、ヒッピー文化が興隆を迎え、若者たちのドラッグ体験が拡大した時期だ。ヒッピー文化は資本主義社会の変革とスピリチュアルな生活スタイルを探求したものだったが、その変革の要の一つはドラッグだった。

デューン 砂の惑星』はSF小説の体裁を取りながらドラッグによるオルタナティブな新世界を探求する物語だった。だからこそ異世界であり異文化であり異なった宗教であり、そして旧弊な社会の打倒を謳ったのである。それにより『デューン 砂の惑星』は当時の若者たちにとってバイブルと化し、現在においてもこの小説を読んでいる事が一つの教養とみなされているほどだ。この小説がなぜアメリカで爆発的な人気を得、ここまで完璧な映画として完成させることが待たれていたのかという秘密はここにある。

感想をまとめるなら、精緻な異世界構築を実現した『PART1』と比べると、この『PART2』は物語を展開させそして畳むことを第一義としているために異世界それ自体の味わいに乏しく感じてしまった。異邦の宗教観に満ちた描写は優れており、堪能できた。クライマックスの戦いは壮絶なスペクタクルに満ちていたが、それは『PART1』におけるアトレイデス家崩壊の光景を逆回ししているようにも思え、ある種予定調和的であったかもしれない。

ただ、どうもこの映画、『PART3』へと続く含みを持たせているのだが、原作の『デューン 砂の惑星』にも続編があり、やはり続くのか!?続かせるのか!?という期待もある。なぜならこの『PART2』においてもポールを取り巻くジレンマは解消されていないからだ。

……いかん、やっぱり長くなってしまった!?

 

『文豪怪奇コレクション』全5巻を読んだ/その⑤ 綺羅と艶冶の泉鏡花〈戯曲篇〉& 『文豪怪奇コレクション』のまとめ

文豪怪奇コレクション 綺羅と艶冶の泉鏡花〈戯曲篇〉/泉鏡花(著)、東雅夫 (編集)

文豪怪奇コレクション 綺羅と艶冶の泉鏡花 〈戯曲篇〉 (双葉文庫)

異界の美男美女が乱舞する鏡花戯曲の三大名作──「天守物語」「夜叉ケ池」「海神別荘」に加えて、 友人の独文学者・登張竹風と共訳した初期の珍しい佳品「沈鐘」(ハウプトマン原作)、 非業の死を遂げた〈お友達〉たちの秘密が明かされる「多神教」、 吉原大火の記憶を池の蛙と緋鯉が語り合う「池の声」、 三島由紀夫と澁澤龍彥を熱狂させた晩年の「山吹」、 幽霊劇の極地「お忍び」を収録。 日本文学の頂点を極める、必読の名作ばかりを蒐めた、不朽の一巻。

泉鏡花〈小説編〉に続いて〈戯曲編〉である。「嗚呼、鏡花読み難かったなあ、でももう1冊あるんだよなあ….」と思いつつ読み始めたのだが、これがなんと、〈小説編〉より全然読み易い。嗚呼、読み易いなあ、有り難え有り難えと読み進めると、これが今度は、面白い。面白いどころか、引き込まれる。なんだなんだ?なんだか凄いんじゃないか?と今度は茫然としている。そして遂には、オレは今とんでもない天才作家の書物を読んでいるんじゃないか?と思い始めてきた。そうして読み終わり、すっかり泉鏡花の大ファンとなり、興奮気味に次に読む鏡花小説漁り始めたぐらいだ。改めて言おう。泉鏡花、凄え。

この〈戯曲篇〉における物語の多くは、鬼哭啾々たる怪談噺では決してなく、人間界とは別個の位相に住まう精霊たちの眷属が、なにがしかの因縁で俗世の人間と関わってしまい、紆余曲折を経た後のその顛末を描くものとなる。精霊たちの出で立ちはまさに物の怪のそれであり、その装束は贅を凝らした豪華絢爛たるもので、それを描写する文章の得も言われぬ美しさにため息が出るほど、なるほどこれぞまさに鏡花小説の神髄となるものなのだろう。これらは和風ファンタジーと言っていい内容で、舞台となる日本中世・近代の光景がまたファンタジー風味をより一層高めることになるのだ。

まずはなにより鏡花戯曲三大名作「夜叉ケ池」「海神別荘」「天守物語」だろう。「夜叉が池」は洪水を封じる為千二百年前に人と龍神が交わした盟約を守り山奥の鐘を撞き続ける男と、旱魃に喘ぎ男の妻を贄にしようと迫る村人衆との物語だ。不可思議な伝説と伝承、闇に踊る精霊鬼神の群れ、醜怪な人間の姿、それらがないまぜとなった恐るべき幻想譚であった。「海神別荘」は深海に住まう精霊の眷属に嫁入りする人間の娘の物語だが、海の御殿の煌びやかな描写には陶然とさせらた。とはいえ実はこれは人間側から見るならば「富と引き換えに海魔に生贄の娘を差し出す話」であり、生と死に対する人間と精霊の意識が全く隔絶している部分が面白い。天守物語」は姫路城の天守に巣くう精霊の夫人が、殿様の名によりそこに命を賭してやってきた武士と恋に落ちるという物語。ここでも人間と精霊の生命/存在に対する認識の違いと、さらには人間界の醜さとが対比的に描かれ、鏡花一代の名作として完成している。

「沈鐘」はドイツ作家ゲルハルト・ハウプトマン原作の妖精たちが闊歩するファンタジー作品を鏡花が翻訳(共訳)した幻想譚。鏡花が訳したことにより和洋折衷な内容になっている部分が面白い。多神教は御百度参りを村人たちに見咎められ暴行を受けていた女を精霊たちが助けるという話。これも人間と精霊との理(ことわり)の違いが描かれる作品だ。そして鏡花は常に人間の(蒙昧な)理を糾弾する。「山吹」は自害しかけた女を老人形遣い師が救うが、その後の老人形遣い師の要求が人間の業に根差した悲しくもまた凄惨なもので、鏡花の人間への眼差しの在り方が伺われる。「お忍び」は幽霊屋敷へ肝試しに出向いた男女の出遭う幽霊譚だが、後半因縁話に変転する展開がスリリングであった。

おまけ: 『文豪怪奇コレクション』のまとめ

という訳で『文豪怪奇コレクション』全5巻を読み終えたわけだが、5巻程度の怪奇作品集とは言え、全集を一気に読んだのはオレも初めてで、さらに殆ど読んだことの無い、文豪と呼ばれる日本作家の作品をまとめて読めたことは稀有な体験だった。そして全体的に見るならやはり泉鏡花の作品が(〈小説篇〉は相当難儀したとはいえ)抜きんでて素晴らしかった。

ここでそれぞれの作家の文章のざっくりした印象を建物で例えてみよう。

夏目漱石:煉瓦造りの堅牢な建物。

江戸川乱歩:苔むした藁ぶきの古民家。

内田百閒:ガラス張りでできた出入り口の無い温室。

泉鏡花:ガウディ建築のような奇妙で壮麗な礼拝堂。

最後にこのブログでの『文豪怪奇コレクション』1巻~4巻の感想リンクをまとめておく。

 

『文豪怪奇コレクション』全5巻を読んだ/その④ 耽美と憧憬の泉鏡花〈小説篇〉

文豪怪奇コレクション 耽美と憧憬の泉鏡花〈小説篇〉/泉鏡花(著)、東雅夫 (編集)

文豪怪奇コレクション 耽美と憧憬の泉鏡花 〈小説篇〉 (双葉文庫)

明治・大正・昭和の三代にわたり、日本の怪奇幻想文学史に不滅の偉業を打ち立てた、不世出の幻想文学者・泉鏡花。 本書は、鏡花の名作佳品の中から、なぜかこれまで文庫化されていなかった、恐怖と戦慄と憧憬に満ちた怪異譚を蒐めた一巻。 闇に明滅する螢火を思わせる「女怪幻想」の数々は、読者を妖しき異界へと誘う。

日本を代表する幻想浪漫作家・泉鏡花、大御所中の大御所というだけあってこの『文豪怪奇コレクション』では〈小説篇〉〈戯曲篇〉の2冊が編まれている。というわけで今回は〈小説篇〉。

泉鏡花は10代の頃挑戦し、その難読漢字溢れる雅文による凝りまくった修辞技法に全くついてゆけず挫折した記憶がある。そして60歳を過ぎた今、それなりに本も読んでいるから少しは読めるようになったか、と思ったがやっぱり駄目だった、無理だった。とにかく読み難い。何が書かれているのか殆ど分からない。もちろんこれは鏡花小説が拙いのではなく、オレの読解力が極めて低レベルだから、ということは間違いないのだが。

とはいえこの後読んだ〈戯曲篇〉のあとがきに触れられていた三島由紀夫澁澤龍彦との対談で、両氏が「読んでいて非常に困った、さっぱり分からない」と発言していたので、三島と澁澤が分かんないものをオレが分からなくたって問題ないじゃないか!と思うことにした(澁澤は続けて「ずっと読んでると分かってくるんですけどね」と言っていたし三島も鏡花を高く評価していたけどね)。

分からないなりに読み終えた感想を書くならば、とりあえず鏡花は馨しくもまた煌びやかな文体で描かれた純日本的な風景をジットリと湿気の多い漆黒の闇で包み込み、その中に鬼火のようにぼっと照り光る絶世の美女が立ち現れるがそれはこの世のものではないか死相が現れていて、主人公はその得体の知れない妖気に飲み込まれて慌てふためいたりゲロ吐いたりしながら翻弄される、といった内容のものが多かった(ような気がする)。あと蛇。鏡花の小説は「蛇怖い蛇怖い」な小説である。多分そういう気がする。それと相当にリズムを重視した文体であるのは理解できた。

そんな中で気に入った作品は、まずは「高桟敷」、これは森の中で遭遇する超現実的な幻影譚。「浅茅生」では隣り合った家の二階の窓ごしに男女の会話が為され、その後恐るべきことが起こるのだが、このシチュエーションの閑としてひっそりとした風情が好きだった。「幻往来」は死病の娘の生霊と車に乗ってしまう男の話。「尼ヶ紅」では徹底して蛇への嫌悪と恐怖が描かれる。そして「紫障子」、芸妓と旅行中の男が遭遇する怪異を描くが、人気のない旅館の黒々とした闇の描写が迫真的だった。「甲乙」は二人の美しい女亡霊に憑かれた男の物語。「黒壁」は”お百度参り”に遭遇した男の恐怖を恐るべき緊張感で描き、シンプルでストレートながら鏡花の神髄ともいえる物語かもしれない。

 

『文豪怪奇コレクション』全5巻を読んだ/その③ 恐怖と哀愁の内田百閒

文豪怪奇コレクション 恐怖と哀愁の内田百閒/内田百閒(著)、東雅夫 (編集)

文豪怪奇コレクション 恐怖と哀愁の内田百閒 (双葉文庫)

夏目漱石江戸川乱歩に続く、〈文豪怪奇コレクション〉の第三弾。漱石に学び、芥川龍之介と親交を結び、三島由紀夫らにより絶讃された、天性の文人。日本語の粋を極めたその文学世界は、幻想文学の一極北として、今もなお多くの読者を魅了してやまない。史上最恐の怪談作家が遺した、いちばん怖い話のアンソロジー。幽暗な魅力にあふれる百閒幻想文学の作品が満載の一冊。

例によって内田百閒、きちんとまとめて読んだのは今回が初めて。今回『文豪怪奇コレクション』を読もうと思ったのは、以前たまたま内田百閒の幻想短編をどこかで読み「これはとんでもない作家だ、なぜ今まで知らなかったんだ」と驚嘆させられたからというのもあった。夏目漱石一門の内田百閒は名文家であり随筆文で一般に知られているようだが、怪奇恐怖小説も多くしたためているのだ。

内田百閒の描く怪奇幻想譚の特徴はちぐはぐで辻褄の合わない事象の中に突然放り出され、それに何の説明もないまま物語が終わってしまう、その突然梯子を外されたような不安感、不安定感にある。何かが起こった、しかしそれが何なのか分からない、何かがおかしい、しかしそれが何故なのか分からない。その薄気味悪さ、居心地の悪さが内田怪奇小説の醍醐味だろう。この辺り、以前読んだ山尾悠子の源流だったりするのだろう。

内田怪奇小説では常にはらはらと雨が降りごうごうと風が吹き、庭には得体の知れない黒い塊がぼわぼわと蠢き廊下の先には漆黒の闇が物質のようにみっちりとひしめく。他者とは常に得体が知れず意思疎通が不可能な存在である。こうしたある種神経症的な現実認識が内田怪奇小説に顕著であるが、それは案外そのまま内田の現実世界への嫌悪/恐怖の表れだったのだろうと思えた。

例えば鈴木清順監督により『ツィゴイネルワイゼン』のタイトルで映画化されたサラサーテの盤は、亡くなった知人の遺品を家に取りに来るその妻の話だが、この妻というのが言動や行動がなにか微妙に「奇妙」で「非現実的」なのだけれど、なぜ、どうして、どういう理由なのかは説明されず、ラストにおいてさらに壮絶な意味不明の会話がポン、と放り出され、読む者は「今のはなんだったんだ」と不安の中に取り残されて終わるのだ。この絶妙さが内田怪奇小説だ。

なにしろ内田百閒のことを何も知らなかったのであれこれ調べたが、黒澤明晩年の映画作品『まあだだよ』が内田百閒を主人公とした物語だったと知って驚いた。それと、オレの相方さんのブログ「とは云ふものヽお前ではなし」のブログタイトルが内田百閒の歌から採られていることを相方さんの口から知り、しばらく内田百閒話で盛り上がったことも付け加えておこう。