「恐怖」の本質とは何か?:京極夏彦の『猿』を読んだ

猿 / 京極夏彦

猿 (角川書店単行本)

いけませんよ。外に出ては――怖いですから 「猿がいる」と言い出した同居人。 かすかに感じる、妙な気配。 曾祖母の遺産相続。 胸に湧き上がる不安。 岡山県山中の限界集落。 よく判らない違和感――。 ただの錯覚だ。そんなことは起こるはずがない。だが――。 怖さ、恐ろしさの本質を抉りだす、瞠目の長編小説。

京極夏彦の『猿』は、極めて奇妙な小説である。本作は「恐怖とは何か、なぜ人は恐怖するのか」を徹底的に問い直す、恐怖小説の枠組みを逆手に取った一冊だ。しかし、物語はホラーの常套手段――「恐怖の対象」とされるあらゆる事象を、次々と否定していく。

事故物件、心霊スポット、呪物、人里離れた因習村……。これらは「怖い」という先入観や文化的な意味づけによって恐怖の対象に仕立て上げられているに過ぎない。実際には、何の変哲もない実存がそこにあるだけだ。人々はそこに「意味」や「関係性」を見出そうとする。その営みこそが、語り手から聞き手へ渡される「ナラティヴ」――物語である。

京極はここで、恐怖とされる事物にまつわるナラティヴをことごとく剥ぎ取り、それらは本質的に恐怖などではないと解き明かしていく。あらゆる舞台装置が否定され尽くした後、それでもなお残る「恐怖」とはいったい何なのか。それこそが、長編小説『猿』が執拗に追い求めた正体なのだろう。

物語は、都会に住む女性・松永祐美が、岡山の山奥に暮らしていた遠縁の曾祖母の遺産整理のため、マンションを離れる場面から始まる。同居人の隆顕は倦怠感が続き引きこもり状態にあり、祐美は彼を憐れみつつも、その投げやりな態度に疲弊している。一人では何もできない彼を案じながらも旅立たねばならない彼女の心は、すでに限界に近い。そして出発の間際、マンションの天井に得体の知れない気配を感じ、「猿がいる」と隆顕が呟く。それが何であるかはわからない。ただ「それ」は、そこに「いた」。

岡山に到着した祐美は、もう一人の遺産受取人や弁護士、助手を交え、曾祖母の住んでいた限界集落〈祢山村〉へ向かう。村の成り立ちや曾祖母の過去は、戦前の時代背景ゆえの複雑だが合理的な事情によるものだった。「不思議」でも「怪奇」でもない。こうして物語は、早々に「山奥の謎の集落」というホラーの定番シチュエーションを無力化する。

しかし一方で、客が誰一人物音を立てず会話もしない薄気味悪い喫茶店が登場するなど、常に居心地の悪い違和感を忍び込ませ続ける。マンションの気配も、不気味な喫茶店も、ある種の「不安」を喚起する要素だ。しかし、それらが何であるかは決して説明されない。同居人の体調もまた「不安」の源だが、「不安」は「恐怖」ではない。

不安、嫌悪、具体性を欠いた予感――これらは恐怖に近しい感情だが、「怖いのとは少し違う」。それらは恐怖を呼び込むための重要な触媒であり、あるいは予感こそが恐怖の本質なのかもしれない。しかし「怖い」と思わなければ、理由を探る必要はない。怖がるからこそ、怖いのだ。

かつて文化人類学者ローラ・ボーハナンがナイジェリアのチヴ族に『ハムレット』を語ったとき、「亡くなった王の幽霊が現れた」という説明に対し、彼らは「死んだ人間が歩くわけがない」と一蹴した。結局、「恐怖」は文化のフィルターに強く依存した相対的なものである。「怖がるから怖い」という循環は一見空虚だが、恐怖のベールを一枚ずつ剥いでいけば、最後には何も残らないのかもしれない。つまり、相対的な意味でしか「恐怖」など存在しないのだ。京極の百鬼夜行シリーズで繰り返される「憑物落とし」が、文化的な意味付け(ナラティヴ)を剥ぎ取り、ただの事象に戻す作業であることを思えば、本作が書かれた必然性も自ずと見えてくる。

それでも、この物語は最後の最後に、とんでもなく不気味で意味不明な「恐怖」を突きつける。あらゆる文脈が相対化され、解体された後に、なお純粋に残る「恐怖」。京極夏彦が描きたかったのは、まさにそれなのだろう。小説全体が「京極による恐怖論」のような構成ゆえ、純粋なホラー小説として読むと肩透かしを食らうかもしれない。しかし、京極作品特有のロジックと哲学的深みを堪能したい読者には、格別の味わいがある一冊だ。