生きていたヒトラーの拉致連行作戦を描くフィクション『ヒトラーの弁明 : サンクリストバルへのA・Hの移送』を読んだ

ヒトラーの弁明 : サンクリストバルへのA・Hの移送 / ジョージ スタイナー (著), 佐川 愛子 (翻訳), 大西 哲 (翻訳)

ヒトラ-の弁明: サンクリストバルへのA・Hの移送

統一ドイツで台頭するネオ・ナチ、歴史修正主義の動き、そして国連決議を無視したイスラエルパレスチナ占領の現実ー。現代史の悪夢。ヒトラーの投じた影から我々はいまだ解き放たれていない。ユダヤ人である著者が、単なる否定でなく内在的に問い返した問題の小説。

ヒトラーの弁明 : サンクリストバルへのA・Hの移送』はイスラエルのナチ・ハンターが南米の奥地でヒトラーの生存を確認し、拉致連行作戦が展開してゆく、という物語である。この粗筋だけだといわゆるサスペンス・スリラー小説のような印象を持たれるだろうが、確かにそういった側面はあるにせよ、こうったジャンル作品とは異なった、非常に重いテーマを持つフィクションとして完成している。作者はオーストリアユダヤ人であり、フランス・アメリカ合衆国の作家で哲学者・文芸批評家・比較文学講座教授のジョージ・スタイナー。

1956年の「公式死亡宣言」において既にヒトラーの死は確定しているが、ヒトラー生存説については都市伝説的・陰謀論的に語られることがままある。それはプレスリー生存説のような無責任なファンタジーではあるが、フィクションとして語るのは確かに下世話な面白さがある。ただ、フィクション作としての存在はあまり確認できず、2019年のナンセンス映画『アフリカン・カンフー・ナチス』、2022年公開の映画『お隣さんはヒトラー?』、ヒトラーが現代にタイムスリップする小説と映画化作品『帰ってきたヒトラー』がある程度か。むしろ死んだ後のヒトラーが地獄で責め苦に遭う『リトル★ニッキー』や『独裁者たちのとき』みたいな映画が多いかもしれない。

イスラエルのナチ・ハンターについては実際に存在しており、元ナチの親衛隊中佐、アドルフ・アイヒマンがナチ壊滅後に南米アルゼンチンに逃亡していたことが発覚、イスラエル軍実行部隊が超法規的な措置を取ってこれを拉致連行した事件が最も有名だろう。また、「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレがブラジルに逃亡し、その後死亡していたことが確認された事件はオリヴィエ・ゲーズの小説『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』に詳しい。そのほかにも幾人かのナチ幹部が南米に潜伏していたことが確認されており、本作の発想の元となっているのだろう。

とはいえこの『ヒトラーの弁明』は、ヒトラー奪取作戦をスリリングなサスペンスとして語ったものでは決してない。物語は南米のジャングル奥地に隠れ住むヒトラーをナチ・ハンターが拉致するシーンから始まるが、そこからはぬかるむ沼といつまでも止まない雨に体力も気力も奪われ疲弊してゆくナチ・ハンター一行の責め苦の如き描写が延々と続くのである。

ユダヤ人国家の、ひいては世界の悲願であるはずの”ヒトラー奪取作戦”ではあるものの、実のところそれは決して綿密で厳格な作戦とは言い難い。通信機は故障し、本国に自分たちの現在位置が把握されているかどうかも分からず、ヒトラーの発見が伝わっているのか、ナチ・ハンター一行の回収作戦が発動しているのかも分からない。こうしてナチ・ハンターたちはヒトラーを連れたまま緑の地獄と化したジャングルをさ迷い歩く。それは、それ自体がユダヤ人の新たな受難であるかのようだ。そしてナチ・ハンターのメンバーたちは、今目の前にいる”世界大逆者”とも呼ぶべきこの老人が(設定ではヒトラーは既に90歳を超えている)、いったいなんなのか?と自問しはじめるのだ。

こういった構成が、一般的なサスペンス・スリラーとは異なる、一種異様な雰囲気をもたらし、ヒトラーとはなんだったのか、ヒトラーを断罪するというのはどういうことなのか、という問題を炙り出してゆくのだ。それは同時に、ホロコーストとはなんだったのか、ユダヤ人国家とはなんなのか、という問題にまで派生してゆく。そしてそれに一つの回答を導き出したのが、遂にヒトラーが己の所業を弁明し始める最終章なのである。

作品の最大となるテーマが発露することになるこのヒトラーの弁明は、凄まじいアレゴリーを孕んだ恐るべき内容となって読者に突き付けられる。それはかつてヒトラーの演説がドイツ国民を甘やかなる地獄へと突き進ませたように、歪んでいながら蠱惑的であり、有無を言わせぬ異様な説得力を持っているのである。そしてそれは、ホロコーストの果てに建国されたイスラエルが現在ガザで行っている虐殺を鑑みるのなら、あながち間違ってはいないのではないか、と一瞬思わせるほどのものがあるのだ。ここでのヒトラーの、悪魔の如きロジックを全否定することができる者が果たしているのか。そしてこれをユダヤ人学者が書いたという部分に、なおさらの重みと、凄味を感じるのだ。

お隣さんはヒトラー?

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