九十八歳になった私 / 橋本治
一体今日は、いつなんだろう? もうすぐ九十八だ。多分。ゆとり世代(もう五十だけど)の編集者に「戦後百一年」なんて原稿頼まれたり、ボランティアのバーさんが紅白饅頭持ってきたり。東京大震災を生き延びた独居老人の「私」が、老境の神髄を愉快にボヤく人生賛歌の物語。ああ、年をとるのはめんどくさい!
橋本治が「俺が98歳になったらどんなことを考えて生きてんだろ?」というテーマで書いた近未来(?)SF(?)私小説(?)。橋本は2019年に70歳で亡くなったが、この小説自体は2017年、橋本がまだ69歳の存命中に出版されている。とはいえ作品内でも触れられているが、晩年橋本は難病を患っており、それにより自身の死や死期というものをどういう形にしろ意識はしていたのだろう。
作品は執筆の始まった68歳の30年後を想定しており、つまり舞台となるのは21世紀中期の近未来、このころ首都直下型地震が起こって橋本は地方のプレハブハウスに疎開中、併せてバイオテクノロジーの暴走により生み出されたプテラノドンが空を飛び人々を襲っているという意味のよくわからない設定になっている(まあ単なるお遊びだろう)。ただ首都直下型地震という設定は、2011年の東日本大震災における橋本の体験を下敷きにしているのだろう。
『九十八歳になった私』は”老い”に対する徹底的な倦厭に満ち満ちている。ここでの橋本はなにしろ98歳なので身も心も衰え、体はまともに動かないしさっきまで何を考えていたのかも覚えてないし、いつも疲れているからたいがい寝てばかりいて、時々起きてはおやつみたいなものをモソモソと食ってそしてまた寝てしまうという毎日を送っている。生の実感は限りなく希薄で、こんな状態でいつまでも生きていたくないよなあと常にぼやいていて、100歳まで生きるなんてとんでもねえや、と言い切る。
”老いる”ことなんてなーんにもいいことなんかないし楽しいこともない。世間では老いた時期からの第2の人生だの新たな希望の持ち方だのと持ち上げたがるが、それはそうやって一見前向きな理屈でもつけて無理矢理持ち上げてやらなければ、単にひたすら暗鬱な現実ばかりが顕わになってどうしようもないからである。”老い”に前向きも糞もない。それはただこれからもどんどんと今以上に衰えてゆくというだけの状態である。
年を取るのはめんどくさい。「今日もまた生きている」とだけ書いてある日めくりカレンダーを、毎日めくっているようなものだ。毎日が、えんえんと続く。(p5)
たいしてすることもないのに前向きのジーさんというのは、形容矛盾みたいなもんじゃないか。(p71)
確かに、”老いる”ことに”いいこと”なんかなにもない。しかし翻って考えるに、老いていないのであればそれは”いいこと”なんだろうか。人は生まれた瞬間から老い始める。では人というのはどんな年齢であろうと、常に老い続けている存在なのではないか。すなわち”老いる”ことを考えるのは、それは”生きる”ことそれ自体を考えるのとそれほど違いはないのではないか。
それはどういうことなのか?「今日の自分は昨日の自分とおんなじように生きてる」という状態で漂っているということなんだろうなと思った 。それで、「明日も同じように自分は生きているだろう」になると 、別に不安にはならなくなるなと思った。(p21)
そういった不確実な”生”の中で、不確実だからこそ人はなんとか希望と呼べるものをひりだし、それが成就するだろう、すべきだろう、せねばならないという漠然と思いながら生きるけれども、しかし誰もが希望に向かって生きているわけでもない。
そうだよ。希望というのはね 、しんどいもんだよ。灼熱の砂漠の先の先の茨の茂った野原の先の断崖絶壁の上で宙に浮いてるようなもんだから、希望なんか見てしまうととんでもない苦労をしなきゃいけなくなるんだ。(p57)
希望のない人生はしんどいが、希望を乞い求める人生もまたしんどい。あああシチメンドクセエエエ!……当然だ、そもそも人生とは限りなくシチメンドクセエもんだからだ。しかし喚きまわったからと言って埒が明くわけでもない。そのシチメンドクセエ人生をどうやって生き残っていけばいいのだろう?
生きてんだか死んでんだか、ふらふらしてよく分かんねェよ。ふらふらしてることだけは分かるんだから、生きてんだよな。多分、幽明の境辺りを、ふらふらしながら歩いてんだろうな。よろけながら。(p74)
悲惨なものに焦点を合わせると、合わせただけ無意味に悲惨度が上がってロクなことはない。悲惨の一歩手前でヘラヘラ笑っているのが生きる秘訣(p147)
別に橋本は「ふらふらして生きよう」とか「ヘラヘラして生きよう」と言っているわけではない。”老いる”ことはしんどいし、”生きている”ことそれ以上にしんどいし、実のところ希望なんてなんにもない。けれども、それでも人は生きなければならない。
人間とは厄介なものだ。ただ生きてるだけだと人間じゃなくなる。こっちは「もういい」と思ってても、生きてたりすると、なんかをし続けなけりゃならない。(p13)
人生とはシチメンドくさい。だからといって人生を降りるわけにも人間をやめるわけにもいかない。 しかし意味があるとか無意味であるとかではなく、 生きるということは“人間的であろうとすること”ではないのか。そうして生きていく以外に人は己を人たらしめることはできないのではないか。悪罵と倦怠に満ちた仮想の98歳の自分を描きながら、橋本はそんなことを言っているように思えてならないのだ。
