ロビンソン・クルーソー / ダニエル・デフォー (著), 唐戸 信嘉 (翻訳)
船に乗るたびに災難に見舞われるロビンソン。無人島漂着でさすがに悪運尽きたかに思えたが、住居建設、家畜の飼育、麦の栽培、パン焼きなど、試行錯誤しながらも限られた資源を活用して28年も暮らすことになる……創意工夫と不屈の精神で生き抜いた男の波瀾の人生を描いた傑作。
孤島に漂着した男の28年に渡るサバイバルを描いたダニエル・デフォーの長編小説『ロビンソン・クルーソー』。1719年に発表されたと言うからかれこれ300年以上前に書かれた小説である。しかも実話を元にしているという。で、実際読んでみたのだがこれが古典小説ならではの原初的な面白さが詰まっていてまことに面白かった。
なによりこの物語の根幹にあるのは「生き延びろ!」ということ、「ではどうしたら生き延びられるのか?」という至極シンプルなことである。中盤まではあらゆる困難の中孤島の資源を縦横に用い失敗と成功を繰り返しながら生活を確立してゆくロビンソンの姿が仔細極まりない描写で描かれてゆく。
しかし本質はそのノウハウではなく「どのような気概を持って生きることを止めず日々を過ごすのか」ということだ。生きるとは何か?なぜ生きるのか?といったメタフィジカルなテーマをまず「食う寝る処に住む処の確保」とフィジカルなレベルに落とし込み、そこから改めて生きる意義を模索しているのだ。
そういった部分で「なぜ生きているんだろう?なぜ生きなきゃならないのだろう?」と悩む人には結構響くものがあるのではないか。人は自分の肉体性を意識できなくなり観念的に生きてしまうことで「自己存在の不安」に至ってしまうのではないか。それを自らの肉体性に立ち返ることである部分払拭できるのではないか、とオレなどはよく思う。生きているのは、精神だけではなく肉体もなのですよ、ということだ。
生活基盤を確立したロビンソンは生き延びたことの感謝としてこれまで不信心者であったにも関わらず神に祈りを捧げる。これは宗教の尊さを描いたのではなく、生の不確実性を乗り越えたことを不確実の存在に感謝したという原初レベルの宗教性を言い表したものなのだ。神とか宗教とかって本来こういうものなんじゃないのか?
中盤からは未開人フライデーとの邂逅や、人喰い人種部族との壮絶な戦いが用意され、物語は否応なく盛り上がってゆくことになる。未開人、人喰い人種などといったワードは現在では眉をしかめられるが、”未開人”フライデーは未開人であるがゆえに”近代人”ロビンソンにとっての批評的立場にある存在として描かれている。人喰い人種部族にしても、海賊と同等の単純化された異質な外敵と捉えるなら、ロビンソンの物語を決して植民地主義的白人至上主義の物語であると決めつけられない筈だ。
もちろんロビンソンの思想の骨子に18世紀英国人らしい帝国主義的側面が全くないとは言えない。だが一人で種撒いて山羊を飼い家具を作るのに帝国主義も糞も無いのである。逆に18世紀英国人らしさ、その生活態度に希求するものが彼を救ったとも言えるのだ。
なお「ロビンソン・クルーソー」の物語は実は第3部まであるらしく、巷に知られる『ロビンソン・クルーソー』はその第1部に過ぎない。第2部ではロビンソンとフライデーがかつての孤島を再訪し、さらにはアフリカ・インド・アジアへ冒険の旅に出るのだという。第3部は『ロビンソン・クルーソー反省録』と題され、第1部・第2部を基にした訓話集なのだという。





