YouTubeを眺めていたら、誰ともどんな人とも知らない女性がピアノを弾くサムネイルが目に付き、何の気なしに再生してみた。すると飛び込んできた映像の中で演奏されるその音楽があまりに素晴らしくて、25分もあるその動画を一気に観てしまった。飽きっぽくて動画なんてたいてい最初の1分も観ないオレにしては、異例中の異例の事である。
その時の動画がこれだ。アップライト・ピアノ、グランド・ピアノ、シンセサイザーの3つのキーボードを操り、中盤ではヴォーカルまで披露していた。なにより惹かれたのは高速アルペジオを駆使した緊張感溢れる演奏と、様々な感情が次々と表現されるメロディの妙だ。そして最も目を引いたのは、上蓋を取り外したアップライ・ピアノやグランド・ピアノの内部に演奏中手を突っ込んで、歪んだ音を出すという不思議な演奏法である。クラシック畑の方であろうと想像は付いたが、ピアノ音を電気的にループさせたりシンセサイザーを演奏するときにはエレクトロニカの素養もあることが伺えた。
誰だ?この人はなんなのだ?強烈な興味を覚えたオレは動画を観終わった後すぐさま名前を調べ、それがハニャ・ラニというポーランド出身の女性であり、クラシック、ジャズ、エレクトロニカ、フォークをまたいだ才能が注目を浴びる新進気鋭のピアニストであるという事を知った。
1990年、ポーランド音楽シーンの重要人物を多数輩出した北部のバルト海に面した湾都市グダンスク生まれ。ピアニスト、作曲・編曲家。基本的にはクラシック畑の奏者だがそのキャパシティは広く、ポスト・クラシカルからチェンバー・ジャズ、アンビエント、フォーク他を幅広いヴィジョンで捉えている。現在はワルシャワとベルリンをベースに活動中。ハニャ・ラニ | Hania Rani
彼女の奇妙な演奏法は音楽に「ナチュラル・ノイズ」を差し挟む為に為されたものであるという。それはピアノ内部に手を触れる事のみならず、よく聴くとペダルを踏む音や演奏中にピアノ機構から響くノイズなど、本来音楽録音の際に決して入れない音をあえて入れているのだ。それにより「ライブ感」のみならず、音楽を演奏する者、演奏される楽器、それらの実存が音楽の只中に存在する事を表徴しようとしているのだ。
もちろんそういった「ナチュラル・ノイズ」は彼女の演奏のほんの一部に顕れているだけであり、決してミュージック・コンクレートやアブストラクトを目指したものではない。彼女の演奏はクラシカルな素養の上にコンテンポラリーな感覚を取り入れたもので、十分に親しみやすく同時に鮮烈極まりない音となっている。硬質でシャープなその演奏からは、決して単なる美麗なBGMに終わることのない、豊かで時に激しい感情の発露を聴き取ることができる。また、簡素で飾らないルックス(演奏中はスニーカーだ)、というアーチスト・イメージも飄々として素敵だ。
そんなハニャ・ラニの音楽をとことん気に入ってしまい、これまでリリースされたアルバムをほぼ全て入手した(2018年に女性ヴォーカリストのヨアンナ・ロンギチと組んだユニット、テンスクノによる『m』だけがどうしても見つからない)。それらをざっと紹介してみたい。
Esja / Hania Rani
2019年リリースのソロ・デビュー・アルバム。彼女のアルバムの中で最もクラシカルな味わいを持ち、叙情と技巧に溢れ、なおかつ硬質な音を聴かせるが、デビューアルバムであることで肩に力が入っているなと思わせる部分もある。とはいえ彼女のポテンシャルを十分出し切った作品であり、その後のアルバムはここからの演繹であるという見方もできる。
Home / Hania Rani
2ndアルバム。ここからヴォーカル曲が目立つようになり、自らの才能を試そうとする姿勢が窺える。前作のクラシカルな味わいからエレクトロニカ/フォークトロニカの味わいが目立つようになってきている。1stアルバム『Esja』が「硬」だとするとこの2ndは「軟」という言い方もでき、この2つが合わさったものがハニャ・ラニの個性なのだろう。
Music For Film And Theatre / Hania Rani
これまで関わった映画作品のサウンドトラック作品を集めたもの。サントラという事もあって非常にアンビエントな作品集になっており、彼女の別の面が楽しめる。決して自己主張しない曲ばかりだが、聴き込むとそこここに彼女らしい音を聴くことができる。
Live From Studio S2 / Hania Rani
ライブ・ミニアルバム、4曲入り。ブログ冒頭で紹介したYouTube映像と同じもの。
Venice - Infinitely Avantgarde (Original Motion Picture Soundtrack) / Hania Rani
今年2月に発売された最新アルバムはまたしてもサウンド・トラック。ただし今作では大幅にストリングスが導入され、より叙情的でドラマチックな作品となっている。これによりハニャ・ラニのアレンジャーとしての腕を見ることができるだろう。サントラという性格上これまでの作品のような自己主張は薄いが、清廉で真摯な音楽センスが確実に伝わってくる良作である。映画自体はヴェニスにまつわるドキュメンタリーなのだとか。
Biala Flaga / Hania Rani & Dobrawa Czocher
ハニャ・ラニが幼馴染のチェリスト、ドブラヴァ・チョヘルとデュオを組んだ作品集で、リリースは2015年、実はハニャ・ラニの実質デビュー作となる。一聴して妙にポップな曲調であることに気付かされるが、実はこのアルバム、グジェゴシュ・チェホスキというロック・ミュージシャンのカヴァー集なのらしい。ただしそれは5曲のみで、残りの作品に彼女らのクラシカルな素養が発露している。ハニャ・ラニ演奏のジムノペディなんかも聴ける。
Inner Symphonies / Hania Rani & Dobrawa Czocher
ハニャ・ラニ&ドブラヴァ・チョヘルによるユニットの2ndアルバム。資料がないのだが今作はオリジナル曲で占められているのではないか。そしてこの2ndでようやくこのユニットのポテンシャルと2人が生み出すケミストリーを味わう事ができる。ここでのドブラヴァ・チョヘルのチェロは実に鮮烈であり、楽曲の魅力をリードする事になっている。一方、ハニャ・ラニのピアノはドブラヴァのチェロを生かすために徹底的にサポートに回っている感があるが、むしろ楽曲を生かす為に何が必要かをきっちり計算した結果なのであろう。こういった部分にもハニャ・ラニの才覚が光っていると感じた。実はソロと同じぐらいお気に入りのアルバムだ。