スタニスワフ・レムの『地球の平和』を読んだ

地球の平和 / スタニスラフ・レム(著)、芝田文乃 (訳)、沼野充義 (その他)

地球の平和(スタニスワフ・レム・コレクション)

国書刊行会によるスタニスワフ・レム・コレクション第Ⅱ期配本の第2弾は本邦初訳となる長編SF『地球の平和』。出版は1987年、レム最期の作品『大失敗』と同時期の作品だが、『大失敗』以前に執筆された「最期から二番目の長編小説」だという。物語はレム作品でお馴染みの〈泰平ヨン〉シリーズの1作でありその最期のものとなるが、物語的連続性はないのでこの巻だけ読んでも大丈夫であろう。

物語は激化する軍拡競争を懸念した人類が、月をその「代理軍拡競争場」と定め、各国はそこに兵器開発AIを放って競わせ、それにより「地球の平和」をもたらすことになった未来を舞台としている。とはいえ月との通信は途絶え、月面にある「AIにより進化を繰り返す兵器」が現在どのような状況に置かれているのか皆目掴めない。そこで白羽の矢が立ったのが我らが泰平ヨンというわけなのだ。ところが月に降り立ったヨンは月面兵器による謎の攻撃を受け、「脳梁切断=カロトミー」の状態で帰還することになる。右脳と左脳の「対話」が不可能になったことにより月面で起きたことの記憶を失ったヨンだが、各国の諜報部はその記憶を引き出そうとヨンの周辺で暗躍し始めるのだ。

この作品は3つのエピソードの元で進行する。一つはカロトミーにより行動のバランスを失ったロンの起こすドタバタである。ロンは一つの体の中に「脳の左半球=思考する自分自身」と「脳の右半球=自分ではあるが対話不能となった誰か」とが存在し、それが闘争を繰り返しているのだ。すなわち脳のそれぞれの半球で支配する左半身と右半身が常に喧嘩を繰り広げているというわけだ。常に右半身と左半身がバタバタと争っている描写は気の毒であると同時にどうにもコミカルであり、実に〈泰平ヨン〉シリーズらしいと言えるだろう。

もう一つは「ヨンの降り立った月面で何が起こったのか?」を描く真相究明編である。ヨンは月面に遠隔操作義体=LEMを送り出すが、そのLEMが様々な謎の現象と遭遇するのだ。もちろんそれは月面で進化した兵器の仕業なのだが、あまりにも進化し過ぎているがために兵器による攻撃というよりは「理解不可能な現象」となって現出するのだ。

そしてもう一つはこうして月面において「進化した兵器」と遭遇し、なおかつカロトミーによって記憶を喪ったヨンを巡る、各国諜報部の虚々実々の駆け引きである。彼らの目的は「進化した兵器」の情報を知る事だけではなく、それにより月面を攻撃するべきか否かの判断材料を欲しているのだ。その行きつく先は地球上での再軍備である。こうしてヨンの周囲に敵とも味方とも判然できない諜報員らが集結し、スパイドラマさながらのドラマが(泰平ヨンらしくコミカルに)展開するというわけだ。

「理解不可能な現象」に覆われた月面描写はレム作品『ストーカー』における「エイリアンテクノロジーが遺した不可思議な現象」と類似し、さらに「独自に進化した機械」というモチーフはレム作品『インヴィンシブル(砂漠の惑星)』と共通するだろう。さらにこれらは「人間と対話不可能な知性の存在」といった点においてレム作品『ソラリス』に相通じるものがある。即ち『地球の平和』はレムがこれまで生み出してきた作品のパッチワーク的な側面を持ち、悪く言うならセルフコピー、良く言うなら総まとめ的な作品となっている。

面白いのは執拗に描かれる「カロトミーによる右脳・左脳の対立」のエピソードと、「月面で進化した兵器」のエピソードとが、いったいどう関わっているのか?ということだ。正直単に「月兵器の攻撃により記憶喪失になった」だけでもいいものを、その前半部分に「右脳・左脳が闘争を繰り広げるドタバタ」をなぜ長々と描かなければならなかったのか?ということだ。

これは「分離されたことにより対立する二つのもの」という意味合いにおいて、「月世界に分離されたことにより地球と対立する進化兵器」という相似形を描き出そうとしたものなのだろうか。そうだとしても「右脳左脳の闘争」が後半部ではすっかり鳴りを潜めてしまい、やはりこれは必要のなかったパートだったのではないかと思わされる。巻末の解説ではレムが軍拡AIの物語より分離脳のお話を描きたかったらしいことが書かれており、最初はコミカルな分離脳のお話を書いていたのだが、次第に収拾がつかなくなってしまったのではないかと想像してしまった。

とはいえ、月面の不可思議な情景にしろ、クライマックスにおける恐るべき展開にせよ、レムの持つ凄みが決して失速しているわけではなく、本邦初訳の意義は十分果たした作品ではあろう。