オレもエル・ファニングに添い寝されたい〜映画『20センチュリー・ウーマン』

20センチュリー・ウーマン (監督:マイク・ミルズ 2016年アメリカ映画)


1979年のカリフォルニア州サンタバーバラを舞台に、息子との関係に悩むシングルマザーと二人を取り巻くアパ―ト住人たちとの心の交流、そしてそれぞれの人間模様を描いたのが映画『20センチュリー・ウーマン』だ。
まず主演となる3人の女優と彼女らの演じるキャラクターがそれぞれに個性的で魅力に溢れている。なんといっても主人公である母ドロシー(アネット・ベニング)だ。知性に溢れ好奇心旺盛でいつも明るく前向きであり、常にパワフルで息子への理解も深く、片親だからと言ってもなにひとつ遜色なく息子を育てている。新しい伴侶を求めているがあまりに完璧な彼女に夫など必要なのかとすら思えてしまう。
アパート住人アビー(グレタ・ガーウィグ)は音楽好きの写真家だが、体に悩みを抱えている。パンク/ニューウェーブ真っ盛りのこの時期に、ドロシーの息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)をクラブに連れてゆき音楽の楽しさを教え込む。アパートの近所に住むいつも気だるげな少女ジュリー(エル・ファニング)はジェイミーと幼馴染であり、いつも彼の部屋に忍び込んで添い寝してゆくが「セックスしたら友情は終わり」とジェイミーに堅く言いつける。
そんな3人の女性に囲まれた15歳の高校生ジェイミーは丁度反抗期と言うこともあってか母親とうまく行かない。そんな息子を心配して母ドロシーはアビーとジュリーに助けを求める、というのが物語となる。
全体的に感じたのはそれぞれの女性たちの心の機微を繊細に、かつ大胆に描いていることだろう。特にアネット・ベニングの溌剌として輝く演技の素晴らしさには個人的にアカデミー賞を上げたいぐらいだった。アビーとジュリーにしてもそれぞれに生き方を持ちながら悩みを抱える女性であり、演じるグレタ・ガーウィグエル・ファニングの存在感溢れる演技は素晴らしかった。また、全編を通じて流れるこの当時のパンク/ニューウェーブ系のロック・ミュージックが、同時代に現役で聴いていた自分には実に懐かしく、また嬉しいものだった。まさかスーサイドが流れるとは。
ただ、そんな女性たちに比べて男性の描き方がパッとしていないように思えた。息子ジェイミーは高校生にしては大人しすぎて、ヤンチャこそするもののなんだか周りの目を伺いながらのようにも見えてしまう。しかしこれは母子家庭にいる一人っ子というものが他よりも早く大人びてしまうからということなのかもしれない。フェミニズム本で頭でっかちになる部分は苦笑したがこの年齢ならではなのだろう。一方アパートの住人で元ヒッピーのウィリアム(ビリー・クラダップ)も男臭さに欠けているせいか存在感が薄い。ドロシーと恋が生まれるか否かといった展開もあるが最初っからキャラクター的にまるで合うように見えず、ドロシーのような女性に興味を持つようにすら見えない。
一番感じたのは15歳のジェイミーが性に対してあまりに淡白に見える事だ。魅力的な美少女ジュリーがいつもあんなに側にいてちょっかいを出してくるのに「友達だからセックスしない」と言われて大人しくしているなんてまるで説得力が無い。所謂草食系の走りだったのか?女性たちの性は奔放に語る物語なのに15歳の男の子の性欲は綺麗に描き過ぎじゃないか?15歳の少年なら頭ン中エッチのことでいっぱいなんじゃないのか?それともそんなドスケベな高校時代を悶々と過ごしていたのはオレだけだったのか?
ところで自分事になるがこのオレも母子家庭の生まれだ。しかし母親はこの物語のドロシーのように聡明でも闊達でも学識があるわけでもなく、仕事は水商売だったし家は貧乏だった。ドロシーは最高に素敵な女性だったが所詮シングルマザーでも問題なく生きていける成功者ではないか。そこには努力もあるからだが、70年代アメリカの豊かさと、そして運だってあるのだ。だから完璧な女性であるドロシーはオレには絵空事のような白々とした非現実さ、一歩譲っても自分とは関係ない世界の住人にしか見えなかった。そしてもしドロシーが自分の母親だったら、なんでもお見通しなその態度に辟易して話もしなかっただろう。一人にしてくれ、と思っただろう。
そしてもしアビーとジュリーのような女性がオレの近くにいたら、股間をパンパンにさせながら幼稚極まりない方法で求愛して見事に鼻であしらわれ、心を傷つけてとても不幸になっていただろう。アビーとジュリーぐらいの年代の、これまで沢山ボーイフレンドのいた女子だったら15歳の頭でっかちな童貞高校生なんて単なるガキかせいぜい可愛い玩具でセックスする相手じゃないからだ。でもリアリズムなんてそんなもんだ。

20センチュリー・ウーマン

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