■Pink (監督:アニルッダー・ローイ・チョウドゥリー 2016年インド映画)
この作品『Pink』は性被害に遭った女性たちを巡る裁判を描いた作品なのらしい。う〜ん、これは重そうだ。しかも主演がアミターブ・バッチャンで、彼が弁護士となるのだろうがポスターのこの怖い顔はいったいなんなのだろう。ひょっとしてアミターブ、被害者女性をよってたかって有罪にしてしまう悪辣な弁護士とかそういうイヤ〜ンな役柄なんだろうか。だとしたらこれは相当鬱展開のイヤイン(イヤなインド映画)かもしれんな……。と思いつつ観ていたら決してそういうことではなくて、アミターブ演じるデーパックは双極性障害(今は躁鬱病をこう呼ぶらしい)を患って弁護士を隠退した男という役柄で、だからこんなユーウツな顔つきなのらしい。
さてこの作品のユニークな点は、物語の中心となるべき「ある事件」を具体的に描かない、その時何があったかを一切本編映像として見せない、という部分だろう。映画を観る者は「ある事件」のその後の出来事、裁判における証言から「そこで何があったか」を想像するしかないのだ。
映画が始まるとまず頭に怪我をし血塗れになった男とその友人たち、それとは別に返り血を浴び何かに怯える3人の女たちが登場する。物語はその両者に何かがあったらしいことをモヤモヤとほのめかしながら、遂に男に怪我を負わせたとされる一人の女性ミナル(タープスィー・パンヌー)が殺人未遂容疑で逮捕される様子を描く。女たちはおまけに男たちに脅かされていて、それを見かねた近所の老人デーパック(実は元弁護士)が弁護を買って出る、といった内容だ。ただこの冒頭は、観る側としては何の映画か分かってて観てるわけだからちょっとまだるっこしい。
さて裁判が始まり男たちの側の弁護士が登場するが、これがまた分かり易いぐらい下品で愚劣そうな男で、この男が本来被害者である筈のミナルをあることないこと並べ立てて殺人者に仕立て上げようとする。しかしこの男の下品さ、愚劣さ、そして同情心の欠如と無関心さとは、女性を見下し性の道具としか関知せず、そして容易く言いなりにできるものと思い込んでいる数多の男の思考様式を象徴したものなのではないか。同時にこの作品は、女性であるだけで卑しめられ暴力を振るわれる多くのインド人女性の立場を描いたものではないかとも思う。
そんな中、女性たちを救おうと立ち上がったのがデーパックだった。彼がそうしようとした真意は特に描かれない。だが病床の中にいる妻の描写が挿入されることから、彼を生涯において慈しんできたものが愛する妻という女性だったから、そしてその妻の病の苦しみに自分がどうにも無力だったから、だからこそ自分の力の及ぶ範囲で別の女性を救おうとした、という理由がそこにあったのかもしれない。
このデーパックの答弁シーンがまた独特なのだ。よくあるような映画の裁判シーンでは、弁護士が快刀乱麻の弁舌を振るい一刀両断に真実に切り込んでゆく様子が痛快に描かれたりはするけれども、このデーパックは違うのだ。なんというか、それは流れる雲のように鷹揚として詩的ですらあるのだ。これは彼が双極性障害であることに起因するのかもしれない。その陰鬱さの中に取り込まれた彼の内面が、裁判における答弁の中で人間心理やその行動を、陰影に満ちた口調であぶり出してゆくのだ。彼は障害の闇の中にいるからこそ逆に、真性さという眩しいばかりの光を乞い求めていたのではないか。
そしてそんなデーパックを演じるアミターブが一世一代の名演技と言えるほどに素晴らしい。証人の、あるいは裁判官の前に立つ彼は、例のあの深いバリトン・ボイスでもって、真実とそして人間というものに対する深い同情心とを明らかにしてゆくのだ。それはどこかシェイクスピア舞台を観せられているかのような張り詰めた緊張感と重々しさに満ちたものだ。彼の眼は常に暗く淀んでいるが、それは過ちを容易く犯してしまう人間存在の不確かさへの憂いからであり、同時にまたそんな人間へ真性さを期待してしまう自省からだったかもしれない、そんなことまで考えてしまうような演技だった。