盲ろうの少女とその教師との心の交流〜映画『Black』【バンサーリー監督特集その2】

■Black (監督:サンジャイ・リーラー・バンサーリー 2005年インド映画)


「サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督週間」と勝手に銘打ってサンジャイ監督作品を集中して観ているが、今回観たのは2005年に公開された『Black』という作品。タイトルの「ブラック」は「暗闇」の意味であり、それは物語の主人公ミシェルが全盲・聾唖の「暗闇の世界」で生きていることを表している。物語はそんな三重苦の"暗闇"の中で生きる女性が希望という名の"光"を掴むまでと、彼女の支えとなり叱咤勉励し続けた一人の教師とのドラマを描く。主演はラーニー・ムカルジーとアミターブ・バッチャン

物語は盲ろうの女性ミシェル(ラーニー・ムカルジー)が病院に収容されたある男を訪ねるところから始まる。男の名はデーブラージ(アミターブ・バッチャン)、彼はかつてミシェルの恩師として、その人生を導いた男だった。しかしデーブラージは今、アルツハイマー症により全ての記憶を失っていた。時は遡り、インド北部の町、シムラー。そこに建つマクナリー家の豪邸にデーブラージが訪れる。彼がこの家で任されることになった8歳のミシェルは盲ろうであるばかりにまともな教育を施されず、まるで獣の様に暴れまわる少女だった。彼女に強硬的な態度で言葉を覚えさせようとするデーブラージにミシェルの父は解雇命令を出すが、デーブラージは「20日間で彼女を変えてみせる」と言い放った。

盲ろうという三重苦を抱えた少女が独特の指導法を持つ教師によって人生の新たなステージに立つ、というこの物語、もうお分かりになった方もいらっしゃるだろうが、実在の人物ヘレン・ケラーとその教師アン・サリヴァンとの関係を元にしており、監督自身もそれに言及している。この映画ではサリヴァンに促され水に触れたヘレン・ケラーが「わーらー(ウォーター)」と声を上げる有名なシーンもきちんとなぞられ、再現されている。しかし映画『Black』は「ヘレン・ケラー物語」の翻案というわけではなく、ヘレン・ケラーの人生にインスパイアされ脚色された物語として観るべきだろう。

例えばアン・サリヴァンはもともと彼女自身も障害を抱えており、20歳の時にヘレン・ケラーの家庭教師となるが、この映画の教師デーブラージはミシェルを任されたとき既に初老の男であり、その教育方法もどこか強引であったりするのだ(ちょっとスパルタ過ぎないかぁ?とも思ったが、まあそこは映画だから分かり易くしたんだろう、ということで)。そしてまた、教師デーブラージが男であったからこそ、ミシェルが彼に抱く思慕の念も恋愛感情に近いものとなり、そしてその恋愛感情が、長きに渡る二人三脚で歩んできた二人の信頼関係を壊してしまう。それは盲ろうの少女ミシェルが妹の結婚式に臨むことで、自らの女としての愛や幸福を自問したからこその結果であり、より物語を切ないものに変えてゆく。

このミシェルとデーブラージを演じるラーニー・ムカルジー、アミターブ・バッチャンの演技がなにより素晴らしい。杖をつきながらよちよちと歩くラーニー・ムカルジーの演技は痛々しさを通り越して鬼気迫るものすら感じさせるが、これは『バルフィ!』で自閉症女性を演じたプリヤンカー・チョープラーの息を吞むような演技を思い起こしてしまった。一方アミターブ・バッチャンについてはここで自分が称賛するまでもないのだが、覇気と精気に満ち溢れ、風の様に周りを巻き込んでゆく教師時代と、アルツハイマー症によって次第に衰えてゆくその後とのコントラストが絶妙であり、これも迫力に満ちた演技であった。また、子供時代のミシェルを演じる子役の凄まじい暴虐振りも括目すべきだろう。

そしてこの作品でもまたサンジャイ監督独特の美意識が炸裂する。冒頭のマクナリー家の内装は過剰なほどに所狭しと絵画や彫像が飾られ、それはシュールリアリズム画家ポール・デルヴォーの作品を想起させた。また、物語の舞台となる町はオールセットで組まれ、人工的な映像美を強調する。これらは物語世界をどこか無国籍で、さらに時代の曖昧なものとして提示する。これはサンジャイ監督作品『Goliyon Ki Raasleela: Ram-Leela』でも同様に感じたことだが、サンジャイ監督がこれらを強調するのは、どのようなテーマであれサンジャイ監督の目指すものがある種のファンタジーである、ということなのだろう。サンジャイ監督作品『Guzaarish』が全身麻痺と尊厳死を描きながら本質には優れた美術的空間があったように、この『Black』もまた、盲ろうという障害を描きながらその本質にはファンタジックなものを孕んでいるのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=Smd_xZHCCzI:movie:W620