告別 / 母のこと

告別

5日の朝、通勤中に妹から「実家の母が亡くなった」と電話があった。母と同居している弟は病院や斎場の対応をしているため代わりに電話してくれと言われたという。職場に事情を告げ、急いでアパートに戻り実家へ行く準備をした。オレの実家へ行くには飛行機で一日一便、それも午前中しかない。これを逃すと翌日だ。電車だと24時間かかる。しかしなんとか準備を終え空港へ向かい、飛行機に搭乗できた。午後には実家のある町に到着、そのまま斎場へ向かう。
母の病気は去年の10月に知った。突然の激痛に倒れて救急車を呼び、緊急手術がなされた。実家に飛んだオレが聞かされたのは母が末期癌だということだった。応急的な手術はされたが、転移が激しく年齢的に摘出手術は不可能なのらしい。この時は病室に見舞いに訪れたが薬剤で眠ったままの状態で、何を話すということもなかった。意識が戻った11月にもう一度実家へ行った。母はもっても今年中であり、会話の可能な今のうちに会ったほうがいいという主治医からの勧めだった。この時が生きている母と会った最後だったが、意識は半ば混濁しているようだった。結局母が亡くなったのは年明けとなり、よく頑張ったものだと弟は言っていた。
斎場に安置された母と対面して手を合わせ、弟と打ち合わせをした。入院してから殆ど付きっきりで看病にあたっていた弟は、母の余命を知っていたこともあり、母がやっと楽になれた、と達観した表情で話していた。そのうち今回のことでいろいろ手伝ってくれた、弟の知己にする仕事関係者が三々五々集まり、お別れ会となった。妹は夜になってようやく到着した。母の兄弟である叔父と伯母の到着は明日になるという。
母が長く無い、と分かった段階で既に葬式絡みの相談を弟と済ませていた。我が家はもとから無宗教であり、むしろ葬式宗教へは否定的だった。父もおらず、親戚関係は少なく、弔問も弟の仕事関係と母の数少ない知り合い程度であろうことから、密葬で執り行うことにしていた。通夜もなく、坊主も経も無く、当然戒名も位牌もなく、墓も作らず、火葬後は海洋散骨することにしていた。しかし必要最低限ではあったが、斎場の準備は十分なものであった。
翌日は朝から納棺、出棺、火葬となった。葬式に慣れていないオレは、納棺の際の儀式性が奇妙に物珍しかった。全ては亡者の"死出の旅"への準備を家族が行う、という流れになっていた。そして火葬場に向かい火葬となった。記事の最初にある写真は火葬場の前景の写真である。この日は友引と呼ばれる日で火葬場を利用するのはうちの家族だけだったが、もとより宗教も縁起も無視していたので気にしなかった。火葬後遺骨を拾い、骨壺に入れて実家に戻る。骨壺はオレが抱えていたが、中の遺骨は火葬の熱でまだ暖かかった。この遺骨は弟の意向で暫く実家に置くことになっていた。
その後は献花を飾ったりそれほど多くはない弔問客を相手にしたり、母の部屋の片づけを眺めていたり(残すものと残さないものの違いが分からなかったので弟に任せた)、夕方に叔父と伯母がやってきたので話をしたりしていた。そうして1日2日経ち、爆弾低気圧の影響で天候が大いに乱れて帰路の心配をしていたが、帰宅予定の金曜日には飛行機も飛び、母の遺骨と弟に別れを告げて東京に帰ってきた。以上が今回の大まかなあらましである。

母のこと

ここまで特に感情も交えず書いたが、これは別に感情を抑えていたのでも麻痺していたのでもなく、それほど大きく感情が動いていなかった、というのが正直なところだ。最初に母が治癒不能重篤な病床にあるのを知ったときはさすがにこたえたが、その後余命を宣告された段階で、残される者としてそういった運命を受け入れてしまったということなのかもしれない。それと併せ、自分が実家と疎遠であったこともあり、大きな感慨を覚えるに至らなかったというのもある。母の闘病生活は2か月ほどであったが、それでも長引くのは辛いことだっただろう。そういった意味ではやっと楽になったか、とも思う。むしろオレは実家で仕事を半ば投げ出して看病にあたっていた弟に申し訳なく思っている。
もうひとつ、自分がどこか母に親身になれなかったのは自分の母への悪感情があった。もとから気性が激しく気分屋であり、生活にしても金銭面にしてもだらしない部分のあった母親だった。子供の頃はよく衝突していたし、成人後もうんざりさせられることが多かった。それはもちろん、オレの性格的な偏りもあった。母はオレが10歳の頃に父の浮気が原因で離婚し、それ以来女手一つで子供3人を育てた。それは並大抵のことではないし、とても立派なことであろうと思う。それについては感謝に絶えない。だから母の様々な瑕疵は受け入れるべきだったのだろうとも思う。しかし一緒に生活しているとそれらが耐え難かったのだ。
母は自己憐憫の感情が強い女性だった。自分の間違ってしまった人生を常に憐れみそして否定し、悲劇の主人公を演じていた。オレは母のそんな部分が最も嫌いだった。それはそういった感情がオレ自身にもあるから、ということもあった。母の強烈な浪費癖はそんな心の隙間を埋めるためのものだったのだろう。ただそれは埋めても埋めても埋められるものではなかった。大きな滞納金があり、それをオレの仕送りや弟の稼ぎ、親戚への無心で補っていたようだが、それでも莫大な額だった。妹の支払っていた奨学金返済を使いこんでいたりもした。そして母のそうした部分を責めても言い争いになるだけだった。
今回のことで叔父や叔母と会い、母の生い立ちを聞かされた。既に亡くなっているオレの祖父、即ち母の父親は、当時地元で最も裕福な漁師の網元だったのだという。地元には広々とした豪邸が建ち、漁業だけでなく小規模ながら牧畜や農業もやっていたのらしい。獲れた魚介類はそのまま本州まで漁船で行って衣類などと物々交換していたと聞く。そういう時代だったのだ。母はそこでいわゆるお嬢様暮らしをさせられていた。しかし母が物心つくころに祖父は時化の海で事故死し、稼ぎ頭を失った家は大きく傾くことになる。叔父伯母からは相当な赤貧状態だったと聞くが、それでも母は祖母から例外的に大切に扱われていたという。
それを聞かされて、貧乏暮らしであったはずの母がどこかふわふわとした女学生趣味を持っていたことがどことなく腑に落ちた。母は本を読んだりお絵描きをしたり(「絵画」ではなく「お絵描き」なのだ)手芸をしていたりが好きだったが、それはそれら自体よりも、それをする自分が好きだった、いわゆる自己愛の延長でしかなかった。そしてその自己愛は、子供の頃に失われてしまった何不自由無い暮らしをもう一度なぞってみたかったからなのではないのか、と今にしてみれば思う。負債を抱えながら華美な服を買い込み着飾っていたのにもその一端があったのかもしれない。
母はどこかで現実を放棄し、それを否定して、自分の殻の中だけで生きていた。晩年の母は、呆けこそ無かったにもかかわらず、いつも虚ろな表情を浮かべていた。随分前から、廃人のようですらあった。抑鬱状態であったのだろうと思う。オレも弟も贅沢な暮らしさえ望まなければそこそこに生活できる援助はしていたし、オレは実家から相当の遠方に住んでいるためそれ以上のことはできなかったが、共に暮らしていた弟は母に惜しみなく愛情を傾けていた。しかしそれでも足りないもの、に対しては何もできないではないか。いや、それはオレの愛情の足りなさだったのか。今更悔いても仕方ないことだし、また、なにを言っても遅いのだけれども、母には、もっと早く自分の人生を見つけて欲しかった。
亡くなった後に母の荷物を片付けている時、沢山の昔の写真が出てきた。苦労の多い人生だっただろうが、子供と過ごしている時の写真はさすがに幸せそうだった。この写真はまだオレが3つか4つの時、写真館で撮ったものだろう。亡くなった者に対してあれこれ言うのはこれで止める。オレはこの写真の、輝く様な母とその幸福の時だけを胸に留めて、これから生きることにしよう。母よ、今までありがとう。安らかに眠ってください。