アメリカ人はツライよ〜映画『プリズナーズ』

プリズナーズ (監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 2013年アメリカ映画)


娘を誘拐されたオヤジが容疑者と思しき男を拉致監禁して「娘どこだゴルァ!」とボコりまくるというリーアム・ニーソン『96時間』みたいな映画です。『96時間』では主人公が元CIA工作員のスキルを生かして誘拐犯を追い詰めますが、この『プリズナーズ』では主演のヒュー・ジャックマンがアダマンチウム合金の爪を振り回しながら容疑者をなますに引き裂いてゆく、という『X-メン』展開が待ってるんですね。……とまあ全部冗談です。

まあしかし、おんなじ娘誘拐モノだったら『96時間』のほうが断然面白かったなあ、と思わせる長くて暗くて辛気臭くて鬱陶しい物語であることは確かです。暗くて長いからダメってことはないんですが、辛気臭くて鬱陶しい大元になってるのが、例によって欧米人大好きキリスト教的世界観によるものだからってぇのがまたぞろうんざりささせてくれるんですよ。

この作品ではキリスト教の・キリスト教的なモチーフが意識的にそこここに配されています。冒頭の鹿狩りにおける祈祷文の暗唱、信仰心篤い主人公、黙示録を恐れるかのような地下室の膨大な備蓄、飲んだくれ神父の背徳、禍々しくのたくる蛇、極め付けがなんかカルトなアレ、とまあキリスト教モチーフのオンパレードで、あとパズスの邪神像さえ出せばそのまま『エクソシスト』の続編として通用しそうなぐらい宗教ホラー的な様相を呈した物語となっているんですね。

別に宗教的であるのは全然構わないんですが、なーんであの人たちは宗教が絡むとこんなに暗くキツくなっちゃうのでしょうか。それと同時に、そんなに宗教心篤いにもかかわらず、なーんであの人たちはこうしていつも不安に塗れた生活しているのでしょうか。それともうひとつ、誘拐容疑者をいたぶっていたぶっていたぶりまくる主人公の行動に代表されるように、なーんであの人たちは博愛を元としているであろうと思われる宗教を持ちながら時として他者に対して苛烈極まる態度をとることができてしまうのでしょうか。

ある種の宗教が、博愛や隣人愛や道徳を説きながら、一方で他者や限定された集団に苛烈な行動をとることができるのは、それら博愛や隣人愛や道徳が、実は信教しているものの間だけ、つまり閉鎖されたコミニュティの中だけで成り立っているものであり、そのコミニュティの外側にあるものは容易く攻撃の対象になってしまうという強烈な排他性を持っている、ということなのでしょう。主人公が誘拐容疑者をナニするのは「平和なコミニュティを侵す"異邦人"」であるからなのだし、なんかカルトなアレが恐ろしいことをしでかすのも「我らがコミュニティの外は"異端"」でしかないからなのでしょう。これらは全てキリスト教が神の名の下に行ってきた歴史上の迫害や侵略、差別行為と通じているわけなんです。

そもそも現在あるキリスト教自体がその歴史の中で様々な"異端"を弾圧し排斥して成立しているわけですから、教義がそういった性格を孕んでしまってるのかもしれません。現行キリスト教成立の歴史は、いわば「権威」を確立させるための歴史であり、本来のキリスト教が持っていた性格と懸け離れた部分があるのではないか。その本来の部分、というのは自分はよく分からないのですが、博愛と迫害のダブルスタンダードを刷り込まれ、なおかつ近代合理主義の精神を持つ人間には、その信教の中で自己を乖離させてしまう、自己が引き裂かれてしまう、そういった状態に置かれてしまうということの結果が、欧米キリスト教圏の暗さ、キツさ、辛気臭さ、なのではないのかとオレなんかは思うんですけどね。