まだ見ぬあなたへ〜映画『めぐり逢わせのお弁当』

■めぐり逢わせのお弁当 (監督:リテーシュ・バトラ 2013年インド・フランス・ドイツ映画)

■映画のお話の前にダッパーワーラーとインドの弁当箱についてちょびっと。

『めぐり逢わせのお弁当』は配達された弁当箱の間違いから心の交流が始まる男女の話だ。しかしそういった物語の前に「弁当配達システム」というインドならではの文化の物珍しさが日本を含む他国の観客に興味を持たせるに違いない。

この「弁当配達システム」、約5000人のダッパーワーラー(お弁当配達人)が1日に20万個に及ぶ弁当を配達、さらに空き容器の回収・返却をしているのだという。仕出し弁当とか、食堂とか、(もしあるなら)コンビニの弁当でもいいじゃないか、と思われるかもしれない。しかしここにはインドならではのお国事情がある。インドでは宗教上の理由から肉食をしない者が多く、外食自体がままならないのだ。

「単に野菜を食べればいいんじゃない?」と思われるかもしれないが、ベジタリアンにも階層があり、乳製品はOKだったり、同じ野菜でも土の下から採れる野菜がダメだったりする。また、肉食であってもヒンドゥーイスラムでは食べられる肉が違い、調理する器具についても肉を調理したものは使えなかったりとか、さらに低カーストの作った料理は食べないとか、非常に細かい区分けがある。結局、最も信用のおける調理人は家族であり、それで「自宅で作った弁当を配達してもらう」という文化が発達したのだという。

「じゃあ朝早く作って持たせれば?」とも思うのだが…これについては想像なのだが、ダッパーワーラーの文化はインドの大都市ムンバイに根付いたものらしく、都市部ならではの仕事の忙しさがこうした形に結び付いたのかもしれない。インドの他の地方では朝早く起きてお弁当を作っている主婦もいるだろう。また、特に禁忌がなくとも、この作品の主人公のように単なる「弁当屋の作った仕出し弁当」が便利だからとダッパーワーラーを利用している者もいるだろう。

もうひとつ、この映画で興味を持ったのは「金属の丸い容器が幾つもお重のように重なった弁当箱」だ。この弁当箱、やはりインド映画の『スタンリーのお弁当箱』(レビューはこちら)で見かけたが、実に合理的な作りだなあ、と思った。まず料理が別々に入るので味や匂いが混ざらない。詰め込む必要が無いから料理がべちゃっとくっつかない。そして汁物がOK。さらにタワー型なので携帯が楽。この辺、日本の弁当箱の不満を全てクリアしている。ただし金属なのでレンチンは厳しいかもしれない。

■という訳で『めぐり逢わせのお弁当』。

さて話を戻して『めぐり逢わせのお弁当』だ。この映画は「誤配達が600万分の1の確率でしか起こらない」ほど高度にシステム化されている筈のダッパーワーラーが、その600万分の1の確率で起こったお弁当の誤配達によって始まる物語だ。お弁当を作ったのはムンバイに住み、夫と一人の娘の家族がいる主婦イラ(ニムラト・カウル)。イラの作ったお弁当が誤って届けられたのは、保険会社の会計係で、既に妻を亡くし、自らも早期退職を考えている男やもめサージャン(イルファン・カーン)。

イラは最近自分のことを全然振り向いてくれない夫の気を引こうと、腕によりを掛けた弁当を作ったつもりだった。けれどもその弁当はどうやら見知らぬ人間に届いたのらしい。しかし、その弁当を残さずきれいに食べてくれた"誰か"へのお礼と、その人物への好奇心から、彼女は次に作るお弁当にこっそり手紙を仕込む。こうしてイラとお弁当を誤配されたサージャンとの間で、お弁当箱を通じた奇妙な文通が始まり、二人は次第にそれぞれの心情を吐露し始め、そしてお互いの気持ちは近づきつつあった。

この物語でイラとサージャンに関わる人物たちがまたユニークだ。イラにいつもアドバイスをよこす同じアパートの"おばさん"はいつも声だけで画面には全く姿を現さない。声だけだがこのおばさん、威勢がよく温かで、専業主婦であるイラの心の拠り所になっていることを伺わせる。一方サージャンの元には退職による後任としてシャイク(ナワーズッディーン・シッディーキー)という男が現れる。サージャンは最初このシャイクを鬱陶しげに扱うのだが、次第にその屈託の無さから、彼の結婚式に参列するまで仲が良くなる。

それぞれの人間関係はそれぞれの日常を浮き上がらせる。そしてそこで分かるのは、それぞれの印象が最初とは逆転している、ということだ。男やもめサージャンは最初孤独で人付き合いの苦手な男のように描かれるが、実際は後任の男ときちんとしたコミュニケーションをもち、妻の死も彼なりに受け入れて今日という日常を生きている。一方、 夫と娘に囲まれ何不自由ない家庭生活を送っているように見えるイラのほうが、実は専業主婦の逃げ場のない孤独におり、寝たきりの父とそれを介護する母、さらに夫の浮気の疑惑、という不安を抱えて日々生きていたことが明るみになるのだ。

一見孤独な男と甲斐甲斐しい主婦との心の交流のドラマに見えたこの作品は、実は一人の一般的な社会生活を営む男と接することで自らの心の空洞を見つけてしまった女の物語だったのである。妻に先立たれた味気ない人生を、寂しくはあっても諦観しながら生きていたサージャンよりも、イラの孤独と焦燥はまさに現在進行形のものであり、より切羽詰まったものだったのだ。だからこそ、「この状況を変えたい、新しい人生を生きたい」と強烈に希求するイラは、サージャンに「私たちは会うべきだ」と積極的に声を掛けるのだ。

こういった、一人のやもめ男と孤独に悩む専業主婦との出会いは、ともすれば「不倫」という背徳的な話へと流れていきそうだ。だがこの物語はそういった逸脱を決して善しとはしない。実はインド映画は性愛や背徳の描写に非常に厳しく、キス・シーンですら画面に現れることは殆どない。しかし、だからこそ人の精神性の在り処を純粋に描こうとすることに最大限腐心するのだ。この物語は一組の男女のプラトニックな心情の行く未を描くが、プラトニックであればこそ、自らの気持ちとどう対峙し、「自分は今、どう生きるべきなのか」を真摯に考えようとする。それがこの映画の美しさであり、そして切なさなのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=e8cwv0oYMB0:movie:W620