若きP・K・ディックがルサンチマンの咆哮を上げる幻の処女純文学小説〜『市に虎声あらん』

■市に虎声あらん / P・K・ディック

市に虎声あらん

アカ狩りがはびこりレイシズムとセクシズムの壮絶な暴力が横行する街。核戦争の恐怖に覆われた末世澆季、ハルマゲドンを預言する黒人カルト教祖の荘重な声が響き渡る…異常なまでの外見偏重とその裏返しの内面の歪み、肥大化した自我のケダモノと化した青年の破滅と現実への帰還を描く「カフカパルプ・フィクション」。ディック二十五歳の処女作。あまりの過激さゆえ長く筐底深く沈めることを余儀なくされ、死後四半世紀を経てようやく日の目をみた問題作。待望の日本語版。

I.

若い頃、SF小説は割とよく読んでいたが、中でもP・K・ディックのSF小説が一番好きだった。『ユービック』、『火星のタイムスリップ』、『パーマーエルドリッチの三つの聖痕』、どれも現実感覚がいびつにねじ曲がってゆく様に興奮させられた。ディックのSF小説は相当の数があるが、名作凡作含め、清濁併せ呑むつもりでだいたいは読んだのではないかと思う。そんなディック・ファンのオレではあったが、ディック晩年の、『ヴァリス』をはじめとする宗教的なヴィジョンに彩られた幾つかの"問題作"はやはり苦手だった。それと、実はSFではなく文学小説家を目指していたというディックの、非SF作品にもどうにも退屈なものを感じ、やはり苦手だった。

そんなディックの、”幻の処女長編”が刊行されるという。まだSF作家として身を立てる前、若干25歳のディックが書き上げた非SFの純文学作品で、しかしどの出版社からも「こりゃ売れないね」と断られ、これまで日の目を見ることのないまま、ディックの死後4半世紀を経てようやく出版に漕ぎ着けたという作品なのだという。ディック・ファンのオレとしても、これまで未出版だった非SFというだけで二の足を踏むような作品ではある。しかしこの失敗によってSF作家に転身し、赤貧の中でドッグフードを食らうような生活を送りながら、いつしか超絶的なSFヴィジョンを完成させ成功していったディックの、その「ルサンチマンの核」が、この処女長編には存在していそうな気がして読んでみることにしたのだ。

II.

翻訳タイトルは『市に虎声あらん』。これで「まちにこせいあらん」と読む。「しにとらごえあらん」ではない。物語の舞台はこの作品が書かれたのと同じ50年代の、アメリカ・サンフランシスコ。主人公ハドリーは若くして身重の妻を抱え、町の小さな電気店の、しがない店員として糊口をしのいでいたが、その心の内には常に名指し難い不安と混乱、寄る辺なき飢餓感と惨めさを抱えていた。そんなハドリーはある日、町にやってきた黒人巡回説教師の説教を聞き、自らの不安と混乱を説明する鍵はその教義の中にあるのではないかと思い込む。妄念に取り憑かれたハドリーは、黒人説教師を中心とする宗教団体に近付くが、そこで出会ったのはレイシストを公言しながら黒人説教師と同棲する白人の女だった。女との出会いにより一層精神が不安定になったハドリーは、遂に仕事も結婚生活も投げ打ち、自滅と救済の両方を乞い求めながら、茫漠たる夜の闇の中に遁走してゆくのだ。

若書きである。鉄板の若書きである。ここにあるのは失敗した青春を運命付けられた若者の、狂えるルサンチマンと逡巡である。世間知らずでちっぽけなプライドを押し潰され、幻滅の中で生きざるを得ないことを思い知らされた者の、血を吐くような咆哮である。主人公のそのオブセッションの根源は、「自分は本当は、こんなところで生きるべき人間じゃない、自分は本当は、こんな人間じゃなかった筈なのだ」という、青春期の若者が陥り易い自己否定であり現実否定である。それはどこまでも痛ましいけれども、同時にどこまでも甘っちょろい現実認識である。

この作品の主人公の想いと性格と生活ぶりは、そのまま当時の若きディックを反映したものとみて間違いない。知的で洗練されたユースカルチャーの洗礼を受け、洋々たる理想と将来を夢見ながら、現実には物語の主人公と似たような、しがないレコード店店員でしかなったディックの、あらんかぎりの呪詛と悲嘆がこの作品には詰まっている。そして、その思いのたけの詰まった作品が、「売れない」の一言で全否定される。その時、ディックの胸に去来した失意はいかほどのものであったのか。

III.

その失意からディックは、一般から見るなら粗雑で低俗なSF雑誌の、売れない三文ライターとしての生活を始める。その生活は極貧を極め、長年その生活は好転しなかったという。しかしそこで生み出された作品群こそが、卓越した想像力と驚くべき幻視によって構成された、あの綺羅星の如きSF作品だったのである。つまりこの『市に虎声あらん』の失敗こそが、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を生み、『高い城の男』を生み、『ダーク・スキャナー』を生み、そして最後に問題作『ヴァリス』3部作へと高められていったのだ。人生とはこと皮肉なものだが、ディックの人生もまた、数奇なものであったと言わざるを得ない。

ではこの『市に虎声あらん』は、ディックが望まぬSF作家としてデビューする前の、単なる失敗した足掛かり、意味の無い駄作だったのだろうか。実はそうではないのだ。解説でも同様なことが書かれているが、「処女作にはその作家の全てが詰まっている」とよく言われるように、この『市に虎声あらん』には、その後のディックの、様々な要素がたっぷりと詰まっているのだ。幻滅と失意に満ちた人生を送る主人公、強大かつ眩惑的な(つまりは宗教的な)ヴィジョンを提供する絶対者の出現、その絶対者に対峙した主人公が至る認識の変容、そしてクライマックスに用意される、現象世界と認識世界の崩壊。これらは全て、『市に虎声あらん』の中に余すところなく網羅されているのだ。つまりはディックSF小説の【元型】が、この『市に虎声あらん』に既に花開いていると言えるのである。文学として表現されたなら青臭い若書きとなるテーマが、SF作品としてそのテーマを相対化した時に、初めてえもいわれぬ醍醐味を生む。これはどんな文学創作でも有り得ることではないだろうか。そしてSFとは、時としてその相対化作業の中で作品の価値を高める文学でもある。

ディックの処女純文学作品『市に虎声あらん』は決して失敗作ではない。それは、ディックがディックになる為の、必然の経緯として書かれた作品だった。確かにディックを何も知らない方が読めば、よく書かれた青春小説程度の物ではあるかもしれない。しかしディックのSF作品に魅了され、その作品の虜になった事がある方なら、この作品の中に溢れかえる、若きディックの懊悩に、その眩惑と混乱に、大いに心動かされることに違いない。ディックを愛したことのある方にこそお勧めしたい、そんな作品だ。