全体主義の生み出す無自覚という名の悪〜映画『ハンナ・アーレント』

ハンナ・アーレント (監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ 2012年ドイツ/ルクセンブルク/フランス映画)


ハンナ・アーレント。実はどういう人物なのか知らなかったので、不作法ながら、はてなキーワードをそのまま丸写しにしてみる。

政治思想家、政治哲学者。1906年、生まれ。1975年、死去。ドイツ生まれのユダヤ人。マールブルク大学でハイデガーに、ハイデルベルク大学ヤスパースに、フライブルク大学でフッサールに師事、哲学を学ぶ。1933年、ナチスの迫害を逃れてフランスへ、41年にはアメリカ合衆国へ亡命。20世紀の全体主義を生み出した大衆社会を考察した。

映画『ハンナ・アーレント』は、この彼女を主人公に、ナチス戦犯アイヒマン逮捕とその裁判、それを傍聴したハンナが記したレポートの生む様々な波紋を描いた作品である。

1960年代初頭、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが逃亡先で逮捕される。アイヒマンは第2次世界大戦中、数百万のユダヤ人を収容所に送ったナチス親衛隊将校だった。かつて自らも収容所で苦しめられた経験を持つユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、裁判を傍聴するためアメリカからイスラエルへと発つが、そこで目にしたものは裁判とは名ばかりのスケープゴート叩きでしかなかった。そして被告席に座るアイヒマンは、残虐な殺人鬼でもなんでもなく、ヒトラーの命令通り動いた単なる平凡な人間だった。ハンナは感じたままにその裁判レポートをニューヨーカー誌に寄稿するが、そこにユダヤ人指導者がナチスに協力していたという新たな事実を付記したことで、世界中から大批判を受けることになってしまうのだ。

ハンナの主張する所は実に明確である。戦犯アイヒマンは血に飢えた悪魔でも狂った獣でもない。彼はナチスドイツのその政治機構の中で、一介の小役人として愚直に職務をやり続けた"陳腐な"凡俗に過ぎない。彼自身に何がしかの罪業があるとしたら、その「職務」にあまりに無自覚で無感覚であったことだけだ。その無感覚さが結果的に多くのホロコースト犠牲者を出したとはいえ、一つの歯車として生きていた男にいったい何ができたというのか。そしてまた、一つの歯車として生きることのみがその社会で生き残ることなのであれば、そこから逸脱することがいかに困難なことであるのか。人は自らが歯車であると自覚した途端、全体の機構に奉仕するため、その思考を放棄し、無感覚になる。別の言い方をするなら、思考を放棄し、無感覚にならなければ、人は歯車として生きられない。そしてそれこそが全体主義国家の生み出す「悪」の根源なのだ、とハンナは主張したかったのに違いない。

ではなぜハンナは、アイヒマンを断罪したその返す刀で、アイヒマンに協力したユダヤ人指導者をも断罪しなければならなかったのか。それはアイヒマンが「悪」へと至った無感覚への構造が、アイヒマンに協力したユダヤ人指導者にもやはり同じように当てはまってしまうからだ。アイヒマンと同じく、ユダヤ人指導者たちでさえ、自らの協力行為という名の職務が、結果的にどのような「悲惨」を生むかを自覚していたら、そのような協力はしなかったはずであろう。その協力の拒否は自らの命に関わることであったのだろうから、結果的にそれがさらに多くの犠牲者を生み出す要因になったのだとしても、一概に断罪できるものではない。しかしハンナが真に断罪しようとしたのは、その「悪」を生み出す「構造」そのものなのである。ナチスドイツでもユダヤ人指導者でもない。人はその「構造」に、愚かにも容易く取り込まれ、そして容易く無自覚になる存在である、そのことに、ハンナは警鐘を鳴らしたかったのだ。

そしてこれは単にナチスドイツと全体主義国家のみに留まる話ではない。なにがしかの組織や社会の、そのシステムに組み込まれた時、己を単なる歯車として認識し、思考を放棄し無感覚になる、それにより何がしかの事故や争議があったとしても、個人として一切の責任を感じない、そんなことは、今のこの社会でもそこここで起こっていることではないか。こうしてハンナの言う「悪」はどこにでも遍在するのだ。

ただし映画として観た時、ハイデガーとの出会い、夫との愛多き生活、戦犯アイヒマンの裁判傍聴、その裁判記録による波紋など、ハンナ・アーレントという人物について多くのことを盛り込もうとしたばかりに、散漫な印象になってしまったことは否めない。ラストもどうにももやもやしつつ終わる。やはりここは彼女の哲学と思索が明快に結実したシーンをクライマックスに持ってきて(あることはあるのだが)、彼女の功績を華々しく讃えながら幕引きすることが映画的にはベストだったのではないか。

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

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人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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