あの時、僕らは幸福だった。〜映画『ムード・インディゴ〜うたかたの日々』

■ムード・インディゴ〜うたかたの日々 (監督:ミシェル・ゴンドリー 2013年フランス映画)

I.

自分がボリス・ヴィアンを耽読していたのは10代後半から20代にかけてだろうか。最初に読んだのは『赤い草』だったが、これが衝撃的だったのだ。その後、読破こそできなかったが、ハヤカワの全集を買い求め、幾つかの長編と短編を、時に驚嘆しながら、時に首を傾げながら読んでいた(時々ワケがわからなかったのだ)。その中で読んだ『うたかたの日々』は、「20世紀で最も悲痛な恋愛小説」という評価とは裏腹に、異様なほどの狂騒とアイロニーに満ちた作品だったと記憶している。
今回ミシェル・ゴンドリーにより映画化された『ムード・インディゴ〜うたかたの日々』の原作『うたかたの日々(「日々の泡」というタイトルの訳本もあり)』は、ロマンチックなファンタジーであると同時に、アバンギャルドアナーキーな描写がふんだんに盛りこまれ、さらにそこにシニカルでニヒリスティックなスパイスがたっぷり振り掛けられている作品だったのだ。そんな一言では言い表せない破天荒さに満ちたこの原作を、フランス製のお洒落なラブロマンスと期待して読むと痛い目に遭うだろう。それは例えばルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』がファンタジックな児童文学の体裁をとりながら、実はメタフィジカルな言語遊戯の塊であるのと似ている。

II.

ボリス・ヴィアンの殆どの著作にも共通するが、『うたかたの日々』の驚嘆すべき点は、そこで描かれるモノ=物質が、あたかも命を宿し意思を持っているかのように、うねうねと形を変容させ動き回るということだろう。それはアニミスティックなものというよりは、「世界」を見る者の主観と連想と無意識が、そのまま現実の出来事のように描写されているということなのだ。
そしてこの映画では、ミシェル・ゴンドリーの定評ある映像マジックにより、それをほぼ忠実に再現し、ファンタジックでシュールな原作描写を完璧といっていいほど見事に映像化することに成功している。その描写が時として「ワケが判らない」ものだとしても、それは物語主人公の主観であり連想であり無意識であると認識してみると、意外とすんなりと腑に落ちるのだ。
例えば刺すような日差しは本当に刺さってくるし、スケート場の放送係が鳥の顔をしているのは、いつもピーチクパーチクさえずっているかのようにアナウンスしているからなのだろうし、結婚式場で主人公とクロエが水中を歩くのは、宙を舞っている、水中の中のような濃厚な空間にいる、というふうにとれるし、病床のクロエの部屋がどんどん縮んでゆくのは、病の息苦しさや陰鬱さを表しているのだろう。もちろん、原作も含めこれらの描写に全て解法を求めるのもまた野暮であり、シュルレアリスム手法であるオートマティスムやデペイズマンをそこに見出し自由さを楽しむ、といった観方もまた出来るのだ。

III.

物語だけ取り出してしまうとこの作品は「難病悲恋モノ」でしかない。一組の男女が出会い、幸福の絶頂の中で結婚するが、妻は難病に倒れ、夫は看病に尽力するが、病状はどんどん悪化して行き…というものだからだ。しかしこの物語が「難病悲恋モノ」のテンプレ通りの物語であるにもかかわらず、実際描かれているものは全く違うものであることは観た方なら誰もが判るだろう。いわばこの物語は「難病悲恋モノ」をベースとしながら、その状況の中で立ち現れる主人公の情動を、どれだけアバンギャルドアナーキーな描写でもって描くことが出来るか、といった挑戦めいた物語であり、ある意味メタな恋愛ドラマとして捉えることも出来るのだ。そしてこのようなベタでしかない骨組みの物語を、唯一無二の透徹したユニークさで描くことにより、凡百の悲恋モノを遥かに凌駕した、天にも昇るような幸福と、海の底に沈むような悲痛さを描写しつくしたものとして、この映画は完成しているのだ。
そして表向きファンタジックなラブストーリーといった体裁であるこの物語の裏側には、全ての夢想が厳粛たる現実によって完膚なきまで叩き潰される、といったモチーフが隠されいる。冒頭での主人公は悠々自適の資産家として愉快で楽しい毎日を過ごしている。しかしここでの金持ちのボンボンとは単に記号であり、これは文学と音楽とそして恋することを心から愛した、作者自身を含む当時のフランス人アーティストたちが謳歌したボヘミアニズムのアナロジーであるような気がしてならない。物語後半では資産を失った主人公が、妻の医療費を工面するために異様な労働を強いられる場面が描かれる。これもニートが初めて仕事して涙目でした、ということではなく、夢や才能を持ち、自由さや変化への希望に溢れた若者たちが、冷徹な現実の壁に立ち塞がれ、その夢を次々に失ってゆく、という悲痛さが描かれていたのではないか。そして物語では、愛さえもまた困難な暗い道を辿る。ある意味この『ムード・インディゴ〜うたかたの日々』は、ボヘミアンたちの悲しきルサンチマンについての作品だということもできるのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=Kc5wynO7tA8:MOVIE

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

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日々の泡 (新潮文庫)

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