残念な一家の一代記〜『残念な日々』 ディミトリ・フェルフルスト著

残念な日々 (新潮クレスト・ブックス)

生まれたての息子を自転車の前の郵便袋に入れ、馴染みの飲み屋をめぐって友だちに見せびらかして歩いた父。ツール・ド・フランスさながらの酒飲みレースに夜な夜な血道を上げる呑んだくれの叔父たち。甲斐性なしの息子どもを嘆きつつ、ひとり奮闘する祖母。ベルギー、フランダースの小さな村での、貧しく、下品で、愛情にみちた少年時代。最初から最後まで心をわしづかみにして離さない、びっくりするほどチャーミングでリリカルな、フランダース文学の俊英による自伝的物語。金の栞賞、金のフクロウ文学賞読者賞、高校生によるインクトアープ賞受賞作。

残念だ残念だ!とってもとっても残念だ!ベルギーの作家、ディミトリ・フェルフルストの連作短編集『残念な日々』はとっても残念な一家が現われてとっても残念なことばかりしでかし、とっても残念な日々を送るという残念尽くしの物語である。
いったい何がどう残念なのか?というと、なにしろこの主人公一家、逆さにしてもダニしか落ちてこないほど貧乏三昧、にもかかわらず誰一人働く気もなく、当然お家はボロボロの荒れ放題、着ているもんだっていつ洗濯したか分かんないようなボロばっか、でもそんな生活をしているくせに酒を呑むことだけはとことん大好きで、毎日毎日正体不明になるまで呑んで酔っぱらって這いずり回って帰ってくるという、なんというかもうどうしようもなく残念無念な人たちばかりなのである。
物語はそんな彼らのしょーもない生活とサイテーな日々を描くのだが、最初「どうなってんだよこの人たちは!?」と呆れ返るやらドン引きするやらで読んでいたものが、読み進むにつれ段々と、彼らがチャーミングに感じてくるから不思議なものだ。貧乏生活から生まれるユーモアとタフネスさ、そしてなにより強い団結力から生まれる家族の絆がそう感じさせるのだ。どんなに貧乏こじらせていても、「なんとかなるさ」の明るさと根拠の無さで、その日その日を楽しく生きてしまう、決してメソメソ悲嘆したり、グヂグヂ愚痴をこぼしたりしないのだ(まあ罵声と卑猥な言葉は存分にがなり立てるが)。
別に貧乏が正しいとか美しいというわけではない。貧乏はやっぱり嫌だし讃えるもんでは決してない。要はへこたれないこと、負けないこと、楽しく生きること、そして家族をたっぷり愛することなんだ(まあちょっと酒は呑み過ぎだとは思うんだが…)。そんな彼らの生きる気概が溢れていて、そして十分にインチキで愉快で、ケセラセラっで毎日を生きる、そんな所がたまらなく愛おしい物語なんだ。
ただ、やっぱりそんな生活にも変化が訪れ、章を追うごとに、ある者は老い、ある者は亡くなり、ある者は結婚して新しい生活を営み始める。全ては変わっていき、なにもかもが今迄通りというわけではない。貧乏こじらせたしっちゃかめっちゃかの親戚たちとしっちゃかめっちゃかの生活をしていた主人公の少年も大人になる。その時、ふと過去を振り返った時のアイロニーがまた胸に迫る。そして酒を呑むこと、煙草を吸うことへのシニカルな台詞が同じ呑兵衛&煙草のみのオレにも心に刺さる。

もう二度と飲まない。二度と、二度と。本当に決して二度と。なんとも悲惨な言葉、「二度と」。ネバー、ジャメ、ニー、ハマス。(p125)
タバコ。タバコに火をつける。そこから始める。ニトロサミン、ホルムアルデヒド、ニコチン、ベンゼンから成る僕の有害な祈祷なのだ。(p153)
酔っ払うのが俺の運命であり楽しみで、趣味は愚か者のものだからありません。(p233)

こういった、成長することによって振り返ってみた過去の自分、そして野放図な親戚連中への懐かしさと奇妙に苦い思いがラストに待っている。残念だったけど懐かしく、愛おしい、これはそんな主人公の複雑な想いもこめられた物語だったのだ。

残念な日々 (新潮クレスト・ブックス)

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