それでも僕らは生きることも愛することも止めることはできない〜コミック『皺 shiwa』

■皺 shiwa / パコ・ロカ

I.

人の生は不条理に満ちている。生きている為には食べ続けなければならない。そしてどんなに食べようと食ったものは排泄され、また腹は減る。そしてその為に多くの人は望もうが望むまいが働かなければならない。そして人は子供を残す必要を感じようが感じまいが、性欲と言うものに振り回され、時としてそのせいで不幸や悲しみに堕ちる事がある。実はこれら全てこそが「生きている」ということであり、その中から幸福は生まれるのだろうけれども、そういった「肉体性」が煩わしく感じることもまた多いのだ。それは人間は「肉体性」だけで生きているわけではなく、「観念」を兼ね備えた生き物だからだ。食って寝て排泄して、ある意味動物のようにそれだけで生きられたらそれはそれで幸福なのかもしれないが、人としての、人であることの「観念」はそれだけであることを善しとしないのだ。こうして「肉体性」と「観念」が乖離するからこそ、人の人生は不条理なものになる。

なにより「死」が不条理だ。そもそも、生き物は、死ぬものだ。だから人の死もまた、生物として、種としての新陳代謝なのだ、ということは頭では分かるが、しかしだからと言って、決して死を手放しで受け入れられるものではない。もちろん、どんな人間であろうと、生まれた時から「死」は運命付けられている。「死」を逃れられるものはいない。しかしそれと同時に、「自分の死」を体験できる者もいない。体験できたときには既に死んでいるのだから。だから実は、「自分の死」は抽象的な出来事としてしか捉えることが出来ない。にも関わらず、自分がいつか必ず死ぬことだけは分かっている。ここでも「肉体性」と「観念」とが乖離を起こす。だから「死」は、不条理なのだ。

それと同時に、「老いる」こともまた不条理だ。どんなに肉体を鍛錬しようと、どんなに知識を蓄え知力を研ぎ澄まそうと、歳を取る毎にそれは段々と衰えていってしまう。個人差はあろうとも、ある峠を越えると、体力も知力も、坂を下ってゆくように落ちていってしまう。衰えを食い止める為にあれこれやることは出来るだろう。それが無駄なことだとは決して言わない。しかしそれでも若かった頃のピーク時と同じレベルまで戻ることは無い。生物の細胞は老化する。それはそのように機能付けられているからだ。老いることは生物としての宿命だ。そこには努力だの鍛錬などではどうしようもない限界がある。どんな努力も鍛錬もいつかは失われてしまう。にもかかわらず人間には、肉体と精神が思うがままに操れた時代の記憶があり、その落差を、やはり不条理だと思うだろう。

II.

自分は今年で49歳になる。来年はもう50、つまりは半世紀と言うことだ。この年代は壮年期と表現されるのだろうが、自分としては、もうすっかり若くは無い年代だとしか思えない。老年と言うほどではないけれど、「自分も歳を取ったな」と如実に感じられる年代なのだ。もともと体力は無いほうだけれど、体のあちこちには次第にガタがきはじめているのは分かるし、若かった頃よりも記憶力や精神的な反発力、即ち知力が次第に衰えてきていることを感じるのだ。病気で体が言うことが利かなくなったり、日常生活に支障をきたすのは怖い。しかしそれと同等か、ある意味それ以上に、自分の頭が使い物にならなくなってくるのが怖い。例えば運よく80歳まで生きられたとして、自分の寿命はあと30年。しかしその30年の間に、自分の頭がすっかり呆けてしまって、自分が誰かさえ分からなくなってしまうようなら、その、あと30年の寿命さえ意味が無くなってしまう。自分が誰かさえ分からなくなってしまった時、その時が人の本当の寿命なのではないのかとすら思う。それはあと何年後のことなのだろうか。

スペインのコミック・アーチスト、パコ・ロカの作品『皺 shiwa』は、ある男が老人ホームに入るところから始まる。既に認知症の兆候が出始めていた彼は、老人ホームで自分と同じく呆け始めている様々な老人たちと出会う。相手の言葉を鸚鵡返しで言うことしかできない老人。自分がオリエント急行の旅をしていると思い込んでいる老人。いつも家族に電話しなければ、と気にしている老人。一人ぼっちになると火星人にさらわれると思い込んでいる老人。その中で、今だ気持ちの頑健なある男と友人になった主人公は、彼の忠告で本当の"呆け"になることを回避するために様々なことを試すが、しかし、アルツハイマーの病は既に彼を蝕み始めていた。

III.

次第に自分が自分でなくなってゆく。自分で自分のことが出来なくなってゆく。自分が誰で、自分が何をしているのかが分からなくなってゆく。友人の顔も、家族の顔も、伴侶の顔も、みんなみんな、忘れ去ってゆく。そして仕舞いに、動くことも出来ず、考えることも出来なくなくなり、ただ、座って息をしているだけの、ただ生きているだけの、肉の塊になってゆく。そこでは、既に、"自分"であることすら消滅している。

パコ・ロカの『皺 shiwa』は、親しみやすい描線と暖かい色彩で、認知症に罹った老人たちと、一人の老人の、アルツハイマー発症までを描いてゆく。その物語には、希望は無い。しかし、この物語は、ただ、希望の無さのみを描いたものではない。自分がこの物語を読んで、最も感じたのは、その切なさだった。

どれだけ健やかに生きようと、人々に愛されようと、世間に何がしかの功を成そうと、どれだけ世界中の知識を集めようと、どれだけ財産を持とうと、人は必ず老い、そして死んでゆく。どんな人間であろうとそれは避けられない。そしてその中の、あるパーセンテージの人々は、認知症を発症する。自分が自分で無くなり、自分が誰なのかが分からなくなってゆく。それはなんと不条理なことなのだろう。生とは、なんと不条理なものなのだろう。しかしそれを知りながらも、人は、生きることを、前向きに生きてゆくことを止めることはできない。より良く生き、より良く人を愛することを止めることはできない。なぜならいかに不条理であろうと、それが、「生きる」ことだからだ。いつか老いさらばえ、自分が誰なのか分からなくなる日が来ようとも、自分はまた明日を健やかに生き、そしてあなたを愛するだろう。それをきっと止めないだろう。そうしてゆくことだけが、生きる喜びを確かめるられることなのだから。

息子夫婦に連れられ、老人ホームに入ることになった元銀行員のエミリオ。そこでは、たくさんの老人たちがそれぞれの「老い」を生きていた。やがて彼らは「アルツハイマー」という残酷な現実と向き合うことになり……。大切な人の顔も、思い出さえも、なにもかもが失われていくなかで、人生最後の日々に人は何を思うのか――。
まさに一本一本刻まれた「しわ」のように、さりげない描写を静かに積み重ね、2007年にフランスで刊行されるや話題となった表題作『皺』の他、スペイン内戦を背景に灯台守の老人と青年兵士の交流を描いた短編『灯台』を収録。

皺 (ShoPro Books)

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