ハイチ独立のもうひとつのドラマ〜『この世の王国』 / アレホ・カルペンティエル

この世の王国 (叢書 アンデスの風)

この世の王国 (叢書 アンデスの風)

カリブ海に浮かぶ国、ハイチ。ヴードゥー教が未だ根強く生き伸び、異様な熱気の充満する大平原…。本書は、松明の炎と呪咀の叫びの交錯する中、自由と独立を渇望する闘争が壮絶に繰り広げられるかの地での神話的〈現実〉を、巧みな語り口によって大胆に描く、暴力と死に彩られた専制の興亡史である。

ハイチの歴史はとても興味深い。1804年、革命によりフランスの植民地支配から独立したハイチは、世界初の黒人による共和制国家なのである。当時奴隷による叛乱は数多くあったが、独立が成功したのはこのハイチだけなのらしい。しかもこの独立はフランス革命に乗じたものだというのが面白い。しかし白人から独立したハイチは、黒人が黒人を奴隷とする奴隷社会を作ってしまう。しかも白人は奴隷を殆ど殺さなかったが、黒人は同胞であるはずの奴隷を容易く殺していたのだという。

アレホ・カルペンティエルの『この世の王国』はこのハイチ独立を背景として描かれた物語だが、決して史実を網羅した歴史書ではなく、かつて白人の王国であり、その後黒人の王国となったハイチを通して、人の世の栄枯盛衰と"真の王国"のある場所を模索した文学小説になっている。作中には毒殺革命家マッカンダル、反乱軍指導者ブックマン、黒人皇帝アンリ・クリストフ、ナポレオン・ボナパルトの妹ポーリーヌ・ボナパルト等、歴史上の人物が数多く登場するが、主人公はティ・ノエルという架空の黒人奴隷で、彼を狂言回しとして物語られるこの小説は、市井の名も無い黒人奴隷から見たハイチ革命の姿を描いたものという事が出来るだろう。

描かれる奴隷達の生活、そして革命と闘争のドラマは、血生臭く死と苦痛に満ちたものだが、物語全体の語り口調は決して陰惨なものではなく、どことなく明るく楽観的なものさえ感じさせる。それは南国の陽光のせいもあるだろうが、ブードゥー教への強靭な信仰がその底流として存在しているからのように思える。そしてそのブードゥーの秘儀によって様々な動物に変身する登場人物も描かれるけれども、これは呪術と魔法が現実に存在すると認識している側から見た現実の描かれ方であり、文学的スタイルとしてのマジックリアリズムとは若干違うものととったほうがいいだろう。

物語のハイライトとなるのはやはり皇帝アンリ・クリストフと要塞シタデル・ラフェリエールの興隆と没落を描いた章だろう。ハイチ革命により皇帝の座に付いたアンリ・クリストフは、20万人もの奴隷労働者を使いハイチ北部の山頂に巨大要塞シタデル・ラフェリエールを建造したが、この工事には3万人を超える膨大な死者が出たのだという。ちなみにこの要塞は現在「シタデル、サン=スーシ城、ラミエール国立歴史公園」の名でユネスコ世界遺産に登録されている。

かつての僭主国フランスの侵攻を恐れて建設され、黒人王族達がヨーロッパ貴族のような生活を営み、そして侵攻されることなく廃墟となった巨大要塞が湛える虚無感は、規模こそ違え中国の万里の長城を思わせる。皇帝アンリ・クリストフはその独裁により配下の謀反に遭い、孤独の内に自死するが、史実にも関わらずその物語はどこか神話的な様相を帯びている。というより、カルペンティエルの『この世の王国』は、物語全てが神話的であり、史実と呪術の狭間から、もう一つの歴史を記述するのだ。