■闇の列車、光の旅 (監督:キャリー・ジョージ・フクナガ 2009年アメリカ・メキシコ映画)
貧しい暮らしから抜け出すため、父に連れられてホンジュラスから夢の国アメリカへ、貨物列車の屋根に乗って密入国しようとする少女と、ギャング団での生活に嫌気がさし、そこから逃げ出した少年とが列車の上で出会い、アメリカへの危険な旅を続けるというお話です。
オレ、この物語を、メキシコからアメリカに違法入国する話だと思ってたんですが、実際は、ホンジュラスからグアテマラ、メキシコを経由してアメリカへと辿り着こうとする、長い長い旅を描いてたんですね。この距離を昼も夜も殆どずっと貨物列車の屋根に乗って過ごすわけです。まあ途中で降りて食料や水を調達したり体を洗ったり休んだりもしていますが、密入国というリスク以上に、これだけの長い時間、あれだけ暑い地方で(逆に夜なんかは寒いんでしょう)、列車の屋根で過ごす旅って肉体的にも精神的にもおそろしく過酷なもんじゃないでしょうか。でもその過酷さがあんまり伝わってこないんですよね。それと、自分の国にいては暮らしていけないからこそ密入国に命を掛けるのでしょうが、ホンジュラスという国で生きる人たちの生活がどれほど困窮し逼迫したものなのか、これはオレの不勉強のせいもあるでしょうが、これもあんまり伝わってこないんです。主人公の少女は寂しげな顔ながらもやはり辛そうに見えないし、主要人物以外の列車の屋根で移動している人たちの姿もあんまり描かれないんです。きっとこの映画の監督は、列車の屋根に乗って移動する不法移民の姿に打ちのめされ、それを映画に撮ろうと考えたのでしょうが、映像に収めたのはいいけれどそこで繰り広げられる物語の背景が掘り下げられていないような気がするんです。
だから、ギャング団から抜けた少年の葛藤を描くのはよしとしても、復讐に燃えるギャング団の追跡にあまり重きを置かないほうがよかったような気がするんですよ。むしろ、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコ、アメリカへの長い長い旅の様子を、同じ旅をする人たちの人生の片鱗を見せながら淡々と描いていったほうが、貨物列車密入国者たちの心情を描くといった意味ではよかったのではないか。そして国境巡視隊の熾烈な捜査や、それによる脱落者、またはそれにより深まる仲間との絆などを描いたほうが、より不法移民の現実を浮き彫りに出来たのではないか。この映画における、ギャング団の苛烈で陰惨な暴力の様子、そして、子供ですらその組織の中に組み込まれてゆく悲惨さ、貧困、というのも、ひとつの問題提起として見るべきものがあるのですが、逆に彼らギャング団の残虐な暴力性がサスペンス要素としてクローズアップされ過ぎてしまい、監督が本来描きたかった主題から逸脱してしまった部分があるのではないのか、とちょっと思ってしまったんです。だからここはテーマとしてセパレートすべきだったんじゃないでしょうか。
それと、主人公の少女があまりにも簡単に少年に心を許し、それだけではなく途中で列車を降りた少年を追って自分も列車を降りてしまう、という描写がちょっと納得できなかったんです。ちょっと簡単にボーイミーツガールしすぎだと思うし、そもそも、少女の内面って、この映画では殆ど描かれていないんですね。この少女が、どんなことを考え、どんな喜びや悲しみを持ち、どんな希望を持って生きているのか、映画では何も描かれません。単にアメリカに行こう、と言っている父親の言うことを大人しく聞いてくっついていっているだけなんです。それが突然自分の意思で少年にくっついて行っちゃうので、観ていて「なんで?」って思っちゃうんです。ギャングの襲撃から助けてもらった、という背景はあるにせよ、少年に付いていかなければならない強烈な動機がここで描かれないからなんです。それによってドラマは大きく動き、映画としてもアクセントになるんですが、もっと別のやりかたもあったんじゃないのかなあ。そして残酷なクライマックスとかすかな希望を抱かせて物語は終わりますが、残酷な現実を残酷に描いただけの映画ってオレ苦手なんだよなあ。オレ、甘チャンかもしれないけど、どこか映画にマジックとファンタジーを求めてしまうタチなんですよ(笑わないでよ!)。そういった意味で、題材としてとても興味深かったけど、もう一つどうにかしてほしかった惜しい映画でした。