人生は、奇跡に満ちている。〜映画『ライフ・イズ・ミラクル』

ライフ・イズ・ミラクル (監督 : エミール・クストリッツァ 2004年 フランス=セルビアモンテネグロ映画)


この間映画館で観た『ウェディング・ベルを鳴らせ! 』(拙カンソーブンはこちら)という映画が実に面白かったので、同じエミール・クストリッツァ監督作品を観てみようと思ったわけなのである。で、この『ライフ・イズ・ミラクル』を観たんだが、これがもう『ウェディング〜』同様、東ヨーロッパの山の中をブガチャカブガチャカ愉快な楽団が練り歩き、ロバだの熊だの犬だの猫だののドーブツさんたちがニャーギャーワンワンブモーブモー言いながら暴れ、素っ頓狂なオッサンやかっとんだニーチャンが画面の中をゲヒヒグフフと笑いながらうろつき、ヌボーノホホンとした主人公が町一番のすっごい別嬪さんとくっついちゃう、という楽しくもまた騒がしい物語であった。あーいいわこれ。最高だったわ。

でも本当はこの映画、物凄く重いものを抱えているんですよ。それは1991年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。この紛争は死者20〜25万人、難民・避難民200万人を超えるという第2次大戦以降ではヨーロッパ最悪の紛争だったわけなんだよ。この物語の中でも主人公ルカの息子が徴兵され、あげくに捕虜になる。そんな中ルカの悪友が敵側になるムスリム人女性を捕まえてきて、ルカの息子との人質交換に使ったらどうかと持ちかけるんだ。しかしルカとムスリム人女性は次第に恋に落ちて行くんだよ。だが戦火は益々広がって行き、二人の住む家にも砲弾が舞い込み、そして…というお話なんだ。なんだか、粗筋だけ書くと物凄く暗く重く悲劇的なお話のように思えてしまうよね。

だけれどもそうじゃないんだ。そういうどうしたって悲惨になりうる物語を、監督エミール・クストリッツァは冒頭に書いたようにブガチャカブガチャカニャーギャーワンワンブモーブモーゲヒヒグフフヌボーノホホンと描いてしまうんだ。悲劇なんかじゃなくって馬鹿騒ぎとドタバタなんだ。これはもう、悲劇を悲劇として描こうとなんかしない、監督自身の意地というかメチャクチャ頑固で確固とした反骨精神がそこにあるからなんだろうな。社会も世界も遷ろい行き、確かに存在していたと思っていた平和や幸福はあっという間に地べたに引きずり倒され、それをしてこれが現実というものなんだ、と俯きながら嘆くのは簡単なことなんだ。でもエミール・クストリッツァはそれを善しとしない。

社会も世界も信じない。多分神すらも。本当の幸福は自分の裡に、自分と愛するものの中だけにある。そう遮二無二言い切り貫き通すこと、そこにこそ自分の《現実》がある、と宣言すること、それは、過酷な現実から目をそらした現実否定であり現実逃避であるとも見えるけれども、国家体制だとか人種だとか宗教だとかでズタズタにされてしまった東ヨーロッパのこの国においては、《何を信じ、何を自らの拠り所にするのか》というのが最も重要なことだったんじゃないのか。そしてそこで監督が描いたのは喧騒と狂騒と愉悦に満ちた祝祭空間だったんだ。

どんなに世界が悲惨になろうと、どんなに現実が様々なものを奪い去っていこうと、自分の裡にある"生きているという事の愉悦"だけは決して奪えない。青い空も緑萌える山並みも輝くばかりに美しく、生けとし生けるものは生を謳歌し、音楽はどこまでも豊かで、愛する人たちはいつも自分を慰め楽しませてくれる。生きていることの愉悦は、まさにここにこそある。だから自らを貶めようとしている悲惨や悲嘆など、いちいち相手になどしていられないんだ。何故なら人生は不思議に満ち溢れ、そして奇跡のように輝いているからなんだ。この映画で描かれる喧騒と狂騒は、生きることそれ自体のざわめきであり躍動であり、そしてタイトル『ライフ・イズ・ミラクル』は、そのような生そのものが奇跡である以外何物でもない、と告げているのだと思えてならない。