オレは左右が分からない

以前日記で「自分は"向かって右"とはどこの右なのか分からない」というようなことを書いたのだが(2005年7月27日「天動説」)、要するにオレは、写真なんかで「向かって右から3番目の人」などと言われてもどっちの右から3番目なのか判断できないボンクラ頭をしているのである。
自分が主体と考えるなら自分の右側はどちらかぐらいは分かる。相手にとっての右側はどちらなのか、それも分かる。しかしモノの右側、と言われたら分からなくなるのである。例えば目の前に黒い板があるとする。この黒い板の右側とはどっちか、となると、それは黒い板にとっての右側になるのか、自分の鏡面として眺めた右側になるのかが分からない。というかモノには人格が無い以上「モノにとっての右側」という言い方は語義矛盾しているのではないか。というか既に書いていて自分で何を書いているのか全然分からなくなってきている。
さてこれが人の写っている写真だとする。するとこの写真の左側、というのは、写っている人間にとっての左側でいいのか。自分にとっての左側なのか。そして自分にとっての左、とはそもそも何を指すのか。誰が何を言おうと何が何でもオレにとってそれは左側のものであると言う強烈な自意識に裏打ちされた左で無ければならないのか。いや、それは別にどうあろうとそれほど困らないのだけれども、取り合えずなんとなく左っぽいから左でいんじゃね?といった意志薄弱な左であるのならそれは無効となってしまうというのか。つまりは自らのエゴがどう強烈に世界を規定するかによって左右の概念と言うのは変わってしまうといった類のものなのか。それほど客観的な左右というものが不確定なものであり曖昧なものであるのだとしたらこの現象世界での唯一絶対のものは存在しないと言う認識になってしまうということになるのか。そもそも現実とは何か。客観とは。主観とは何か。真理とは何か。神は存在するのか。救いはあるのか。
さらにこの写真に人物が後ろを向いているとしよう。そうすると、この写真の左側、と言った場合、写真に写っている人物にとって左側なのか、写真それ自体の左側なのか。そしてそもそも写真それ自体の左側、とは写真にとっての左側なのか、写真を見ている人間にとっての左側なのか。写真にとって、などと考えることは実は余計なおせっかいであり写真には写真の世界がありそれを一緒に酒も飲んだことのない赤の他人のオレがどうこう言うのは実は失礼に当たることなのではないか。写真個人の人格や生い立ち、人生の指標や生きる喜びを知ることも無くただ画一的に"写真だから"の一言でそれをおざなりにしてしまうことは写真と言う存在そのものを結果的に否定してしまっていることにならないのか。憲法ではどう規定されているのか。世界憲章には何と謳われているのか。アムネスティユネスコの見解はどうなのか。オレはもう分からないのである。
さらにこれに加えて"向かって"という言葉だ。"向かって右"の"向かって"とはいったい何に向かって右なのか。自分に向かってなのか。自分が向かってなのか。写真に向かってなのか。写真に写っている主体から向かって右なのか。それとも明日に向かってなのか。そして「写真に向かって」と「写真に写っている主体から向かって」とはそもそも同じことなのか違うのか。そして実は"向かって"と言う場合に主体となる"向かってさん"という存在が存在し、その"向かってさん"の許しなしには何に"向かって"なのかということを勝手に決めてはいけないのではないか。遠野物語にはそんな記述がなかったか。金枝篇にはそんな伝説が無かったか。まんが日本昔話にそんな回が存在していたのでないか。水木しげるの妖怪にはいなかったか。オレは分からないのである。オレには、分からない事だらけなのである。
何故こんなことを書くのか、というと、それは昨日書いたスピーカーのせいである。実を言うとオレはいつもスピーカーの設置を左右逆にしてしまうのである。それも、設置してから何日も経って「なんか違う」と気付くのである。しかしだ。設置したときにオレが想定した左右は、実は正しかったのではないのか。今確かに"正解"とされる左右に置き直してオレは安心しているのだけれども、しかし本当は、オレは巧妙な罠にかかってしまっただけなのではないのか。そしてこれは連綿と続く"左右の歴史"の中で秘かに企まれていた陰謀だったのではないのか。薔薇十字団の、テンプル騎士団の、フリーメーソンの、ロスチャイルドの、イルミナティの、シオン賢者の議定書の、メディチ家の、フーマンチューの、琥珀旅団の、ヤーハールと五人の姉妹の、ギャリソン機関の、ザ・ショップの、ビッグ・ブラザーの、リトルグレイの、小沢一郎の、N17銀河からやって来た赤色メタン生物の、クリンゴンの、多次元宇宙を統べる破壊神ソー・ウの、陰謀、陰謀、陰謀なのではないか。オレにはそう思えて夜も眠れないのである。
「知りすぎることは不幸。一番幸せなのは無知であること」byはあちゅう