みんなひたすらしょーもないヤツばかりだった!〜映画『バーン・アフター・リーディング』

バーン・アフター・リーディング (監督:イーサン・コーエンジョエル・コーエン 2008年アメリカ映画)


コーエン兄弟の映画とはどうも相性が悪い。「ビッグ・リボウスキ」はそのエキセントリックさからかなり好きな映画だったけれども、話題になった「ファーゴ」にしても「ノーカントリー」にしても、映画の出来こそ悪くないにしろ、どこかこの監督兄弟の底意地の悪さが透けて見えてしまい、好きになれないのだ。彼らの作品はそれほど本数を見ていないので断言できないのだけれども、どうも彼らの作品には性悪説とでもいうのか、「人間なんてこんな愚かなものですよ」というような奇妙に人を上から見下したような視点を感じるのだ。無論性善説ならいいのだというつもりはないが、この徹底した登場人物への突き放し方と冷淡さは、監督自身は安全圏内にいてモノを言っているような気にさせてしまう。

物語はフィットネスセンターに勤めるリンダ(フランシス・マクドーマンド)とチャド(ブラッド・ピット)がCIAを退職したオズボーン(ジョン・マルコヴィッチ)のとあるCD-ROMを入手し、これを元にユスリをしようとするところから始まる。これにオズボーンの妻ケイティ(ティルダ・スウィントン)、彼女と不倫関係のハリー(ジョージ・クルーニー)が絡み、事態は予想もしない方向へと脱線してゆき…というもの。予告編からは軽いコメディのようなタッチを想像させられるし、確かにコメディと言えないこともないのだが、その展開はきついブラックなもので、その笑いはどこか乾いたものであり、やはり観終わった後はコーエン兄弟の底意地の悪さと登場人物への冷淡さだけを感じる映画として仕上がっている。

なにしろどの登場人物も共感がまるで出来ない奇矯な愚か者で、辛うじてリンダとチャドの上司であるフィットネスセンターのマネージャー、テッド(リチャード・ジェンキンス)に人間味を感じることが出来るが、映画での扱いは虫けら並みであり、これも「虫けら用」として登場するための性格設定でしかないということが伺われる。この突き放し方って、コーエン兄弟がまるで登場人物を愛してないせいなんだと思う。それって単に物語を構成するための【駒】扱いってことじゃないの。

実の所、人間は愚かな存在だ、と言い捨てるのは簡単なことで、しかし愚かだからこそ愛せるのか、または絶望するのか、それを嘲笑するのか、それを描くのが表現者の態度だと思うのだが、コーエン兄弟はただ貶めてそれでお仕舞いのような描き方になってしまっている。しかしそれでは監督本人の"人間性"が除外されたままになってしまう。自らの"本性"というか立ち位置を表に出さずただ批評するのっていうのはちょっとずるいんじゃないのか。言ってしまえば表現者として"パンツを脱いでない"って思うんだよな。

ただ、この映画は出演者の豪華さやその演技を楽しむという部分が強く押し出された映画でもあり、そういった意味では決して駄作凡作ではないことも確かなんだよな。いや実際楽しかったんだけどさ、これってブラッド・ピットのバカ顔やジョン・マルコヴィッチのいつも苦虫噛みまくってるような表情やジョージ・クルーニーの勘違いモテ男ぶりやティルダ・スウィントンのクール・ビューティーやフランシス・マクドーマンドのムカツク馬鹿女ぶりがなかったら、単に嫌ったらしいだけの物語になったんじゃない?他のコーエン兄弟の映画みたいにさ。つまりこの「バーン・アフター・リーディング」って、有名俳優がドタバタを演じた「ファーゴ」ってことだったんだろうな。

■Burn After Reading Trailer