スプーク・カントリー / ウィリアム・ギブソン

スプーク・カントリー (海外SFノヴェルズ)

スプーク・カントリー (海外SFノヴェルズ)

ウィリアム・ギブソン新作、『スプーク・カントリー』。この物語では、三人の登場人物の行動をカットバックさせながら物語が進行してゆく。一人はフリーのジャーナリスト、ホリス・ヘンリー。元ロック・ヴォーカリストだった彼女は広告業界の大物ビゲンドに"臨場感アート"の取材を依頼され、作品のテクニカル・エンジニアであるボビー・チョンボーを探すが、彼は謎の多い男だった。二人目は中国系キューバ移民のチトー。彼はかつて諜報部員だったと一族で噂されている奇妙な老人に、ある不可解な仕事を頼まれることになる。三人目は薬物中毒者のミルグリム。政府の捜査官らしき男ブラウンに拘束され、強制的に捜査の協力をさせられていた彼は、ブラウンの標的である男を監視するように命ぜられる。そしてこの三人の行動と視点が絡み合い、物語に徐々に浮かび上がってくるのは、船詰みされたまま公海上をいつ到着するともなく彷徨う謎のコンテナの存在であった。

スプーク・カントリー。"SPOOK"の訳語は幽霊、変人、スパイ、蔑称として黒人などがあるようだが、実態の無いもの、影に隠れたもの、または隠されたもの、といったニュアンスということになるだろうか。即ちこのタイトルに込められた意味は、実態の無いものが闊歩する国、背後に隠されたものが跋扈する国、というふうに捉えることが出来るかも知れない。

このタイトルが表すように、物語には様々な"SPOOK"なるものがひしめいている。例えば登場人物。広告業界の大物ビゲンド、彼は強力な実業家であるがその存在と行動は謎めいており、広告業界という業態そのものもある種実態の無い夢=SPOOKを生産しているようなものだ。天才ハッカー、ボビー・チョンボー。彼の作る"臨場感アート"はヘッドセットの裏に踊る幻影=SPOOKだ。彼が利用するGPS=全地球位置把握システムのグリッドは、現実世界に重ねあわされた電子的座標=SPOOKにすぎない。中国系キューバ移民のチトー。エスニックであり移民である彼は、アメリカという多民族社会においてもマイノリティという事が出来る。そして社会とは半ば乖離した彼の一族の生活様式は、親密であると同時に排他的であり、アメリカ社会にとってSPOOKな位置にある。チトーに仕事を依頼する老人は元諜報部員であり、SPOOKそのものの存在である。

薬物中毒者のミルグリム。彼は社会からドロップアウトしたアウトサイダーといった意味でSPOOKだ。しかし彼はヴォラピュク語なる人工語を操ることが出来る。人工語、この文化歴史的に後ろ盾の無い言語は、一つの観念的な記号、SPOOKなる記号という事が出来まいか。このミルグリムを拘束する所属組織不明の男ブラウン。彼もまたもう一人のSPOOKという事が出来る。ではジャーナリストであり元ロック・ヴォーカリストだったホリスはどうだろう。彼女はバンド解散後も、消滅したそのバンドの幻影にまといつかれているといった意味では、ある種のSPOOKであるのかもしれない。そして彼らが望むと望まざるを係わらず追い続け、物語の終局に出会う謎のコンテナ。公海上をさまよえるオランダ人の如く放浪し、その所属も内容も、漂泊する目的も定かにされないそれこそSPOOKな存在であるこのコンテナは、実は、その正体自体が、政治的社会的に、そもそもSPOOKなものが積み込まれていることが最後に明かされるのだ。

実態のある世界、物事の理が確固として存在していると一見思われているこの現実世界。しかし、この世界の裏側では、知られざるSPOOKなるものが蠢き、それをSPOOKなる人々が何らかの駆け引きで持って操作し、または対抗しながら殲滅せんと行動する。しかし実態のある世界の陰であるそれらが、逆に実態のある世界に影を投げ掛ける。実態の無いもの、隠されたもの同士の世界の裏側での対立という事であれば、例えば東西冷戦における諜報戦を描いたジョン・ル・カレの『鏡の国の戦争』を筆頭に、国家間の水面下の抗争を描写するエスピオナージュ小説がかつてそのテーマを得意としていた。

しかしこの『スプーク・カントリー』では、旧弊な政治体制の中で肥大した"影なるもの"と、パラダイム・シフト化しつつある世界の中で新たに存在し始めた、オルタナティヴな価値観を持ったもの同士が相対することになる。911テロから変化した新たな世界秩序は、国家といった巨大かつ排他的なツリー状のシステムと、"中心も始まりも終わりもなく、多方に錯綜するノマド的なリゾーム*1"としてのシステムが対抗する世界なのかもしれない。それは一方の極にテロリズムが存在し、もう一方の極に『スプーク・カントリー』に登場するようなオルタナティヴな思考を持った新しい世代が存在し、旧来のシステムと拮抗してゆくという世界なのだろう。

ただ作品としてみるならば、ギブソンお得意のガジェットとサブカルチャー・テキスト、さらにテクニカル・タームの氾濫が文章を相当とっつき難いものにしており、浅倉久志氏の訳文で持ってしてもそれは払拭されているとは言い難い。十分サスペンスフルに出来得る題材ではあるが、これもギブソン流のクールでペダンチックな文体がブレーキを掛け、フィクションとしての醍醐味の乏しい作品に仕上がってしまっている。お陰でなかなか読み進めることが出来ず、途中で他の本に何度も浮気をした挙句、読了まで2ヶ月あまり掛かる結果となってしまった。言ってしまえばエンターティメントを楽しむというよりもギブソンのテキストを読み解くといった作業を強いられる読書体験のなったように思える。