- 作者: マーゴラナガン,Margo Lanagan,佐田千織
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/05
- メディア: 単行本
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いってしまえばマーゴ・ラナガンの物語は起承転結のプロットの妙で読ませるものではない。思いもしない視点で描かれた異様な現実の光景がぽんと読むものの前に放り出され、読者はその歪んだパノラマを眺めることだけを要求される。一つ間違えばこれはよく言う「ヤマなし、オチなし、意味なし」の物語に堕してしまうのだけれども、作者の”幻視”する光景が実にユニークである分、読ませる物語となっている。だから実はラストまで読まなくともどういう物語なのかはわかってしまうのだ。
特に”幻視”の様が突出している作品は「大勢の家」。最初読んでいて何を書いているのか全く分からなかったのだが、「大勢の家」とは何かを発見することで物語はようやく輪郭を与えられる。「愛しいピピット」にしてもそうだ。一人称視点で語る”ピピット”と呼ばれる存在の正体が想像できた瞬間に、これは何の物語かがわかる、という仕組み。
「無窮の光」も葬式に出掛けるだけの話をSF的に”幻視”した物語だし、また「融通のきかない花嫁」は、結婚式に臨む花嫁が爆走する物語だが、結婚式前はこんだけ舞い上がっちゃうのよ!といわんばかりの作者の描きっぷりが楽しい。「赤鼻の日」と「俗世の働き手」はどこかいやらしい味わいのするファンタジー。ピエロを次々に射殺してゆく「赤鼻の日」などはブラッドベリなども思い出させたが、マーゴ・ラナガンはブラッドベリよりも数段乱暴だ。
その中でも一種異様なのが世界幻想文学大賞を受賞した「沈んでゆく姉さんを送る歌」。土俗的な社会での野蛮な制裁行為を描いたこの物語は、やはり荒涼とした土地に住む荒涼とした人々の残酷さを浮き彫りにし、作者って立ち遅れた文明というものを相当嫌悪しているのかな、とさえ思った。さらに「ヨウリンイン」はモンスターパニックといった物語だが、これも荒々しい自然の猛威、というもののメタファーとして描かれたものと思っていいのではないか。そして「春の儀式」もまた荒々しい自然そのものが主人公のお話だったりする。
マーゴ・ラナガンの作品に現れる荒々しい自然は、作者が在住しているオーストラリアの原風景を描いたものなのだろう。そしてその地に住む人々は誰もが貧しく野卑であり、泥と埃の匂いが染み付いている。この荒野の中に住む頑迷で野蛮な住人たち、というのは、例えばアメリカ西部に存在するようなレッドネックと呼ばれている貧困農民の荒っぽさとはまた別の、文明が消失し先史民族にまで戻ってしまったかのような退化ぶりを感じさせる。作者マーゴ・ラナガンはオーストラリアの大地に住む人々にいったい何を見てしまったのだろう。