- 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
- 発売日: 2005/09/22
- メディア: DVD
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僕 - 小林薫
女 - 真行寺君枝
鼠 - 巻上公一
ジェイ - 坂田明
鼠の女 - 蕭淑美
三番目の女の子 - 室井滋
旅行センター係員 - 広瀬昌助
当り屋・学生風の男 - 狩場勉
当り屋・柄の悪い男A - 古尾谷雅人
当り屋・柄の悪い男B - 西塚肇
精神科の先生 - 黒木和雄
ディスクジョッキー - 阿藤海
個人的には70年代後半から活躍していたテクノポップバンド『ヒカシュー』の巻上公一、ジャズサックス奏者坂田明が参加しているのが面白かった。また、この映画は室井滋の劇場映画デビュー作でもある。主人公”僕”役の小林薫は村上作品の主人公という顔をしていないような気がした。ヒロイン役の真行寺君枝は陰のある美女を好演していたが、甘えたような声で喋られるとちょっとむず痒かった。また、この映画は、震災前の神戸の情景が記録されているといった意味で、貴重なフィルムであるという声もある。
物語は東京から郷里の神戸に帰省した大学生のひと夏の出会いと別れ、とでも言えばいいのだろうか。こうして書いてしまうと陳腐な青春ドラマにしか思えないのだが、そこは村上小説の原作を借りてきただけあり、一味も二味も違う出来を見せている。ベタベタしたリアリズムに囚われず、そこに差し挟まれる、物語と何も関係無いとさえ思われるものも含む様々なエピソードを通し、青春期の喪失感を鮮やかに描ききる。この奇妙に断裂した各エピソードの積み重ねが、ラストでひとつの情景となってまとまる様は、村上が心酔するカート・ヴォネガットの手法を模したものである事は間違いないだろう。しかしヴォネガットがアイロニーの作家であったのに対し、村上はやはりリリシズムの作家なのだと思う。だからこの『風の歌を聴け』は、原作も、映画も、その終わり方は、切なくて、そして乾いている。
村上小説にはオレもかなりはまった。『国境の南、太陽の西』あたりまでは熱心なファンだった。一番のお気に入りは『羊をめぐる冒険』で、何度も読み返していた記憶がある。この『風の歌を聴け』にしても非常に影響を受けた。「ビールのいいところは全部しょんべんになって出てしまう所だ」という台詞(いや、これは映画だけの台詞かもしれない)からオレはビールばかり飲むようになり、「文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、文明は終わる」という言葉からは、表現されない言葉は全て無効なのだということを思い知った。村上春樹については以前この日記で、ちょっと書いている。
村上の文章の底にあるのは「失われた世代」と呼ばれたフィッツジェラルド〜ヘミングウェイ、そしてチャンドラー的ハードボイルドへと受け継がれる情緒を廃したドライな描写の生むアメリカ文学的モダニズムだった。彼の文章の持つある種の喪失感は近代アメリカの至ったアメリカンドリームとデモクラシーの終焉とどこかで繋がっているのだ。だからこそ飽食の80年代バブルの時期にいち早く滅びの予感を漂わせた文章を突きつける事によって支持を得たのだと思う。
■オレと村上春樹
映画として観るならば、描かれた時代の風俗の古臭さが、今観ると安っぽく映って見えるかもしれない。巻上公一や坂田明の演技は味があるけれど、やはり素人臭く見えるかもしれない。また、原作を多少脚色してあり、映画独自のエピソードが付け加えられている為に、小説とは違う流れになっている事に不満を持つファンもいるかもしれない。だが、観終わってみると、これは紛うことなく村上作品の映画であることが分かる。映像は随所に実験的な試みがなされ(フランスのヌーヴェルバーグ映画を参考にしているらしい)、原作独特の断片化したエピソードの映像化を上手く成し得ていると思う。物語終盤、小林薫演じる「僕」と真行寺君枝演じる女とのラブシーンへと収束する一連の描写では、音声による台詞を廃し全てト書きで会話が映し出され、美しい音楽と相まって、どこかファンタジックにさえ感じさせる独特の映像として仕上がっている。そして、ラストに流れるビーチボーイズの『カリフォルニアガールズ』が、原作ファンの胸に、とどめを刺すのだ。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/09/15
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