レディオヘッド、あるいは私的ロック・ミュージックの終焉

In Rainbows[輸入盤CD](XLCD324)

In Rainbows[輸入盤CD](XLCD324)

レディオヘッドを聴いたのは『OK Computer』が一番最初だった。当時既にロック・ミュージックに見切りをつけ、電子音鳴り響くクラブ・ミュージックばかり聴いていたオレであったが、何故かたまたまCD店で試聴してしまった『OK Computer』は、オレがロック・ミュージックから遠ざかった一番の原因である、暗さと不安定さと孤独さがみっちりとこびりついたアルバムだった。

10代から20代の半ばまで浴びるように聴いてきたロック・ミュージックを聴くのを止めたのは、イギリスのロック・バンド、ザ・スミスに傾倒してしまったからだ。ザ・スミスのひたすら惨めで自己否定に満ちた音と歌詞は、聴いていた当時のオレの生活を歌っていたかのようにさえ聴こえ、それは聴くほどに心に刺さり、気持ちを苛んだ。ザ・スミスの音は自分の醜い姿の映った鏡を常に凝視しているような気分にさせた。しかしそれを聴き続けていたのは、治癒していない瘡蓋を剥がす様な嗜虐の篭った快感があったからなのだろう。だがそんな行為を続けていても、いずれは行き詰る。剥がす瘡蓋さえなくなり、終いにオレは体中の皮が剥がされ、ただ苦痛に呻くだけの赤剥けの化け物と化してしまった。これは、まともな状態じゃないな、と思ったとき、オレはロック・ミュージックを聴くのを止める事にしたのだ。

それから聴き始めたエレクトロニカ/テクノ・ミュージックには、忘我と陶酔があった。躍動するリズムには自己否定の欠片も無かった。病んだ肉体を治癒し、さらにビルドアップしていくような快感がそこにはあった。負けているばかりいるのにはもう飽きていた。勝つつもりも無かったが(別に勝負しているわけでもないんだし)、取り合えず、ろくでもない糞溜から自分を引き上げる必要があったのだ。その為に、ロックにあったような暗さや不安定さや孤独さを己から洗い流したかった。勿論時々そこに舞い戻ってしまうこともあったが、もう今までとは違うのだ、とも思っていたのだ。

そんな時に何故またレディオヘッドの奏でるロック・ミュージックにはまってしまったのかは分からない。ただ、レディオヘッドの音には、聴いていて、奇妙に無垢になる一瞬があった。『OK Computer』から始まって、それからレディオヘッドのCDをぽつぽつと買い漁った。2001年発売の『Amnesiac』あたりまでは追いかけていたが、最も好きなアルバムは彼等の2ndアルバム、『The Bends』だった。このアルバムは、『OK Computer』からのどんよりとした内省へと向かう前の、レディオヘッドの最もリリカルなギターアルバムであると思う。オレは、夏休み、実家に帰ると、いつもポータブルプレイヤーにこのCDを詰めて、自転車に乗りながら、田舎の車も人も通らない道を走りながら、夏でも冷ややかな北国の空気を体に受けながら、宇宙さえ透けて見えそうな青空を見上げながら、8月というにはどうにもささやか過ぎる陽光を浴びながら、目を細めて、この音を聴いていたものだった。

そう、多分この時、この線の細い、ひ弱で内省的な音が、オレの気分にフィットしたのだろう。レディオヘッドは繊細だったのだと思う。そして自分で言うのもなんだが、田舎者のこのオレも、多分、純朴で繊細な、ドン臭いあんちゃんだったのだ。だがな。朴訥な田舎の風景にマッチしたリリカルなレディオヘッドの音は、東京の苛立ち気味に早足で歩く人間がごった返す雑踏の中では繊細すぎるんだよ。ここでこの音を聴くと首項垂れたまま前を見ることが出来ないんだよ。そしてもう疲れただの傷付いただのと言ってられないんだよ。

レディオヘッドのニューアルバム、『In Rainbows』。発表当初メジャーレーベルを通さないネット配信で話題になったアルバムだ。また相当売れているようだ。聴いてはいないのだが、きっと完成度も高いのに違いない。レディオヘッドは決して日和ったりしないのだ。それは分かる。聴かなくたって分かる。そして、オレはこのアルバムを聴かないだろう。オレには、ザ・スミスの自己否定が既に必要ないように、レディオヘッドの繊細さがもはや必要ないからだ。何かの映画で、黒人がレディオヘッドのCDを見つけ、「白人の聴く音楽だな」と吐き捨てていたのを覚えている。確かに、レディオヘッドは、白人の持つ知性の最先端の場所にあるロック・ミュージックなのだと思う。だけれど、もう、それだけでは足りないんだと思う。オレはタフでありたい。負けたくない。付け入れられたくない。その為には、レディオヘッドの音楽では、もう、十分じゃないんだ。