フラット革命 / 佐々木 俊尚

フラット革命

フラット革命

■《リゾ−ム》としてのインターネット
この『フラット革命』はインターネットの発達による社会形態の変化とその要因となった背景を掘り起こし、ネットとこの社会が今後どのようなものになってゆくのかを考察した著である。タイトルになった《フラット革命》とは、マスメディアや地域社会などの”中心”が解体され、社会を構成するものの権威や言論が”フラットなもの”と化した新しい社会の価値観を指すらしい。しかしこの《フラット革命》の大意から思い浮かべたのは、大昔斜め読みした現代思想の本に書かれていた、《リゾ−ム》という概念だった。
オレの10代の頃にはネオアカデミズムなんてえのが流行ってて、流行に乗ろうというスケベ根性だけから宝島あたりのガイドブックを読んでは分かったフリをしていた。原典なんぞ読んじゃいないし読めるような読解力もなかったが、ガイドブックに載っている様な本の名前を羅列しては得意な顔をしていたのである。まあ浅ましい話だが、その時たった一つだけ原典の触りだけでも読もうとして挫折したのが、ドゥルーズ=ガタリの本だった。いやあ、最初の1ページと10分以上にらめっこしても文章が一つも理解できないんだよ。そんな浅はかなオレだったが、なんでその時ドゥルーズ=ガタリを読もうとしたかというと、《リゾーム》や《ミル・プラトー》という概念の説明が、10代の青臭い頭脳には、実に魅力的に見えたんだよ。
半可通の分際でおさらいしてみると、この《リゾーム》というのは”地下茎”という訳語が当てられるように、中心を持たず網の目のように張り巡らされた相互関連する組織のこと、らしい。これは幹という権威主義的な中心を持つツリー状の組織への対抗的な思想として提唱されたもの、らしい。当時田舎の半端なパンク少年だったオレにはこれが現在ある経済的社会的ヒエラルキーの階層を否定し新しい社会体系を提示したものの考え方のように思え、「おおおアナアキイだぜ!」などとあまり深く考えずに喜んでいたのである。勿論そこは半可通、具体的にどんな組織なのか?まではイメージできなかったから、単なるムードで盛り上がっていただけだったが。しかしそれから数十年後、その《リゾ−ム》という概念が、具体的な形になって目の前に現れたのである。インターネットである。

■《公》の無い世界
この『フラット革命』ではまず国家、企業、地域共同体、マスメディアといった強固な”中心”を持っていた組織が産業形態の変化により”空洞化=脱中心化”し、それまでその”中心”に寄り添う形で生活の安心を保障されていた社会構成員の自己同一性が揺らいでいる、といった指摘がなされる。そしてその社会形態の変化と呼応して立ち現れたインターネットが、どのようにして”中心の無い世界のネットワーク”として人々を拾い上げ、そこにどのような新しい価値観が芽生えてゆくのかを追ってゆく。ただ、思想としての《リゾ−ム》には力強いオプティミズムの匂いが漂っていたが、この《フラット革命》では、そこに問題が無いとは言えない、と指摘する。
そしてこれまでマスメディアが代表していた《公》な価値観が力を失ってゆく中で、ネット世界に新たな公共的な価値観は生まれ得るのか、その公共性をだれが保証するのか、とこの著では問いかけている。だが思うに既存のマスメディアが今すぐ全部消え去るわけではないし、結局は段階的に折衷しながら都合の良い部分を取捨選択していくだけなんじゃないのか。そしてその中で島国のように細かいセクトが生まれ集合離散を繰り返すのだろうという気がする。ただそもそも昔からマスメディアだの”公”だのをあんまり信じてないし興味も持っておらず、何かに帰属するなんて概念さえ希薄なオレなんぞは、それのどこが問題なのかよくわかんなかったりするのだが。それは”公”を必要とする人間と必要しない人間の棲み分けが生まれるだけの話じゃないのか。そしてオレは、まああくまで希望なんだが、”公”なんぞを必要としない、ただ”オレ”である存在として生きていたいと思ってしまうのだ。
あと以前「日記だのmixiだのって所詮”出会い系”じゃないの」と言っていた女性がいたのだけれど、そういった半面はあるにせよそれは一部の面しか見ていないのだと思う。”出会い系”だろうがそうじゃなかろうが、人はどうしようもなく”出会ってしまう”ことを求めてしまう存在なのだと思う。テクノロジーが人間の欲望を具現化したものである以上、これらの”人を繋ぐ装置”が今後もより進化していくことは当然だろうし、そしてどんなものであれ全てが完璧のものであることはない。一度始まった変化は止められないし、そして後戻りなど出来はしない。その中でまた新しい価値観が生まれるだけの話だ。そしてその価値観が今と比べて正しいかどうかなどという議論はまた別の話だ。オレは”真正”であり”完成された”価値観などどうでもいい。そんなものは宗教と一緒じゃないか。ただ、「物事は必ず変わっていく」というそのダイナミズムの中で、軽薄な新し物好きとして変わってゆく世界を眺めていたいんだ。「正しい観念ではなく、ただ一つでも観念があればいい(ドゥルーズ=ガタリリゾーム》)」

■インターネット社会??
ここからは余談。
だいたいオレはインターネットに”ついて”の言論はどうでもいいと思っているような人間である。ネット関連の腰の据わらない生硬な言葉がイヤでな。”集合知”だとか言われてもオレなんぞはすぐ”集合痴”だの”集合無知”だのという言葉を勝手に思い浮かべてゲシシとか笑ってしまうしな。そもそも集合してるもんが全部”知”だなんておめでたいんじゃないのか?あと”ブロゴスフィア”ってぇ言葉を聞くとなんだか”ディアゴスティーニ”を思い出して今度はどんなせこい特集本出すんだ?ホントに最終巻まで出てるのか?ハン?などと思うのな。”ブロゴスフィア”って言うより”ネットごんずいだま”のほうが面白くね?ネットイナゴ”はその点割と面白かった。だがその後”ネット水虫”とか”ネット毛じらみ”などの新たな展開が無い部分に想像力の欠如を感じたな。まあその点で言うならオレなんぞは”ネット便所コオロギ”って所かな。
つまりもともと社会に興味を持ってない人間はインターネット社会にも興味が無いのである。発言できるからって無理して発言する必要も無いと思うしな。オフ会は好きだがな!この本『フラット革命』に取り上げられているのは知的で趣味の良い高級な人たちが多いようだが、オレはそういうのともカンケーないしな。インターネット言論だけがインターネット世界じゃないだろ。そもそも”言論”ばかりのヤツって気持ち悪いしな。そしてこういうオレみたいのがいるのもインターネットなんだよ。それが多様だってことなんじゃないのか?