中国の植物学者の娘たち (監督:ダイ・シージエ 2005年 カナダ/フランス映画)


■二つの孤独な魂
湖に浮かぶ小島に一人の女性が訪れる。彼女の名はミン(ミレーヌ・ジャンパノワ)。小島に設えられた植物園で研究を続けるチェン教授(リン・トンフー)の元へ実習生としてやってきたのだ。彼女を迎えたのはチェン教授の娘アン(リー・シャオラン)。厳格な父親と二人暮しを続けていたアンにとってミンの来訪は、彼女の孤独を癒す素晴らしいきっかけだった。一方両親を亡くし幼い頃から孤児として生活していたミンにとっても、姉のように慕ってくれるアンの存在は大きなものであった。そして仲のいい姉妹のように寄り添いあいながら過ごす二人の友情は、いつしか深い愛へと変わっていった。古き言い伝えに従い108羽の鳩を放し、永遠の愛を誓い合う二人。しかし悲劇の影はゆっくりと二人を覆い始めていた。

『中国の小さなお針子』を監督したフランス在住の中国人監督ダイ・シージエによる本作は、その同性愛というテーマにより中国政府から中国での撮影を禁じられ、その為全ての映像はベトナムで撮影された。だが中国南部の植生と似たかの地のロケーションは、そう教えられなければ気付かない程である。切り立った岩山とそこを縫って流れる川が織り成す奇景。温帯植物と熱帯植物が共に生い茂るエキゾチックな植生。それらを瑞々しく輝かせる清浄な空気と豊かな雨。鮮やかに緑輝く草木の間にぽつねんと建つ古寺。生の息吹きに満ち満ちた官能的な自然の描写が、なにしろ、どこまでも、ひたすらに、美しい。そしてその中で伸びやかにたおやかに生きる二人の女の、その若々しい表情と肢体が、植物達の官能に呼応するかの如く、神々しいほどにまた、美しい。この『中国の植物学者の娘たち』は、この、”美しい”というたった一言の為に作られたような映画だ。

■禁じられた愛
物語として見るならば、このミンとアンの二人の想いが、友情から性愛へと変わってゆく変化の様の描写が、今ひとつ描ききれていないような気がした。二人の生い立ちが持つ”孤独さ”は一応説明はされるけれども、その”孤独”による魂の欠落感それ自体は描かれてはいないからだ。二人がいつも連れ添いながら生活する中で、その友情が友情に止まらず、何故抜き差しならぬ強烈な愛という形に結晶しなければなかったのか、その心理的な説明が足りていないような気がするのだ。確かにミンが温室で薬草浴をするアンの裸体を見たところがそのきっかけになったように映像的には描写されるが、それだけでは心の動きを描くといった点で少し弱いのではないか。その為、物語後半、二人がどれだけお互いの愛が強いものであるかを言葉で確かめ合うのだが、その想いの深さを裏付ける心理描写が足りない為に、観ているものはどこか上滑りしているようなしらけた気分にさせられてしまうのだ。

一方、自分の娘であるアンも、実習生で来たミンも、単なる下女でしかないように粗雑に扱う頑迷な植物学者チェンは、その厳格を通り越した嫌味な非道ぶりゆえに、どこか漫画的な存在のようにさえ感じてしまう。頑固で分からず屋の父、というのはありがちな設定だけれども、このチェンに限って言えば”傲岸不遜である”というただそれだけの性格設定しかされていないような実に記号的な存在なのだ。そういう風に観るならアンとミンの同性愛についても、”同性愛とはなにか”といった掘り下げはされず、単に”アンモラルなるもの”であるだけの行為であるように描かれている為に、これもまた記号的なのだ。勿論これは頑迷なチェンの父性を《中国》という国家に、その頑迷さに翻弄される二人の女性を中国の国民に、と揶揄されたものなのであろうが、それにしたとしてもこの心理描写の薄さは、ドラマを機械的に盛り上げるだけの結果となってしまっているのではないか。

例えば、アンとミンが一緒に暮らせるように、ミンがアンの兄と偽装結婚するエピソードがあるが、この結婚式の場面は、実はアンとミン二人の秘められた結婚式である側面も持つはずだ。だとすれば、このシーンは二人の情愛が最も高まる場面になるはずであり、これが一つの”恋愛映画”であるのなら、結婚式という愛の成就の場面でどのようにも情感的に盛り上げられただろうが、それといった描写も無い。その後の二人にしてもただべたべたと睦み合っているだけで、それがアンモラルとされている社会での同性愛を描く時の翳りや暗さ、その中での切ない想いが描かれている訳でも無い。そして悲劇的なラストにしても、何か取って付けたような予定調和的な悲劇に至ってしまっている。

■かくも美しき世界
だから、監督自身もこの映画は同性愛についての映画ではない、と語っているように、同性愛という”ひとつの愛のかたち”を描いた恋愛映画として観るよりも、風光明媚なロケーションの中で繰り広げられる美しい女性達のファンタジックな物語として観たほうがこの映画は正解なのだと思う。つまり性愛の持つ生々しい官能と破壊性を描いた映画ではなく、イメージとしてのエロティシズムをどれだけ巧みにフレームの中に捉えようとしたのか、といった映画なのだ。ただ、そういった物語的な弱さを補って余るほど、この映画での自然の描写と女優達の美しさは、いつまでも心に残るであろう程に強烈であり、鮮やかなものであった。むせ返るような自然の緑の中で秘めやかに交わされる愛の物語。かくも美しき世界。




《中国の植物学者の娘たち》公式サイト 

■中国の植物学者の娘たち トレイラー