ヘアスプレー (監督:アダム・シャンクマン 2007年 アメリカ映画)

おデブでおチビの女の子が、持ち前の明るさとポジティビティでTVダンス番組のレギュラーを勝ち取り、憧れのカッコイイ男の子とも付き合えちゃう、といった青春ミュージカル。こう書いちゃうと単なる願望充足頭カラッポ青春ムービーとしか受け取れないが、実はそんな薄っぺらなものでは全くない。デブチビな主人公の女の子トレーシーはこういった青春ムービーではむしろ脇役、キワモノ扱いであろうが、これが堂々と主役であり、なおかつルサンチマンの欠片も見せない圧倒的な肯定性と世界に対する揺ぎ無い信頼を見せ、物語はウルトラ・スーパー・ハッピー・ムービーとして怒涛の展開を見せてゆくのである。

しかもいわゆる敵役であるミシェル・ファイファー演じるところのTV局オーナー、ベルマ以外の登場人物が主人公トレイシーに徹底的に愛情を注ぎ支えまくる。これが現実なら多かれ少なかれイジメや嘲笑の対象になるだろう容貌のトレイシーをだ。ここには挫折や苦悩や逡巡は全く描かれない。だがそれらを描かないこの映画は無反省で無批評で現実味が皆無な映画なのか。いや、断じて違う。ここで描かれているのは挫折や苦悩や逡巡を既に超えた、何が何でも幸福であろうとする確信犯的な、どこまでも強固な意思である。意思であり、そして願いである。116分の映像を幸福でのみ描ききるこの凄まじい力業こそが、観る者に現実のしがらみを越えた素晴らしい高揚と歓喜を与える。だからこそこの映画は素晴らしいのである。幸福であろうと遮二無二願いそれを実現させてしまうマジック。映画でしか出来ない、叶わない、そんな夢がこの映画には満ち満ちている。そしてそんな映画があるからこそ、人は映画を愛し、映画館に足を運ぶのだ。

そしてこの映画にはもう一つ、人種差別問題が変化しつつあり、世界が新しい考えを受け入れ変わって行こうとするその瞬間もが描かれている。このもうひとつのテーマが映画に深みと厚みを与える。世界は今のままではない、変わっていくものであり、そしてそれは当然幸福なものへと変わって行くべきものなのだ。希望に満ちた新しい世界への到達を願うこと、これはこの映画の時代設定であるアメリカ60年代の空気を再現したものなのかもしれないが、それよりも、今この映画が製作され上演されている現代へのメッセージでも十分通用するものであることは間違い無い。暗く殺伐とした時代性に項垂れてばかりいてもしょうがない。幸福と希望を唱えることを空虚で無意味だと言ってしまっては何も変わりはしない。そして世界にグチグチ文句ばかり垂れていても幸福なんかになれない。自らを徹底的に肯定し、ハッピーなんだと言い逃げしてゆくことの快感。決して否定的な心情に染まろうとしない気概。映画『ヘアスプレー』は、幸福を希求することの圧倒的なパワーに溢れた映画である。

■Hairspray Trailer