ララバイ / チャック・パラニューク(著)、池田真紀子(訳)

チャック・パラニュークは『ファイト・クラブ』の原作者といえばお分かりになる方も多いだろう。彼はこの作品の他にも非常にエキセントリックでユニークな作風の作品を執筆しており、墜落する飛行機の中で綴られるあるカルト教団教祖の物語『サバイバー』、セックス依存症の主人公と、オナニー中毒の友人と、西暦2556年からやってきたと言い張る恋人、という登場人物達が織り成す物語『チョーク!』など、『ファイト・クラブ』同様実に鮮烈な印象を残す作品が多い。彼の作風はそのファナティックな饒舌さと分裂症的な筆致、過剰で無意味なデータの羅列が特徴として挙げられるだろう。彼の作品は高度資本主義社会の中で、興奮剤を与えられたこま鼠のようにぶち壊れた踊りを踊る人間達の哀れさと滑稽さが主題となっている。ラストの熱死へと向って雪崩のように増大してゆく無秩序、この崩壊感覚がチャック・パラニュークの物語なのである。ただ彼の文章は読み難い。あたかも描かれた物語そのものを模しているかの如く、描写は唐突で痙攣的に飛ぶのだ。その混乱振りが読者に眩暈に似た感覚を起こさせる。それも彼の狙いなのだろう。

今作『ララバイ』でもその冒頭から意味不明のエピソードが積み重ねられ、読むものを煙に巻く。幽霊屋敷ばかり売る不動産屋。暗闇でミニチュアハウスを作り、それを壊す男。雲を操り空に文字を形作る女。そして物語は乳幼児自然死症候群の取材を続けるジャーナリストの主人公へとやっと辿り着く。そこで彼はそれらの事故に共通する事柄から、心で唱えるだけで人を即座に死に至らしめる『間引きの歌』の存在を知り、そして自らがその歌を会得してしまったことに気付くのである。主人公の回りに続々と築き上げられてゆく死体の山。良心の呵責に苛まれる主人公が助けの手を求めた先は奇妙なコミューンであった…といった物語。これだけ書くと何か『リング』や『デスノート』を思わせるホラー小説のようであるが、今回の作品で作者の主眼とするものは”死”を支配する事によって”権力”を得てしまった人間達が狂奔する姿を描く事にあったようだ。

人が他者に”死”を与える事は究極のエゴである。”死”は”生きる”という、存在の根源にあるものを根絶やしにする。殺すという事は相手の人間の生命のみではなく、その人間がそれまで培ってきた”歴史性”の全てを奪うという事だ。そしてそれは究極の権力的行為でもある。それは国家が集権的であればあるほど死刑執行者数が多いことからも窺えるのではないか。当然ながら死刑制度は人が人を殺す制度ではなく、国家が人を殺す制度だ。つまり死刑とは国家の権力顕示行為であり、権力の強固さを示す行為でもあるのだ。そして人は、”死”そのものよりも、そのような”権力”にこそ恐怖するのではないだろうか。「死ね」という言葉で死ぬ人間はいないが、「死ね」と言う人間の”権力的態度”が、人を恐怖させ不快にさせるように。この小説『ララバイ』では、”魔術”という形で図らずもそのような”権力”を得てしまった人間の悲劇と、同様に”魔術”を得たもの同士の権力闘争が描かれる事になる。

だがしかし、今作は”死”と”権力”というテーマの大きさを持て余したようで、物語がテーマに振り回され消化不良に至ってしまい、作者がどう結論付けたいのかはっきりしないまま終わってしまう。また、メインテーマとなっている”死による支配”と対比的に描かれる”愛による支配”というアイロニカルなテーマも、最初語られたままうやむやになり、結局は平凡なメロドラマに陥ってしまっているところに不満を感じた。グローバリゼーションにより現存種が外来種に駆逐され滅んでゆくアメリカの自然環境についての言及や、家族を失ったもの同士が擬似家族となって再びよりそいあう光景や、強大な”力”を消滅させる為に旅に出る、というあたかもLOTRを思わせるモダンファンタジー的な物語構造など、掘り下げてゆけば面白くなりそうな部分はいくらでもあったのだが、作者の持ち味でもある”様々な情報がガジェットとなって飛び交う描写”が今回は”集中力の無さ”へと裏目に出たようで、興味を引く部分も多かったが全体的には未完成さを感じさせる出来となっているのが残念である。