フラガール

常磐ハワイアンセンター常磐炭鉱の規模縮小に伴い考えられた新たなプロジェクトだった。現在”スパリゾートハワイ”という名前に変わっているが、昔は「常磐ハワイアンセンター」というネーミングにひどく田舎臭い印象を持っていたのは確かだ。「東北でハワイ」というセンスが可笑しかったのだ。しかし設立された1960年代当時は”ハワイ”とはまだ憧れの土地で、それを日本に作るというのは夢のある話だったのだろう。炭鉱会社も県も地元産業を守る為企画した事業だろうし、離職者の雇用確保も考えられていたのだろうから、それなりに地元のコンセンサスは取れていたのだろうとは思うが、映画ではどちらかというと「頑迷で現実を見ようとしない炭鉱労働者」と「町興しのために体を張る考え方の新しい女性たち」という対比になっている。現実にこういった対立があったのかどうかは判らないけれど、昔の田舎の大人の男ってこんなもんだったよな、と田舎もんの一人であるオレなんかはなんとなく納得できるものがある。そしてここで描かれる少女達の世代というのは、団塊の世代の生まれであり、時代の変節点であったというのもこの対比から窺うことが出来る。

しかしこの映画を観ていると昔の日本の田舎というのは本当に貧しかったんだなあ、という気がしてしまう。高度経済成長期であったのだろうが、家々にはテレビも無く襖も壁紙も敗れ放題だ。ここでの描写がどこまで正しいのかは別としても、1960年代生まれで、寂れた地方の町で第一次・二次産業に従事する親を持つオレの家なんかも程度の差こそあれやはり貧乏たれであった。そして貧乏というものは特別憎らしいというほどでもなかったが、時として疎ましいものだった。兎に角食っていくことで手一杯で、そういった現実しか知らない親の背中を見ながら、TVの、つまりは豊かな都市から流される情報にいつも憧れていた子供時代だった。そしてそれが常に遠いものでしかないと思い知らされることに、歯痒い思いをしていたのも確かだ。新奇なものを知りながらも、自分の住む世界はいつまで経っても古臭く、新しいものなど何一つ入ってこない。そして大人はそれが当たり前だと思っている。それが疎ましかった。

映画『フラガール』は貧乏でも夢を持って前向きに生きてゆこう、というお話だ。昔は貧乏だったけれどみんな心が温かくていい時代だったね、というお話ではない。昔は貧乏で尚且つ愚かな人間がいっぱいいたのだ。そして今の時代はお金を持っていても愚かで不幸な人間がいっぱいいる、というだけのことだ。今や飢える事も無く生活に必要なものは殆ど手に入るというのに、この人達はなぜこれほど愚かで不幸なのだろう、この人達の欲しいものはなんなんだろう、と思うけれど、きっと、この人達の欲しいものはなにもなくて、ただ「もっと欲しい」とヤク切れ患者のように悪夢にうなされわめき散らしているだけのような気がする。多分みんな、自分がそんなゲームをしている事に気がついていないんだろう。オレはいち抜けた口だが。

ただ、映画の中の、頑迷で分からず屋な男達の事を、フラガールになった自分の娘を殴打した非道な父親も含めて、オレはカスみたいな連中、と切って捨てる事が出来ない。あの頃は、遮二無二働くしかない、それ以外にどうしようもない時代だったのだ。みんな、それしか知らなかったのだ。それが貧乏ということなんだ。しかしそんな中で、夢を見ようとする若い世代がいる、というそのことが美しいんだ。映画では夢は現実になり、物語はハッピーエンドに終わるけれど、現実では潰える夢など沢山あるだろう。むしろ殆どの夢は潰えてしまうんだろう。だけれども、いつまでもヘタレでいるわけにもいかない。項垂れていても明日は来てしまうし、だからあとは前向きに生きてゆくしかないじゃないか。そして夢は、また観ればいい。

とても素晴らしい映画でした。ちょっとナメてました。すいません。正直に言うと、かなりツボを突かれたらしく、最初から最後までベソかいて観てました。GW、泣きたい方にお薦めします。